『いつか春が』執筆日記

波乱に満ちた人生。夢に向かって挑戦する男のドキュメントストーリー。

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第30話 「ありがとう」のチカラ 「求職男」〜再就職への道〜


介護実習が始まった。
「介護」と一口に言っても、働く場所は病院であったり老人施設であったり、
はたまた障害者施設であったり。または相手の自宅へ出向いての訪問介護
だったり、いくつにも分かれる。しかも施設での介護といっても、運営形態に
よってさらにいくつにも分かれる。
私の実習は「訪問介護」という現場からのスタートだった。

実習先は二十代から六十代の女性ヘルパーさんを二十人ほど抱える事業所で、
六十代半ばのベテランヘルパーさんとの同行だった。

向かったのは八十代後半の一人暮らしの男性宅。比較的経度の障害で、足腰が
弱っているので自宅の掃除や食事のお手伝いをするという仕事だった。
うっ・・・。
古い家の玄関を開けると、生活の臭いがしみついた家々特有のニオイが鼻をついた。
アチャー・・・。
家に上がると、男やもめに何とやら・・・畳は見事なまでに薄茶色に変色し、台所の
床は油でベトベト。
床に足の裏がヒタヒタと吸い付くような感触がした。

「じゃあ最初にトイレを掃除してね」
ベテランヘルパーはそう告げると洗濯の準備に取りかかった。

ギョッ!
黒茶色のモノがあちらこちにへばりついたままの黄ばんだ便器。
今まで他人の家のトイレなど掃除したことがない私は戸惑った。
当然、これもありだ・・・。
トイレブラシを持ったまま目をつぶり、気持ちを落ち着かせようと
深呼吸をしようとしたが、逆に臭気にむせてしまいあわてて息を止めた。
(いかん、気持ちで負けようとしている)

「よし!やるぞ」
私は覚悟を決めて便器を洗い始めた。
一度動き始めると気持ちが楽になった。ニオイも気にならなくなってゆき、
風呂場の掃除に万年床の布団干し、台所のベトベト床の雑巾がけに
茶の間の掃除。
その間にベテランさんが洗濯、夕食の調理をするなど、二人で手分けして
黙々と仕事をこなしていった。

昼間は部屋の明かりはつけず、薄暗い部屋の中でテレビを見て一日を
過ごす老人・・・。
丸くなった背中を見ていると、しみじみとした思いに包まれていく。

「ありがとうございます。おかげで助かりました」
おじいちゃんが顔をほころばせながら嬉しそうに言った。
「ありがとう」の言葉に対して、何かを感じた・・・
この不思議な気持ちは何だろう?


介護の世界で必ず直面するのが「認知症」。
翌日、別の六十代のヘルパーさんと老夫婦が暮らす自宅へと向かった。

「認知症って、症状が進むとどんな感じですか?」
歩きながらヘルパーさんに聞いてみた。
認知症は症状が進行するにつれて、コンロに鍋をかけていることを忘れて
危うく火事になりかけたり、さっきまで手にしていた物をどこに置いたか
忘れてしまい、家の中の物が次々と行方不明になったり。
はたまた部屋の中で排便したり、冷蔵庫にはずいぶん前に買ってきた食材が
そのまま腐ったり。
さらに症状が進むと外を徘徊したり、家族の名前や顔も識別できなくなったり、
自分で歩くことや話すこともできなくなる・・・「単に物忘れがひどくなるとか、
そんな単純な病気ではなく、自分で生きていくことが出来なくなるのよ」
ヘルパーさんが自分の目で見てきた認知症の実態を話してくれた。

「へぇー・・・大変なんですね」
壊れていく・・・父も認知症だがまだ普通の会話ができるし、頭では何となく
分かるが、実際に自分の目で見ていないのでこの時は認知症を理解できなかった。

「いらっしゃーい」

品のある朗らかな声で出迎えてくれた女性は、私の母と同じ七十八歳。
かなり進行した認知症だと聞いていたが、見た目には品のある普通の奥様に見えた。
この奥さんの身の回りを、足腰が弱ったご主人が献身的に介護する、
いわゆる老老介護の夫婦だった。
彼女は私の母と同じように背中が丸く、背格好も母に似ていた。
見た瞬間、思わず母の姿を重ね合わせてしまった。

「私はね、ここに越してきたばかりでよく分かりませんのよ」
十年以上ここで暮らしている彼女の口癖だという。ご主人が苦笑いしながら
奥さんにお茶を入れてあげた。
片時も目が離せないので、いつもご主人がつきっきりで寄り添っている。
家の中はもちろん、買い物も外出も病院もいつも一緒・・・。たまには友達と
会ったり、自分だけの自由な時間を過ごしたいだろうが、すべて奥さんの
身の回りの世話をするための時間を優先し、自分の予定や時間が作れない。

奥さんに話しかけても意味が通じず、チグハグな答えが返ってくる。
そんな時はうんうんとうなずいて笑顔で話を聞いてあげるご主人。
「それはさっきも聞いた」「何度同じことを話すんだ」と、奥さんの言葉を
さえぎったり否定したりはしない。「○○しちゃダメだ」と自分の考えや
意見を押し付けると、奥さんはパニック状態になり泣き叫んでしまうという・・・
ご主人はそんな奥さんを受け止め献身的に介護している。
私は次第に驚きと悲しみ、そして感動に包まれていった。

限られた時間内に手際よくいくつもの仕事をこなしていくベテランさん。
私はベテランさんの指示に従い動く。掃除、布団干し、洗濯、ゴミ出し、
買い物をこなしていく。

「中島さん、訪問介護では必ず調理をせんばよ。冷蔵庫にあるもので
手早く料理を作ったり、○○を食べたいと言われたら、必要な食材を買い物に
行き料理してあげなきゃならないとよ。出来るね?」
ベテランさんが料理を作りながら私に尋ねた。
「料理・・・ですか。うーん、困りましたね。学生時代に自炊したことはあるけど・・・
あれから三十年ちかく・・・料理は自信ないですね」
「じゃあ洗濯は?」
「うーん・・・それも・・・」
今まで仕事にかまけて何もしてこなかった自分が恥ずかしかった。


「ありがとうね。ほんとにありがとうね」

二人で仕事をこなしている間、奥さんは数え切れないほど何度も何度も
「ありがとう」の言葉を口にした。
ご主人にも、私たちにも。

奥さんの無邪気な笑顔・・・。
母の姿を彼女にだぶらせて見ていた私は現場で何かを感じ始めていた。
彼女の笑顔と朗らかさが私の心に元気を与えてくれることに気づき始めた。
「ありがとう」の言葉を聞くたびに「どういたしまして」と疲れた体が
不思議なほど動く。
「ありがとう」の言葉が持つ、不思議なチカラのような気がした。

介護の現場にふれるにつれて、自分の心の中で人としての純粋な気持ちが
甦ってくる。人に対して優しくすることが偉いとか立派だとか、感謝を
してもらいたいとか、そんな思いとは次元が違う。
どこかに置き忘れていた、人としての素直な心。
目の前に笑顔で喜んでくれる人がいる、ただそれだけで自分も嬉しくなり
不思議な力がわいてくる・・・。
過酷な介護や看護の現場で働く人たちを支えているのは、この「ありがとう」の
言葉が持つ不思議なチカラなのかも知れない。

人間本来の自然な感情なのかもしれない。
いつの間にか手垢がついて汚れてしまった自分の心が洗われていく・・・そんな気がする。

夜、母に電話を入れた。
「お母さんの介護は俺がしてやるから、安心して歳を取ってよかよ」
「なんば言いよるとね。自分のことは自分で考えとるから、あたしのことは
考えんでよかよ。でも・・・ありがとう」

電話の向こうで母が嬉しそうに笑っていた。
                            次回へとつづく。

閉じる コメント(14)

ファイトさん☆お疲れ様です^^

若いとまだ感じられない心の部分がファイトさんにはありますね✿✿

読んでていろんなことを思いました。
高齢者の方の現状はちょっと悲しい部分もありますが
『ありがとう』この言葉でお互いが支えあってるような気がします。

2009/5/11(月) 午後 7:17 [ めぐむさん ]

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めぐむさん、そうですね。訪問介護の後、施設(特養)に実習に行きましたが、ほぼ全員が認知症の方でした。生々しい命の現場であることを知りましたが、この現場を一手に引き受けて支えていたのは二十代の若者たちでした。最近の若者は・・・と言えないほど彼らは純粋で心優しい若者ばかりで、思わず感動してしまいました。日本もまだまだ捨てたもんじゃないですね。

2009/5/11(月) 午後 8:08 Fight

私が嫁いだ時の事を思い出しました。義父は生活のペースを崩されるのが本当にイヤだったようで…。私がこの家に入る前から義母や義姉達にも、身の回りは触らせない人でした。
薄っぺらで変色した布団をずっと敷きっぱなしで…布団の周囲にはいつも使う身の回り品が並べて置いてある状態…。
最初は私にも触らせてくれませんでしたが、義父は汁物が好きで私が作った豚汁を初めて口にした時心を開いてくれたように感じました。
「マーサッサー。(美味しいさぁ)ヌチグスイ(命の薬)だね」と言った表情を今でも覚えています。
布団がベッドに変わり、ベトベトのキッチンがピカピカになり…。去年他界しましたが、このお話を読んでいたら義父の姿と重なってしまいいろんな事を思い出しました。
ありがとうのチカラは、人を何倍にも強くしてくれます。
ファイトさんのお母様への電話…どんな物よりも本当に素敵な母の日のプレゼントですね。

2009/5/11(月) 午後 9:51 [ mik*nt*1* ]

mik*nt*1*さん、ありがとうのチカラが何倍ものチカラをくれる。本当にそうですね。自分より年下の相手に、歳とともに素直に「ありがとう」が言えなくなってしまうこともありますが、いくつになっても素直に「ありがとう」の気持ちを伝えたいですね。

2009/5/11(月) 午後 11:49 Fight

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ありがとうって素晴らしい言葉ですね。
自分もそろそろ新しい事を始めていきます。
まだ幸いにも数件の仕事手伝ってくれって嬉しい連絡が入ります。
皆さんにありがとうって・・素直に言えます。

2009/5/11(月) 午後 11:58 [ きんのり丸 ]

きんのり丸さん、あなたの頑張ろうという想いがひしひしと伝わってきます。なんだか僕も嬉しくて元気が出てきます。
きんのり丸さんが某ユ★クロのコマーシャル用に歌ったという幻のフィルムを一度見てみたかったですね。
♪川の流れのように…今なら最高にイカしていると思います。お互いに頑張りましょう。

2009/5/12(火) 午前 1:19 Fight

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訪問介護にいきと相手の生活が見えますね。なれないけどがんばってください。

2009/5/12(火) 午前 7:13 park090623

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男の人の中には、一生経験せずにこの世をおわる方の方が多いですよね。記事にありますように、家族の様々な世話を優先し、自分の予定や時間はつくれないのが、主婦と言われる職業だと思っています。
ともすれば、家にいるから遊んでいるとか、世話は当たり前とかいわれ勝ちです。評価はこちらから求められません。世話される家族の心に託されています。ファイトさんの世界が、また広く深くなりますね。ほんとうに、よかったと思います。ファイト!です。

2009/5/12(火) 午後 2:45 Kayomi

ほんとうにそうですね。
別に感謝して欲しいわけではないけれど、ありがとう、という言葉に、こちらの気持ちが通じた思いがします。
何をするにしても、心の通い合いが働く力を増してくれるようです。
人として、良い経験をされていますね。

2009/5/12(火) 午後 3:38 アジカン

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PARKさん、ホント、相手の生活の中に入っていくわけなので互いの相性もあるし人柄、細心の注意と気配り、幅広い技術や生活のプロとしての家事などの付加価値能力も求められます。スケジュールにそってで行うチーム介護と自分のペースで仕事をこなすほうがお好きな方は訪問介護。ベテランさんは私に「あなたは一目見て施設向きだと分かったよ」と言いました。

2009/5/12(火) 午後 8:10 Fight

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kayomiさん、アジカンさん。おっしゃるとおりです。家事の大変さが分かりました。調理だけでなく買物もしなければならないし、食べたら食器洗い、選択したら干さなければならないし、干したら洗濯物をたたむ仕事も出てくるし、アイロンがけもあるし。家事は生活する限り永遠に途切れることがない仕事ですね。施設実習では一日に何回も茶碗洗いをしました。人数が多い分、茶碗洗いも結構な時間がかかりました。介護はベッドや布団のまわりだけでなく、食事から掃除・洗濯など生活全般に関わる仕事ですね。うん、すごい仕事です。

2009/5/12(火) 午後 8:20 Fight

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10年以上の単身生活で家事は殆どできるようになりました。しかし、それは自分のためのもの。他人の世話まではとてもできません。特に「臭い」が苦手ですね。一軒一軒違う臭いがしますが、特に高齢者宅は格別です。そこにネコでも飼ってたら、たまらない。私自身の介護へのネックはそこにあります。まだ、施設ならよいのですが訪問介護はしり込みします。慣れの問題かもしれませんが、また、そこらのレポートを期待しています。

2009/5/12(火) 午後 10:30 [ nor**ki0921 ]

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「いつか春が」と同様、その場に居合わせたような錯覚を
抱くほど、具体的な描写ですね。
ただ・・・介護は美談にしてはいけない気がします。
事例として出てくる老老介護の男性ですが・・・
定期的なデイサービスの利用や施設で時々、面倒みて
いただいて、リラックスするゆとりを持たないと
神経が参ってしまう、と思います。
昔のように家族の手が揃っていれば自宅介護もいいですが
私はひとりの肩に全部の責任がのしかかるような
今の時代の自宅介護には反対です。

2009/5/13(水) 午後 11:14 [ pilopilo3658 ]

pilopilo3658 さん、説明が足りなくて申し訳ありません。奥様は週二回のデイサービスに行かれていますので、ご主人にとっては、その時だけが唯一の自分の時間のようです。
家族の介護の苦悩については、まだ自分の目で確かめていないので言葉不足は歪めませんが、介護業界が抱える厳しい現実や問題点については、これから描くつもりです。現場はそこで働く人達の頑張りによって支えられている半面、過酷な労働環境と待遇を見て愕然としました。仕事の質や量に比べて、あまりにも冷遇されています。行政が考える介護行政の在り方と現場での介護実態との間には大きなズレがありますね。今年は介護の求人にも異変が起き始めています。介護の世界でも資格があっても年齢が壁となり、簡単に就職が出来なくなってきたようです。

2009/5/14(木) 午前 1:54 Fight


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