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咸鏡道に加藤清正・鍋島直茂の軍が入ったのが6月初め、慶尚道や全羅道では秀吉軍侵攻とほぼ同時に義兵が起こったが、北辺咸鏡道では少し様子が違って、初めての義兵は遅れて9月中旬頃、鄭文孚による、と伝わります。咸鏡道は李氏朝鮮にとっては流刑の地で統治の程度がやや低かった(反李氏王朝の雰囲気があった・新興ヌルハチ女真との交渉摩擦があった)こと、また鄭文孚も咸鏡道の人ではなく、黄海道出身で鏡城に赴任していた李氏王朝の新米官僚だった、といいます。

逆に言うと、

日本軍だから、侵略軍だから、といって即座に抵抗やゲリラが起きたわけではなく、どういう連中で何をしようとしているのか、地元の人たちは僅か2,3ヶ月だが一呼吸置いて見極める過程があったということです。



加藤や鍋島らが残した史料も、当初は、咸鏡道統治はうまく行っているとか、地元の協力で(徴兵ないし分朝のためにきていた)二王子を早々に捕虜したとか、自慢話をしています。

夫日本国関白殿下、為改易于朝鮮国之政化、卒軍勢矣、然則朝鮮国王既退去城都、雖然、如此敢非可誅王、於到降従者、当令安住郡傍也。因茲使諸将分県治之、至此国(咸鏡道)者、豊臣朝臣清正、伝命詔専制法也、自今不可有無道之儀、更勿疑乎、越土民等速令帰宅、可専農耕者也、知之々々。

于時天正二十年六月 日  清正

咸鏡道百姓等

↓訳

日本国関白殿下が、朝鮮国の政治を変えるため軍勢を率いて(来襲し)、すでに朝鮮国王は城都を退去した。だがこのとおり王を誅することは敢えてしていない。(秀吉軍に)投降し従う者には安住の生活を保証する。

こうして諸将に朝鮮を分治しているが、咸鏡道は豊臣朝臣清正が、命令を伝え法を制する。

今よりは無道のことはあってはならない、疑うことなく、民は速やかに帰宅し農耕を専らとせよ。これを知るべし。

1592年(天正20年)6月 日  清正

咸鏡道百姓等へ
↑稚拙なメッセージですが今我らが理解する程度には咸鏡道の士民百姓長たちも理解したでしょう。
具体的にどんな指示を出したか見当はつきます↓、秀吉が自ら指示し各道共通だったはずです、とくに加藤辺りは秀吉命令に素直ですからそのままだったとみます↓。
禁制 高麗国

一、軍勢甲乙人等濫妨狼藉事

一、放火事、付人取事、

一、対地下人並百姓、臨時之課役、其外非分之儀申懸事、

右条々、堅被停止之訖、若違犯輩於在之者、怱可被処厳科者也。

天正二十年卯月6日   太閤朱印

↓訳

朝鮮国での禁止事項

一、だれであれ軍隊として濫妨狼藉すること。

一、放火すること、人を拉致誘拐すること。

一、身分の高くない農民納税者に、臨時の税や役務を課すこと、そのほか不条理を命じないこと。

右条々、堅く禁止する。違犯者があれば怱ち厳罰に処す。

1592年4月6日   太閤朱印
↑これを踏まえて↓秀吉は細かく諸将に指示しています。
掟  高麗国中

一、御法度如一書、各判形を仕、在々へ遣之、地下人可召直(置?)事、

一、兵糧改事、公方米分者、悉相改、蔵へ可入置事、

一、百姓町人還住所仕候て有之者共に、米銭金銀を相懸け不可取之、但捨置於不立帰者、可改置事、

一、高麗へ越候人数、兵糧無之には、切手次第に扶持方可相渡事、

一、かつゑ候百姓於在之者、見計かつゑさるように、令分別可申付事、

一、在々所々放火仕間敷候事、付今度乱入剋、人捕仕候は、不寄男女、其在所々々へ可返付事、

一、法度以下、猥於在之者、有様に可申上旨、誓帋を仕通、各に可申聞事、

一、高麗渡口より都迄の路次通御泊所、城々有之而、各明瞭次第に、御座所之普請可仕之旨、可申渡候、付在番仕候城近所、其法度以下申付、知行方糺明可仕事、

右之趣、能々相守、諸事無油断可申付候也、

天正廿年卯月廿六日   秀吉朱印

鍋島加賀守とのへ

↓

掟  朝鮮国中

一、御法度(法律)は↑の如し(簡単なものだ)、八道在所在社で相応しい形で交付徹底し、百姓納税者を大事にすること。

一、兵粮確認のこと。納税米の担当者は、悉く把握確認の上、秀吉日本軍の兵粮を確保し蔵で保管すること。

一、百姓町人でもともとの住所戻ってきたもの(協力者)から米銭金銀を奪取することは厳禁。但し捨て置き逃亡した者の財産は没収していい。

一、朝鮮渡海の日本軍で兵粮がない場合は、受領書(切手)を条件に支給担当は兵粮を渡すべきこと。

一、飢餓の百姓が出た場合、適宜措置すべきこと。

一、在所での放火は厳禁。今回の侵攻時捕虜としたものは男女に関らず、その在所へ戻らせること。

一、法律以前の猥褻破廉恥行為については事実を報告させ誓詞を出させ反省させること。

一、釜山から京城までの(秀吉用)宿泊所や城塞については詳細決まり次第普請すること。その周辺は治安など特にきちんと統治すること。

以上、よくよく相い守り諸事油断なく執り行え。

天正廿年卯月廿六日   秀吉朱印

鍋島直茂とのへ
↑これをもって秀吉軍は軍規厳粛で当初はいい政治をしたはずと旧参謀本部や今尚一部の先生方は説明されますが、これは軍隊というものは乱暴狼藉放火強姦しても已む無いというような「古く貧しい発想」に基づく甘い評価です。・・とんでもないことです。いずれにせよ、

・・八道すべてに秀吉が徹底を図った内容ですが、咸鏡道はその土地柄もあって当初他道に比べうまくいったらしく清正や直茂は自慢もし本土ではなくここを領地にしたいともいっているほど。それにもかかわらず、この咸鏡道でも数ヶ月しか持たなかった。なぜか。

ポイントは、秀吉式施政の「過酷な税制賦役」だったとみます。資料がなく詳細みえませんが、当時の咸鏡道あたりの税や賦役は4公6民程度だったのに対し、「日本と同じ発想で幹部からは人質をとり厳しい検地指出しを行い事実上増税を行い他方で重い労役を課し」結果本土同様2公1民〜6公4民負担となった、それが数ヶ月ではっきり見えてきた。また銀山など有力既得権も取り上げた。何か変わっていいこともあるかと期待したが秀吉(加藤鍋島)体制になっても、咸鏡道の人々にとって何らメリットがなかった、むしろ以前より重負担になったから、既得権者のみならず広い範囲で人々が反旗を上げたのだとみます。単純なことです。

ここでは「朝鮮の土地制度及地税制度調査報告」(朝鮮総督府臨時土地調査局、1920年。1591年=宣祖24年他当時の詳細資料はあるが肝心のところはかなり恣意的な推計で実態は未詳というしかない・・)より↓を孫引きしておきます。
「磻渓随録に拠れば「自中世以後、官不択人、上下相欺、年分不以実、因成久例、則雖豊穣之年、年率以為下下年、是以正税一結、無過四斗(即ち下下年の税率)而雑役名色漸多、軽者不下ニ,三十斗、重者或至七,八十斗」とあり、・・田税の外種々の名目を以って、田税額の数倍乃至十数倍を結に課したるものの如し」(p708)。
「磻渓随録」は17世紀半ば柳馨遠の社会制度・実学思想の随筆、壬辰乱の前のこととして↑。念のため訳、「中世以降、官はいい人材を投入せず、従って税制については上下がお互いに欺しあいになり、豊作不作の年で税率を違えるというルールも機能せず、慣習として豊作の年であっても、(国への納税は)下下の年の一結4斗(上上の年は20斗)で固定化してしまっていた。しかし雑役などさまざな名目で(国から)課税(有力者から)収奪され実際の税率負担率は、軽い者でも20,30斗を下らず、重い者では70,80斗だった。」・・日本の荘園制と似て王族貴族官僚軍人らがいろんな形で脱税・私有化していったらしい。また記事2549・2585ご参照。

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