被害者は日本です

人は才能の前では頭を下げないが、努力の前では頭を下げるものである

大東亜戦争について

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https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/39/06/jjtaro_maru/folder/607785/img_607785_23132206_0?20110705224122

 
 戦争時はハーグ陸戦法規という一定のルールがありました。「交戦者の資格」というものがあります。
1)部下の為に責任を負う者に在ること
2)遠方より認識し得べき固着の特殊標章を有すること(軍服などのことです)
3)公然兵器を携帯すること
4)その動作に付き戦争の法規慣例を遵守すること

 南京陥落のとき支那軍の大将はトンズラしていましたし、高級将校は安全区の中に隠れました。便衣兵は民間人の服を着て安全区の中に隠れました。武器も隠し持っていました。つまりハーグ陸戦法規に違反していたということです。交戦の資格を有しないものは「捕虜」になることはできません。

 当時の法規の認識として日本本土決戦計画の「国民義勇隊」を組織する話の中で南原東京帝国大学法学部長は以下のように述べています。

「ゲリラをしますとね、虐殺されても仕方がないのです。本当の戦闘員ですと、捕虜として待遇され、そうひどい目に遭うことはないですが、ゲリラですと直ちに殺されても文句はいえません。あれは一番ひどい目に会います」

 おそらくこれが当時の法解釈のスタンダードでしょう。現在の世の中は人権とか人道とかが確立されていますから現代感覚で見るのは誤りでしょう。南京戦で敗残兵を一部処刑していますが、これは法律上仕方がないという見方ができます。一方、違法という意見の人もおり、ハーグ陸戦法規の「前文」には、各条文の内容を「人道的見地から運用する必要」というのがあり、「捕虜の処刑に対しては裁判の手続きを要する」という人もいます。ただ、私の感覚(素人意見ですが)では現代感覚に照らし合わせた「人道」であり、当時の感覚ではないように思います。戦場という異質な状況も考慮しなければならないでしょう。

 当時の安全区にいた欧米人も国際法上の「判断」に基づく主張はなく、宣伝本であるティンパーリーの「戦争とは何か」にしてもオーストラリア人技師が「われわれは日本軍による合法的な死刑執行に対して何ら抗議する権利はないが・・・」と書いています。また、国民党政府顧問のベイツ教授でさえ、安全区に隠れていた兵士が摘発されたとき「この男がもと兵士だったならば、われわれは手出しはできない」という軍事上の判断を示しています。国民党の宣伝本やスパイでさえ国際法違反という感覚はほとんど無かったということです。亜細亜大学東中野教授の研究では宣伝本の「戦争とは何か」でも日本軍の捕虜の処刑の違法性の部分を削除し、執筆したベイツ教授が認識していたとし、国民党は国際法上の観点も研究していたはず、と述べています。



参考文献
 「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道著
 「南京事件の探究」北村稔著

添付写真
 「南京陥落後の街頭にて」(昭和12年12月20日)、林特派員撮影、同25日、朝日新聞に掲載
    〜 日新報道「南京の真相」

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転載元転載元: かつて日本は美しかった

 慰安婦問題がなかなか決着つきません。

チャンネル桜情報を鵜呑みにすると、歴史問題でアメリカは安倍政権にきつい要求をしているそうです。

日本は、防衛をすべて米国に頼り、かつ、アメリカが戦勝国史観を必要とする=原爆や東京大空襲などの戦争犯罪を隠すため、日本が悪い国であったと言う戦勝国史観が必要=慰安婦の強制連行問題を嘘と断じることができないのだそうです。


しかし、民間は動き始めています。
最近では、米国の日系人も動き始めたそうです。





 テキサス親父も慰安婦は嘘だと顔を真っ赤にして憤っておられます



テキサス親父が触れておられる文書がこれです



そして、和訳してくださった方がいらっしゃいます。



このレポートはビルマ、ミーチーナ陥落後1944年8月10日前後の、掃討作戦により捕らえられた、20人の韓国人「慰安婦」と、2人の日本民間人の取調べから得られた情報である。
このレポートは日本人がどのようにして韓国人「慰安婦」を募集したか、彼女らの生活、仕事の状況、彼女らの日本軍人に対する関係と反応、そして彼らの軍事情勢に対する理解度を明らかにする。


「慰安婦」とは、売春婦にすぎない。もしくは「野営追随プロ」、軍人の利益の為日本陸軍に付属する。「慰安婦」と言う言葉は日本人特有のものである。
他のレポートでは「慰安婦」とは日本陸軍が戦う為に不可欠なものであり、どこでも見受けられると記されている。このレポートではしかし、日本人に募集され、ビルマにて彼らの陸軍に付属していた韓国人「慰安婦」のみを扱うものである。日本人は1942年、ビルマに703名のこれらの女性を送ったと報告している。


募集:


1942年5月上旬、東南アジアの新しく勝ち得た属領で、「慰安奉仕」をさせる韓国人女性を募集する目的により、日本人代理業者は韓国に到着した。この「奉仕」の本質は特定されず、病院の負傷患者の訪問、包帯を巻いたり、軍人を明るくする事に関連する物と考えられた。
この代理業者が動機として利用したものは大金、家族の借金の返済、簡単な仕事、新天地シンガポールで新しい人生を送れるなどである。この虚偽の説明に基づいて、多くの女性が海外勤務に志願し、何百円かの前金を受けた。


これらの大部分の女性は無知で、教養が無かった。しかし、わずかながらだが以前から売春と関連があった者も居る。彼女らはサインした契約書により、家族の借金返済の為受けとった前金の金額により、6ヶ月から1年間、軍規と「舎監」に束縛された。
おおよそ、800名の女性がこのように集められ、彼女らは1942年、8月20日前後ラングーンに彼女らの舎監と降り立った。彼女らは8人から22人のグループで到着した。ここから彼女らはビルマの各地、大抵は近くに日本陸軍基地があるまあまあ大きな町へに分散していった。


最終的に4つのグループがミーチーナにたどり着いた。彼らはキョウエイ、キンスイ、バクシンロ、モモヤマであった。キョウエイの一家は「マルヤマクラブ」と呼ばれていた。が、彼女らがミーチーナに到着した後、ミーチーナ駐屯地の司令官である
マルヤマ大佐と同じ名前の為変更された。




PERSONALITY;


性格:


取調べでは、平均的韓国人「慰安婦」は約25歳、無教養、大人気なく、利己的であることを見せる。彼女は白人の基準からも、日本人の基準からも可愛くはない。彼女は自己中心的な傾向があり、自分の事を話すのが好きである。彼女の知らない人の前での態度は静かで、控えめだが、彼女は「男を手玉に取る方法を知っている。」


彼女は自分の「専門職」が好きでない事を申し立て、その事や、家族の事に付いて話したがらない。ミーチーナとレドゥーでの米国軍人から捕虜として受けた扱いにより、彼女は彼らの方が日本軍人よりも感情的だと感じている。彼女は中国とインドの部隊を恐れている。




LIVING AND WORKING CONDITIONS;


住居と仕事の状況:




ミーチーナで彼女らは大抵大きな2階建ての建物を宿舎として与えられ、各女性に個別の部屋が割り当てられ、各々の女性は生活し、睡眠をとり、業務に勤めた。ミーチーナでは彼女らの食事は、日本陸軍からの配給が無い為、舎監によって、準備されそして購入していた。
彼女らはビルマの他の所と比べて高級地近くに住んでいた。この事は彼らのビルマ2年目では特にそうである。彼らは贅沢に暮らした、それは彼女らの食事や物質は大量には配給されず、彼女らが望む品物を買えるだけの十分なお金を持っていたからである。彼女らは服、靴、タバコ、そして化粧品を買え、実家から慰問袋を受け取った多くの軍人から、多くのプレゼントを貰っていた。


ビルマに留まっている間は将兵と共に、スポーツイベントに参加したり、ピクニックに出席したり、娯楽、社交ディナー等で彼女ら自身楽しんだ。彼女らは蓄音機も持ち、町の中では買い物に行くことも許された。


PRIOR SYSTEM;


優先システム:


彼女らの業務状態は陸軍規定の元にあり、過密地域では規則は厳格に実施された。陸軍は過密地域では金額、優先順位、各種の部隊が過密して働いてる地域での計画が必要だと考えた。取調べによると、平均的なシステムは以下の通り。






1 兵士     10AM〜5PM    1.50円   20〜30分
2 NGO      5PM〜9PM    3.00円   30〜40分
3 将校      9PM〜12PM   5.00円   30〜40分




これらは中央ビルマでの平均金額である。将校は12円で一晩留まる事が許された。
ミーチーナではマルヤマ大佐が平均金額のほぼ半分まで金額を削減させた。


SCHEDULES :


日程:


兵士はしばしば建物内の混雑に不満を漏らした。陸軍は長居をする事に対し非常に厳しかった為、多くの状況で彼らは奉仕を受けずまま去らなければならなかった。この問題を解決する為に陸軍は特定の曜日を特定の部隊に割り当てた。大抵1日に付き、部隊から2人が兵士らを識別する為、建物に駐在した。秩序維持を為に、憲兵も見回りを勤めた。下記に記したものがナイミョウに滞在していた間、第18師団の各種部隊がキョウエイで使用した日程である。






兵士はしばしば建物内の混雑に不満を漏らした。陸軍は長居をする事に対し非常に厳しかった為、多くの状況で彼らは奉仕を受けずまま去らなければならなかった。この問題を解決する為に陸軍は特定の曜日を特定の部隊に割り当てた。大抵1日に付き、部隊から2人が兵士らを識別する為、建物に駐在した。秩序維持を為に、憲兵も見回りを勤めた。下記に記したものがナイミョウに滞在していた間、第18師団の各種部隊がキョウエイで使用した日程である。




Sunday ----- 18th Div. Hdqs. Staff
Monday ----- Cavalry
Thuesday ----- Engineers
Wednesday ----- Day off and weekly physical exam.
Thursday ----- Medios
Friday ----- Mountain artillery
Saturday ----- Transport


日曜    18師団、司令部、所属
月曜    機甲部隊
火曜    工兵
水曜    休日、毎週の健康診断
木曜    衛生兵
金曜    山岳砲兵部隊
土曜    輸送部隊


将校は週7日来る事が許されていた。彼女らはこの日程でも過密極まりなく、その為、全ての客に構っていられないと文句を言い、それ故多くの兵隊に悪感情をもたらした。


兵士は建物を訪れ、支払いをし、左側に順番、右側に名前の書かれた約5センチ四方のボール紙のチケットを受け取る。「彼の順番が来た時」に各々の兵士の身分、階級が明らかにされる。彼女らは客を拒否する特権を与えられており、個人が酷く酔っていた時等、頻繁に行使された。


PAY AND LIVING CONDITIONS;


給料と居住状況:


「舎監」は彼女達が契約した時に被った債務金額に次第で彼女らの総収入の50〜60%を受け取る。これによると、月平均で女性は1500円を総収益をあげ、彼女は750円を「マスター」に返済する事になる。多くの「マスター」は食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を困難なものにした


1943年後半、陸軍は債務を返済した女性へ帰省を命令し、何人かの女性は寄って、韓国へと帰国した。


この取調べでは彼女らの健康状態も良い事を示している。彼女らはあらゆる種類の避妊用具を十分に支給され、しばしば、兵士自身も陸軍から支給された物を持って来る事があった。彼女らは衛生の問題において客と自分の世話が出来る様、良く訓練されていた。


かかりつけの日本軍医が週に1回訪れ、病気が見付かった女性は皆治療を受け、隔離され、最終的には病院へ送られた。この同じ手順が陸軍内部でも遂行された。が、興味深い事には兵士は彼が拘束された(病気による隔離)期間の間、給料を失う事は無かった。




REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS;


日本人兵士への反応:


取調べにより、彼女らと将兵との間柄に置いては、二つの名前に帰結した。それらは、ミーチーナ駐屯地の司令官である、あのマルヤマ大佐と援軍を率いて来たミズカミ少将である。二人は対照的で、前者は堅物で利己的で冷淡で、部下への配慮も無い。後者は善良、親切な男で、立派な軍人であり、彼の元働く部下へも最大の配慮をする。


大佐は彼女らの常連であり、少将が訪れた事は聞かれた事が無い。
ミーチーナの陥落とともに、マルヤマ大佐は逃亡したと思われ、一方、ミズカミ少将は、部下を撤退させることができなかった故に自決した。


SOLDIERS REACTIONS;


兵士の反応:


普通の日本軍人は慰安ハウスで見られる事は、ばつの悪い事のようで、ある女性の言う所によると、「満員で列に並んで自分の順番を待つのにも恥ずかしがりがち」しかしながら、極めて多くの結婚の申し込みがあり、ある場合に置いては実際に結婚した。


全ての女性が彼女らの所へ来た将兵のうち、翌日前線へ向かう兵士と、酔った物が最悪であると同意した。しかし同様に、酷く酔った日本人兵士であっても、彼女らと機密や軍事問題を話題にする者が居ない事にも同意した。
しかし、女性の方から軍事問題を会話を始めても、将校又は下士官兵は話さず、むしろ「そのような女性らしくない話題について話す事を説教された。酔っ払ったマルヤマ大佐でさえ決してそのような問題について話す事は無かった。」

兵士はよく実家からの雑誌や、手紙や、新聞を受け取ることをいかに楽しみにしているか表現したと言う。彼らはまた、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチ、歯ブラシ、小さな人形、口紅や服であふれた慰安袋を受け取った事にも言及した。
口紅と服は女性の物であり、彼女達は何故実家の人達がそのような物を送るのか理解出来ないが、送り主は彼女自身か、現地の女かしか受け入れられなかったと憶測する。
 





お次は、韓国新聞。翻訳だそうです。


イメージ 1


「済州新聞」(1989年8月14日付)

解放44周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。(略)

しかし、この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15~16人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏づけ証言する人はほとんどいない。島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信ぴょう性に対して強い疑問を投げかけている

城山里の住民のちょん・たんさん(85歳の女性)は「そんなことはなかった。250余の家しかないこの村で、15人も徴用したすれば大事件であるが、当時そんな事実はなかった」と語った。

郷土史学者の金奉玉氏は「(略)83年に原本(私の戦争犯罪…)が出た時何年かの間追跡調査した結果、事実無根の部分もあった。むしろ日本人の悪徳ぶりを示す道徳性の欠けた本で、軽薄な商魂が加味されている思われる」と憤慨した。




確かに、ソウルで慰安婦ばあさんとしてス
カウトされる女性たちは軽薄な商魂と言
われても仕方ありませんね。

 国家のために嘘をついてまで相手国をいやしめる、と言うのは悲しい仕事だと思いますが、いつまでも嘘だと分かっていてその嘘を拡散するのはさらに下劣だと思います。

韓国は日本から保護してもらい援助してもらってずっと生きていたのに、その相手をいやしめるのに嘘を使うようです。




歴史通2011年9月号


「バターン死の行進」の虚構

本郷 アメリカがでっちあげた「バターン死の行進」についても、この本で取り上げていますね。

溝ロ アメリカが焚書にした本というのは、当然、アメリカにとって都合が悪い本なわけです。そのひとつに日本人が書いたフィリピンにおける従軍記がある。「バターン死の行進」をつくりあげるのに、これらの本が邪魔だった。ウソがばれるからです。

本郷 溝口さんは、焚書本の『比島従軍記南十字星下」(向井潤吉著、昭和十七年)を、地方の図書館で探し当てたそうですね。


溝口 この本を見つけたときが、今回の執筆における一番のハイライト場面ですね(笑)。 『比島従軍記南十字星下」には、「投降の敵将校に紅茶の接待」という、アメリカ軍将校に紅茶をふるまっている場面を撮影した写真が載っています。その写真を見ると、米兵はまるでピクニック姿ですよ(笑)。軽そうなリュックを背負っている。同じ行程を護送のため歩いた日本兵は、背嚢を背負って、銑を担いで歩いているんです。また、同じ本には「診療を待つ捕虜の列」という、野戦病院で診療を待つ捕虜の列を撮影した写真もあります。捕虜の体を気遣っているのがよく分かります。これらは米軍の一部の部隊に向けた対応かも知れませんが、日本軍は米兵を丁重に扱っていたんです。この事実はもっと知られるべきです。


イメージ 1



 また、火野葦平らが書いた『比島戦記』(昭和十八年)にも面白い写真が載っています。「海水浴をする米兵捕虜」と解説された写真があるんですが、行軍途中、近くの海岸で捕虜たちがくつろいだ様子で海水浴をしているんです。これはつまり、行軍中にそれだけの余裕があったということ、また日本軍がそれを許していたということです。

 戦後GHQが裁いたように、日本軍が、多数の死者を出すような過酷な行軍を捕虜たちに強要したとは到底思えません。他にも、「敗戦も物かはポーカーに興ずる捕虜」(『コレヒドール最後の日」、昭和十九年)という写真も存在します。参謀長としてバターン作戦に従事した渡辺三郎氏(陸士三十期)は、「つくられた"死の行軍"」(『昭和史研究所会報」第六十七号、平成十四年)のなかで、次のような回想を残しています。


 捕虜は、第一線からサンフェルナンドまで徒歩で行進し、そこから汽車で、オードネルに送られた。この徒歩行軍が「死の行進」と宣伝して騒がれ、本間将軍抹殺のキャッチフレーズである。
  このとき、護送に当った日本兵は背嚢(はいのう)を背負い、銃をかついで歩いたが、捕虜は 水筒一つの軽装であった。全行程六十五キロあまり、それを四、五日がかりで歩いたのであるから、牛の歩くに似た行軍である。
  夜は肌寒さを感ずることがあるので、日本兵は彼らのために焚き火をし、炊き出しをして食事を与え、それから自らも食べるという苦労を重ねたのであった。
  これを「死の行軍」と呼号することは、軍人のいうべき言葉ではなく、同じく行進をした護衛役の日本兵に対する侮辱であり、戦場ないし作戦の実相を無視したものである。


イメージ 2


(画像は歴史通2011年9月号から、下の写真も)


 投降兵のなかには、米軍とともに戦ったフィリピン兵も交じっていましたから、彼ら
も同じ行程を行軍しています。彼らも海水浴をしたでしょうね。また、バターン攻略戦に参戦した山田光治氏(京都第十六師団司令部部員、一等兵)の書いた『初年兵の初陣覚書』(平成十八年、私家版)には、次のようなエピソードがあります。

  戦争終結と共に、野から山から湧き出て来た米比軍の元気で陽気な姿というものは、まるでオリンツクが終了した後のクニツク気分の行進のようなもので、およそ捕虜などという陰蟹な姿ではなく、どうしてあれが「死の行進」になったのか、不思議でならない、捕虜の護送といっても、百名か百五十名に一人の日本兵が監視兵として一緒に歩いているだけであり、しかも道路の両側は、同じ民族のフィリピン人である。

  逃げようと思えばいくらでも逃げることができる。八万の米比軍中、目的地のオードネル捕虜収養所に入ったのは五万四、五千人であり、その差が行進中に亡くなったなどとは、到底考えられない話である。

 米軍はバターン半島のマリベレス周辺で降伏しました。日本軍はそれらの捕虜を一度東海岸のバランガヘ集めた。その道のりは四十キロぐらいです。おそらく、捕虜が海水浴をしている写真は、ここで撮られたものではないでしょうか。そしてバランガから、目的地である鉄道の駅があるサンフェルナンドまでは六十キロぐらいです。およそ百キロの距離を、五-七日かけて歩いた。戦後アメリカは、「バターン死の行進」と断じましたが、いったい米兵はどれだけ弱々しいのか。

イメージ 3


本郷 ジャーナリストの笹幸恵さんが、同じ行程を実際に自分の足で辿っています(「バターン死の行進女一人で踏破」=『文塾春秋」二〇〇五年十二月号)。彼女はこの道のりを四日間かけて歩き、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と感想を述べています。決してばたばたと捕虜が死んでいくような過酷な行程ではなかったんです。

溝口 「バターン死の行進」が「あったあった」という人は、『比島従軍記南十字星下』や笹さんの本を読んで、それから発言してほしいですね。

本郷 世界に通じる藤田らの日本の「戦争名画展」をどこかが主催しないものでしょうか。
                   (歴史通9月号、P167-P170より抜粋)



もう、うそは大概にしてほしいです。西尾幹二さんによるとアメリカの学者は日本の戦争責任を否定し始めているうです。もちろん一部の良心的な学者でしょうが、アメリカには自分たちの罪を認める度量があるようです。


いい加減にしないと、韓国は滅びると思うのですが…。


韓国滅ぼすのに剣は要らない。日本が国交断絶するだけでいい。





いや、これも言いすぎですね。日本が援助しなければそれで滅びますから。






 ドクター中松の勇気あるアパ懸賞論文によって日本は負けたのではなく、戦争を終わらせただけと言うことがわかりました。
 
 ドクター中松は頭脳明晰、また、実際に戦争を経験なさったこと、そしてその記述の具体性によって私は信頼するに足ると思っているのですが、正直、大東亜戦争のことはあまりにもご先祖様が気の毒で、胸が痛くて読めませんでした。=最後まで、と言う意味です。
 
 なので事実誤認もあるかもしれませんが、私は、以下の理由で今でも日本はアメリカに負けないしかつての日本も負けなかったろうと思っています。
 
 アメリカは、日本が国際連盟から委託統治を任された太平洋諸島で、補給を断たれた日本軍を破っていい気になったでしょうが、日本本土ではアメリカの方が補給が絶たれる立場です。また、日本は委託統治の外地より日本国土に精鋭を置いていたのは想像に難くない。私達は、本土に最精鋭の部隊が常識的に置かれているはずのことを忘れていました。あまりにも窮乏する物資のイメージを強調され、日本にはなにも残っていないと思い込んでしまったのです。
 
 
 よくよく考えたら、一番重要な箇所に多くの守備と防衛力を割くはずです。この当たり前のことに気がついたら、なぞは一気に解けるし、ドクター中松の論文の信憑性も高まります。
 
 
 要するに日本は負けていなかったんです。
 
 その後、ベトナム戦争や朝鮮戦争、アフガン、イラクなど考えれば考えるほど、アメリカは敵地に入ってから弱い人たちです。と言うか、勝てない。
 
 ベトナムが強いのは認めますが、日本ほどではない。何しろ、日本は当時の世界を相手に戦ったのですから。その日本が精鋭を本土に置き、米軍が圧倒的に少数となる本土で、米軍は日本の地理に詳しくないまま、勝つことができたでしょうか?
 
 私はできなかったと思います。
 
 
 (でも、終戦のおかげで朝鮮半島と切り離されたからいいんですけどね! あいつらが日本人であることの方が不利益ですから=民度低すぎ=震災があると暴れだす、日本人以外の民族に威張り散らす、暴力、虐殺など日本という国の名を汚す行為多数。それを未だに日本が責任を負わされていることを忘れてはいけないです)
 
 
 今でも、アメリカは世界最強だ、だから日本は逆らえないと言う人たちがいますが、日本はすでに大陸間弾道ミサイルを迎撃できます。ですから日米決戦になったら、即座に隼の技術をもって、もしくはミサイル迎撃システムを転用して米国の人工衛星を打ち落とし、アメリカへの精密部品の輸出を凍結、生産財の提供の中止と国産武器の生産でアメリカに対応できると思います。
 
 彼らは上陸してからはとても弱い。アフガンでも勝てなかった…。
 しかも日本の震災で世界中の生産ラインが止まったんですよ? つまり、日本は世界の生産ラインの生殺与奪の権を握っていると言っても過言ではありません。
 
 
 こんな人たちに日本が負けるわけがない。
お人よし日本人をこれ以上洗脳しないで欲しい。
 
 
 日本人が貧しく心が荒れるような今の情報戦による敗戦の方が問題です。すでに多くの人たちが貧しさのゆえに結婚もできず、自殺も10年間3万人を下ることはない。こんなに政治的に敗北を続けて生まれる前に日本人を虐殺し、毎年被害者を生産するアメリカの内政干渉を私達は許してはいけないと思います。
 
 
 アメリカシステムは世界を不幸にします。こんなアメリカの邪悪な政策を拒否して、私達は日本発、お互い様経済を発展させるべきです。
 
 
 具体的には保護貿易に戻すべきです。日本の会社は外国に進出して外国で製品を作りそれをその国で売って儲ければいいではないですか。それを日本に輸入して国内の雇用を奪いデフレを加速させるのが問題なのです。
 
 
 企業がグローバル化するのは歓迎します。しかし、企業は社会の公器であり、社会の恩恵を受ける立場であるのを忘れてはいけないと思います。企業がそれぞれの国家でその国の発展と雇用の創出を続け、その国を豊かにし、その国で儲けたお金はその国で納税しさえすれば、豊かになった人たちは企業の製品を購入し、経済の血液であるお金が滞りなく循環します。
 
 それでいいのではないでしょうか?
 
 なぜ、そうしたみんなが豊かになる方法を取らないのでしょうか?本社があるところで納税する今の法制度を変えれば企業もここまでわがままになれないはずです。今は本社を移すぞ=納税しないぞ、ですから。
 
 なぜ、自分だけ豊かになろうとするのでしょうか?
 
 
 貧困は社会不安をもたらし、企業の存続を危うくします。治安が悪くなったら工場がテロにあったり、製品が盗まれることも考えなければなりません。また、貧困は需要を減らして会社の利益を悪化させます。税金はそうならないための保険であり、国家の保護を受ける権利となります。
 
 
 いい加減、アメリカイズム、ジャイアニズムにNO!!!と言える日本になるべきです。それが世界の風潮を変え、アメリカ国民もコングロマリットに搾取される状態から抜け出すことができるようになると思います。アメリカの方法では世界は幸せになれません。
 
LOOK  JAPAは本当でした。
今こそ、江戸時代の助け合い社会を蘇らせるべきです。
 
 

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 そして日本のGDPも二位から三位に後退し、日本人の個人所得もかつての世界一から現在二十七位に落ち込んでいる。

日本はこの状況から脱却せねばならぬ。
 
 それには「超経験者」を指導者にして次世代若者を十五歳から全寮制で肉体と気力を鍛え、道徳修身を勉強させ更に世界より高いレベルの教育をしてゆく事が日本再生の基本なのである。
 
 戦争中、私の家の玄関ドアに鍵をかけなくても泥棒が人らなかった。
しかし終戦後、同じ私の家で厳重な鍵をかけても何回も泥棒に入られたことでも判るように戦時中立派だった道徳心が高い日本人に比べ、修身を廃止した戦後の日本人の道徳の疲弊は驚くべきものがある

もう一度言う。

「日本は負けていなかった」
 
これを裏付ける賀川豊彦のマッカーサーヘの終戦直後の手紙の一部を添付する。
 
『マッカーサー総司令官閣下』
陛下の詔書の一分前まで全国民の戦意は燃えに燃え陸海空三軍の銃口が一様に貴官各位の胸に向けられていた事も事実なのです。

総司令官閣下

 貴官は去る28日の厚木進駐の指揮者から進駐が平和的に日本側の満足すべき心づかいの中に先遣部隊の進駐を終了した報告を受けられたでしょう。
そして閣下は多数の日本人を眼前にされたでありましょう。

 そしてまたその日本人が口をキッと結んでいる表情に気がつかれたことと思います。日本人は最後まで戦うつもりでいました。

 おそるべき原子爆弾がやがてわが身に落下するということを予想し覚悟しなかった者は只一人もありますまい。
 
 またたとえ身は焼かれても粉砕されても戦争は陛下の指揮のあるまで続けてゆかなければならぬことを毛程も疑った日本人は一人もなかった事も事実ですが、それが、陛下の詔書によって戦争から平和へ完全に変向しました。
 
その決意の固さと新しい理想へ出発への努力が閣下の見られる日本人のキッと結ばれた口もとの表情なのです。
この様な民族が、国家が他に例を見ることができたでしょうか。』

最後に日本全国民が、もう一度「終戦の詔勅」を読むことを提案する。
 
そ して負けていないのに終戦した無念さを思い起こし、そこに書かれている陛下が示されたこれからの日本の指針「総力を将来の建設に傾ける事」「正しい道を進みその心を堅持」「国体の真髄を発揚」「世界の流れに遅れを取らぬよう」を全国民が実行することが、我が国を立派だった古き良き日本に甦らせることなのである。
 
 繰り返すが今迄「敗戦した」と殆どの人が思っている事は間違いであり、史実は「日本は負けていなかったのだ」という事を再認識し、これからの各人の行動を百八十度転換する事が日本再生の第一歩であることを確信し、日本が立ち直る起爆剤にするために本論文を発表したのである。
 
 

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