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《「南京大虐殺」があったとする一九三七年十二月と一九三八年一月。メディアはなにを報道していたか
 中国が主張して来た南京で「三十万人の虐殺」は、当時のニューヨーク・タイムズ、ロンドン・タイムズ、朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)を調査することで荒唐無稽なことは一目瞭然となる。
 
 新聞記事を検証する前に、基本的な事を説明すると、南京城内の広さは東京の世田谷区(58・81平方キロ)より狭く、城内は、(場外の下関を加えて)約40平方キロ。その約十分の一が安全区(3・8平方キロ)だった。そこには、日本軍将兵も勝手に入る事が禁じられていた。その城内では、外国の報道陣が自由に取材し、朝日新聞の取材班は約八十名、毎日新聞は約七十名の大取材班を投入していた。(昭和十三年一月号『文芸春秋』「南京へ!南京へ!」)
 ちなみに、現在、全国紙の世田谷区を担当している記者は一名で、常駐している訳ではないとの事である。世田谷よりも狭いところに、朝日新聞一社だけでも約八十名の取材班が出入りしていたとなると、電信柱一〜二本倒れても気が付く取材精度を維持していたと推察される。

 それは一九三七年十二月十七日付朝日新聞での南京戦従軍記者九名による紙上座談会で、守山記者が「皮肉な話を一つ(略)十三日(略)敵砲陣地を占領したが(略)大砲四門が何処製かと思ふか?『昭和二年大阪工廠というマークがついているではないか』(略)軍官学校の校庭に立つ(略)孫文の銅像の裏の銘を読むと民国十八年日本梅屋庄吉製造とある(以下略)」まさに中国側が言う「大虐殺」が行われていた十二月十五日頃、のんびり大砲や銅像を鑑賞できる時間があったのである。(資料5)

 その朝日の記者の一人、山本治上海支局員は「事件というようなものはなかったと思います。朝日でも話題になっていません」と「『南京事件』日本人48人の証言」(阿羅健一著)の中ではっきり答えている。また、陥落後、朝日は五回の南京写真特集を掲載している。

そのタイトルは、
① 昭和十二年十二月二十日「平和甦る南京《皇軍を迎へて歓喜沸く》」
(河村特派員撮影)

② 昭和十二年十二月二十二日「きのふの敵に温情《南京城内の親善風
景》」(河村特派員撮影)

③ 昭和十二年十二月二十五日「南京は微笑む《城内點描》」(林特派員
撮影)

④ 昭和十二年十二月三十日「手を握り合って越年《日に深む南京の日
支親善》」(林特派員撮影)

⑤ 昭和十三年二月十三日「五色旗の下に《南京復興の足どり》」(林特
派員撮影)
 などと、単発記事を交えて報道している。毎日新聞も朝日と同じような報道である。
 戦後、戦時中は、検閲で報道の自由がなかったなどといわれているが、南京攻略戦で朝日新聞の取材班全体の指揮をとった上海支局次長橋本登美三郎氏は当時の報道規制について「何も不自由には感じてない。思った事、見た事はしゃべれたし、書いていたよ」(前掲書)と証言している。(資料6)

 南京攻略戦に同行取材した日本のメディアは、朝日、毎日以外にも報知新聞(現、読売新聞)、読売新聞、同盟通信(現、共同、時事)、新愛知新聞(現、中日)、福岡日々新聞(現、西日本)、都新聞(現、東京)、福島民報など全国の主要メディアも参加していた。その他、大宅壮一、西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三、小磯良平など、作家、詩人、評論家、画家も多数、南京に入城しているが、戦後、新聞労連の活動を熱心にしていた朝日と毎日の数名以外、南京で「虐殺」があったと語ったものはいない。

 南京攻略戦当時、日本は国際連盟を脱退していたので、南京城陥落を取材していた欧米の報道機関は、単なる「第三国」の報道機関でなく、よりきびしい目で旧日本軍の動向を取材していた事になる。

 そこで、ニューヨーク・タイムズ、ロンドン・タイムズなどが、一九三七年十二月〜一九三八年一月までの二ヶ月間どのように報道していたかを精査して、朝日、毎日の記事とつき合わせると、南京陥落後の実態がより鮮明になってくる。(資料7)

ニューヨーク・タイムズとロンドン・タイムズの一九三七年十二月と一九三八年一月の記事を検証すると、一九三七年十二月は、両紙ともパネー号(米)の撃沈とレディーバード号(英)が攻撃された記事が最大のニュースである。ニューヨーク・タイムズでは、その関連記事を同十二月十三日から三十日まで連続十八日間報道している。
 また、ロンドン・タイムズでも同十二月十三日から三十一日まで四日間の休刊以外、連続十五日間報道していた。連合国総司令部(GHQ)は、極東国際軍事裁判(東京裁判)を先導するように、占領下の日本人を自虐史観に洗脳する為にNHK
のラジオで放送された「真相箱」(GHQ制作〉の中で、南京での出来事として、「我が軍(旧日本軍)が南京城壁に攻撃を集中したのは、昭和十二年十二月七日(実際は同十二月十日正午以降)でありました。

 これより早く上海の中国軍から手痛い抵抗を蒙った日本軍は、その一週間後その恨みを一時に破裂させ、怒涛の如く南京市内に殺到したのであります。この南京大虐殺こそ、近代史上稀に見る凄惨なもので、実に婦女子二万名が惨殺されたのであります。」(『「真相箱」の呪縛を解く』小学館文庫)
 右文章の十二月七日から一週間後は十四日です。それは、ロンドン・タイムズ十二月十八日の記事で「十四日…通りには死体が散在したが女性の死体はなかった」となっている同日に「婦女子二万名が惨殺された」と「真相箱」の台本を制作した事は、GHQが歴史を捏造した事になる。
 
 ちなみに、日本人洗脳ラジオ番組「真相箱」の編集に加担した邦字紙は、朝日新聞一社だけであった。また、CIE(GHQ民間情報教育局)に管理されていたNHKが「真相箱」を翻訳して放送した。(資料8)

 ここで重要な事は、一九三八年二月、国際連盟理事会で顧維鈞中国代表が南京で「二万人の虐殺」との政治宣伝の演説をした後、中国国民党関連の宣伝本「戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐」(ティンパーリー著)や、一部新聞報道で報道された以外、南京で「虐殺二万人」などと中国側が公式に提起した事などなかった。それが、再度国際機関(GHQ)で問題提起されたのは、顧維鈞中国代表が国際連盟理事会で演説してから九年後、一九四六年のGHQ制作「真相箱」の台本の中であった。
 
 
一部抜粋

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