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http://www.youtube.com/v/5QF0e_rJ7JE 〜冤罪事件の家族として思うこと〜 足利事件の犯人として刑が確定していた菅家さんが18年ぶりに晴れて釈放。 テレビに映し出される菅家さんの一言一言にうなずきながら胸が熱く なった。 「今、どんなお気持ちですか?」 マイクを差し向けられた瞬間、菅家さんは言葉につまった。 無実であるのに犯人とされた時、本人とその家族は何を考え、どのような 生活を送るのか。今まで耐えてきた悔しさや怒り・・・言葉では伝えきれない。 菅家さんだけでなく、冤罪事件を闘った父や私の心中は同じだと思う。 今なお全国には無実を訴えて闘い続ける人たちが大勢いる。その闘いの 裏側には、本人だけでなく家族の闘いもある。 無実である人間が逮捕されて起訴された瞬間から、本人もその家族も、 世間とは違う時空間の中で生きていくことになる。 世間では正月やクリスマスだとお祝いするが、犯人とされた家族には 楽しいとされる行事や祝い事など、すべてが生活の中に存在しなくなる。 友達と酒を飲んだり、花見や旅行、とにかく人の笑顔や笑い声など聞きたくも ないし見たくもなくなる。世間からどんどん遠ざかっていく。 苦しくて辛くて、本当は誰かにすがりつきたい心境になるのだが、世間一般の 感情からすれば一緒に闘うことは裁判に関っていくことであり、深入りしたく ない。「あの人がまさかそんなことするわけがない」と信じていても、事件の 真相がよく分からないので見守るしかない・・・それが世間一般の反応ではない だろうか。犯人の家族という立場でなければ、私自身もたぶんそうしていたと 思う。こうして逮捕された瞬間から、本人も家族も「孤立無援」という状況に 追い込まれていくのだ。 マスコミは逮捕、起訴、初公判までは大きく報道するが、その情報源は警察や 検察からの一方的な情報であり、捜査当局は逮捕・起訴したからには当然、その 人間を犯人にしなければならない。世間にとってもマスコミ報道だけが唯一の 情報源であり、犯人とされた本人や家族は一言も反論の機会がないまま、 こうして世間の誰もが犯人として疑わない状況が作り出されていく。 その結果、必ず発生するのが報道被害や風評被害。 本人や家族の言い分は無視され、噂だけが一人歩きし、噂に噂が重ねられて いく。その偏見の目は家族にも及び、仕事や結婚、就職などさまざまな場面に 影を落としていく。「逮捕された本人と家族は別だ。そんな偏見や差別などない」 と言う人もいるが、世間には通用しない。偏見や差別の目が、本人だけでなく 家族にも向けられてしまう。今まで築き上げた信用や人間関係が音を立てて 崩れていくのだ。これが現実なのだ。 見えないところで心無い人たちの誹謗中傷の声が飛び交い、被告とされて しまった本人やその家族の心に深い傷を残していく・・・。 マスコミ報道に拍車がかかり、世間でもさまざまな噂が交錯し、このような 状況が完全に出来上がった状況の中で刑事裁判が開始される。 刑事裁判は被告を何としてでも有罪に持ち込もうとする検察側と、必死で無実を 訴える被告側との闘いだが、法廷には検察に有利な証拠だけが提出され、被告に とって有利なアリバイ証拠や物的証拠は検察内部に隠されたまま裁判が進められ ていく。検察側は被告に有利な証拠は法廷に提出しなくてもいいという、あまり にも不公平な行為が法律で認められているのだ。 被告側には弁護士であろうと捜査権もないし、ほとんどの証拠は捜査当局に押収 されていて手元には何一つ残っていない。無実を証明するためには被告側が、 独自に証拠を集めて自らの手で立証しなければならない。 菅家さんの場合も弁護側からDNA鑑定という新たな証拠が提出されたことで 裁判は動いたが、それがなければ・・・。私の父の裁判も、父のアリバイ証拠を 見つけ出すことが出来なかったら犯人とされてしまっていた。 24時間年中無休で朝から晩まで事件の真相を追い続けて、やっとその証拠を見つけ たのは父が逮捕されてから四年目だった。しかもその証拠は検察内部に隠されて いることをつかんだが、それでも立証しなければならなかった。 関係者に話を聞こうと自宅に押しかけたり、断られても断られても証人や証拠を 見つけるしかなかった。 無実なのにそれを証明する証拠や証人が見つからない・・・。 無実を訴えれば訴えるほど裁判は長引き、次第に強い絆で結ばれていた家族や その他の人間関係にも影響が出始め崩壊していく。 最後は自分自身との精神力の闘いであり、これが裁判の本当の苦しみなのだ。 起訴されてしまうと99.9%が有罪とされてしまう刑事裁判。 つまり、被告を有罪にするための手続きが刑事裁判なのである。 無罪が確定したら傷が癒されるかというと、それは違う。 どんなに忘れようとしても忘れることはできないのだ。 一生消えることはない。 冤罪事件の悲劇は、裁判で無実を証明してもその後の人生にも大きく影響して くる。捜査当局や裁判所からは「犯人ではなかった。申し訳ありません」という 謝罪は一切ないのが通例だ。 菅家さんの場合を見ても、今はマスコミは司法や捜査当局を厳しく批判するが、 当時は司法同様に犯人視した報道に偏っていなかったかを検証すべきで、マスコミも 事件当時は「犯人」とした記事を報道したわけだから、まずは本人に正式に謝罪 すべきではなかろうか。 「冤罪」という言葉が正式に報道で使用されるのは無罪が確定した後である。 それまでは「無実の訴え」などの表現にとどまり、無実でも有罪とされた場合 には「冤罪」という言葉は使用されない。 私の父の冤罪事件の場合は無罪が確定した後も「冤罪」という言葉は一部のテレビでは 使われたが、新聞では一切使われることはなかった。私の本が出版されて、本を読んだ 記者が初めて事件の真相を知り「冤罪」という言葉を使った。 事件から八年後に初めて「佐賀市農協背任事件」を「冤罪事件」という表現で報じる ようになったのである。 冤罪事件の闘いは無罪を勝ち取った後も続く。 事件によって失った信用や名誉の回復、経済的損失、メンタル面でのサポートなど 生活の建て直しや社会復帰に向けた補償や支援などは一切ない。本人に対しては拘留 または服役した日数に応じての日当が支払われるだけだ。 例えば半年間拘留されて保釈された後、10年かけて裁判を闘った場合、半年分の日数分 だけ刑事補償として1日1万円ちょっとが支払われる。これでは弁護士費用の足しにも ならない。もう一度仕事に就こうとしても何のサポートもない。 ましてや家族への補償やサポートなどあるわけがなく、すべて自分で人生の建て直しを はからなければならない。 このように冤罪事件の裏側には、報道されないさまざまな人生ドラマが存在する。 裁判が終わっても人生の闘いは続くのだ。事件を引きずりながらも懸命に再起を めざしての闘いは続く。 裁判員裁判が始まった。裁判員となった方々の司法の建前と本音を見抜く目に 期待するしかない。冤罪事件は権力によって引き起こされる被告とその家族の 人生を崩壊させる犯罪である。 警察や検察が逮捕・起訴するからには、十分な捜査を行ってから慎重に決断すべきだ。 間違いでは絶対に許されない。冤罪事件で失うものはあまりにも大きすぎるし、 二度と元には戻らない。「捜査は妥当であった」というならば、なぜ無罪ということが 起きるのか。妥当でなかったから起きたのである。 「そのことはもう思い出したくない」と当時の捜査関係者は苛立ちを見せるが、 被告とされた本人や家族は思い出したくなくても忘れることが出来ないのだ。 無実の罪で裁かれる人や理不尽な裁判を闘い続ける人たちの叫びは同じだ。 「人生を返してくれ」 冤罪事件を防止するには慎重な捜査と取り調べの可視化しかない。 冤罪事件がどのようにして作られていくか・・・ この本は真実の記録です。本ブログの左側の書庫にある「いつか春が」を 読んでいただくと冤罪裁判の本当の実態が分かります。私に出来ることは 冤罪事件を二度と起こさないようにするために、冤罪事件がどのようにして 作られていくのかを世間に訴えることです。 http://blogs.yahoo.co.jp/rainrain1192/archive/2008/07/13 「いつか春が」連載 1話★「密室での取調べ」…老いていく父 ■テレビ朝日「ザ・スクープ」動画配信・・・この番組を見れば冤罪の実態がよく分かります。
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/update/special_back/20060305_010.html 2006年3月5日放送「検証!佐賀市農協事件」(前編・後編)40分 |
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第38話 心に太陽を 「求職男」〜再就職への道〜
面接の日程が決まり準備を開始した。雇用状況が悪化する中で、今までは業種や職種を絞りきれないままだった。 次々と書類選考で落とされ、次第に焦りと不安が募りパチンコ店やカラオケ店の 店員、旅館の住み込み従業員、食材の宅配員にも応募したがすべて断られた。 最後は遺体の搬送係への応募も考えた。 応募しても応募しても、面接にさえたどりつけない現実に打ちのめされ、次第に 追い詰められていくばかりだった。 そんな中で「介護」という未知の世界に飛び込むことを決意した。 一度人生の歯車が狂ってしまったが、今度こそ新しい人生をスタートする。 そういう決意のもとにヘルパーの資格を取り、再び就職活動を開始しようと したが、ここで自分に「待った」をかけた。 今までと同じ方法では、同じ結果に終わるかもしれない。 介護業界について研究すればするほど、ここでも年齢の壁が存在し、実務経験や 資格が大きくものを言う世界であることが分かった。そこで、自分の性格や 適性に合う運営形態の企業に絞り込んだ。 ハローワークの求人検索では「福祉」というキーワードで検索すると2000件あまりの 求人が表示されたが、ほとんどが看護師か歯科衛生士、介護福祉士で、介護職は わずかだ。正社員でも実務経験がない場合はボーナスなし、ベースアップなし、 退職金なしという厳しい条件が多い。 しかも、大半はパートや契約社員が目立つ。結局、勤務地などで絞り込むとハローワークの 求人欄で見つけたのは、2000件あまりの中から3件だけだった。 これはまさに非常事態だ。 求人雑誌にもハローワークにも載らない採用情報を、自分のカンと根気で探していく しかなかった。 そんな中でつかんだ面接のチャンス。 こうなると一回一回が真剣勝負だ。 今までの面接の経験を踏まえて、もう一度最初から準備をやり直すことにした。 もう一度、原点に戻ろう。 以前のカンを取り戻そうと、まず自己分析を行った。いろんな分析方法があるが 自分自身に対してSWOT分析を行った。事業戦略を練りあげる時に使っていた分析法だ。 自分で自分の強みや弱みを客観的に分析した。 自分を見つめなおすという行為は決して楽しいものではない。 情けなくもあり辛いものだが、今までの状況から抜け出すには避けては通れなかった。 その結果を参考にしながら職務経歴書の作り直しに取り掛かった。 今までは各種プロジェクトの座長や委員を務めたりしていたことを、少しでも多く 知ってもらおうと並べたてて記載していたが全部スッパリと削除した。 代わりに人柄が分かるプロフィールを作成し、見やすさを重視した画像と職歴だけの シンプルな様式に作り直した。実務経験もない上に、全く違う異業種からの転職と 思われがちなので、今までの経験が介護の仕事でいかに活かせるかを知ってもらう ための添付資料も作成した。 わずかな面接の時間で、あれもこれも話そうとすると、伝えたいことが多すぎて 散漫になり空回りする。それを防ぐために、自分の伝えたいことや本来の自分を 知ってもらうためのプレゼン資料として作成したが、こんな資料を提出する者など 誰もいないはずだ。 いちかばちかの勝負に出ることにした。 面接当日の朝を迎えた。おろし立てのスーツに身を包みネクタイを締める。 面接場所となる会社へ車を走らせる間に心を鎮めることにした。 気持ちが高揚しハイテンションになりがちな自分の性格を抑えようと、 映画『おくりびと』のサントラ盤を聴きながら向かった。 曲に合わせて映画の場面を思い浮かべながら、介護の仕事は人の命と向き合う誇り高い 仕事であることを再確認していった。 「おはようございます。面接でお伺いした中島と申します」 応対に出た女性社員に部屋に案内されると、一枚の用紙が手渡された。 設問に対する記述式の論文用紙だった。僕は目を閉じて自分の考えを頭の中で 組み立てていった。 以前は話すことが仕事であったが、やはりブランクを感じた。 先日、ある社長と面談した際に自分の伝えたいことが空回りしていることに気づかされた。 雑談ならともかく、理論的に相手を納得させる話術というものは日ごろから鍛錬して おかないと、いざという時にうまく伝えきれなくなる。 僕は人と接することを避け、いつも一人で行動していたために、いつの間にか人に 論述的に考えを伝えることに大きなブランクが生じていた。 おまけにいつも必死で「父は無実だ」と訴えてきたので、話す時もつい自分の想いを 熱く訴える癖がついていた。伝えたいという想いが空回りしてしまう。 やはり八年というブランクは大きかったが、文章でならば自分の考えを的確に 伝えることが出来る。僕にとっては話すことよりも文章で伝えるほうが好都合だった。 鉛筆が紙の上を走る。 設問に対する理論構成はいいか。僕は書き上げたばかりの文章をチェックした。 「書き終わりました」 「では只今から面接へと移らせていただきます」 僕は別の部屋へと案内された。 先ほどの論文で気持ちが落ち着き、自分でも僕の表情は穏やかであることが分かった。 少しばかりの緊張はあったが、何の気負いもなかった。 背筋を伸ばして静かに目を閉じると、その時を待った。 どれくらい待っただろうか、ドアが開くと、「お待たせしました」と面接官が入ってきた。 品のある端正なる顔だちの紳士は、僕と同年代くらいの男性だった。 挨拶を交わす二人。 「さあどうぞ、おかけになって下さい」 椅子に腰を下ろすと、早速、履歴書と経歴書、それと添付資料が広げられた。 「先ほど論文を書いてもらっている間に全部目を通させて頂きましたよ」 面接官は添付資料を手に取りながら笑った。 こんなふざけたモノを出してと嫌がられないかと心配したが、面接官の笑みを見て ホッとした。 「(あなたのことが)だいたい分かりましたが、実務経験はないのですね」 「はい、まだ資格を取ったばかりなので実務経験はありません。もし採用して いただけたならば、最初は現場で勉強させて頂きたいと思います」 うなずく面接官。 面接官は履歴書や経歴書に書かれた内容に沿って訊ね、僕は丁寧に答えた。 なごやかな二人の会話が続いた。 「では、何かお聞きしたいことがありますか?」 「はい、私は五十歳ですが現場では私と同じくらいの年代の男性はおられますか?」 「うーん・・・四十代の女性社員とかは若干おられますが、男性は・・・うーん、少ないですね」 「平均年齢は何歳くらいでしょうか?」 「そうですね、だいたい二十代半ばくらいでしょうかね」 (やっぱりそうか・・・) 不安が胸をよぎったが、顔には出さなかった。 こうして30分あまりの面接が終わった。 「本日は面接の機会を頂きありがとうございます。では、よろしくお願いします」 僕は丁寧にお辞儀をして会社を出た。 結果がどうであろうとベストを尽くしたという気持ちで、心に太陽をともしたような 晴れ晴れとした気分だった。 最初の挑戦が終わった・・・。 つづく
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第37話 チーム「求職男」〜再就職への道〜 「もしもし、御社の採用に応募したいのですが、ちょっとお聞きして よろしいですか?」 募集年齢を10歳以上過ぎているし実務経験もゼロ。 僕はその会社の応募資格には該当していなかったが、意を決して電話をかけた。 「はい、何でしょうか?」若い女性社員が応対した。 「あのですね、私は年齢は50才で、先週、ヘルパーの二級の資格を取ったばかりで 実務経験はありません。それでも御社に応募したいのですが・・・可能でしょうか?」 「ええーっと・・・そうですね。一応40歳までの実務経験者となっていますが・・・」 電話の向こう側の女性は困り果てた声に変わった。 「今年の二月に行われた就職面談会の会場で御社のご説明を伺い、介護の世界に 興味を持ち、御社で頑張ってみたいと思いましたが、全く資格がなかったので ヘルパーの資格を取りに行ってきました。先週やっと二級の資格を取りましたので、 応募規定に該当していないのは百も承知ですが、応募が可能かどうか・・・どうしても 自分で確認したくてお電話しました」 「そうですか・・・ありがとうございます。でもですね・・・」 「やはり応募は無理でしょうか」 「うーん、そうですね・・・ちなみに前職はどんなお仕事をなされておられましたでしょうか?」 僕は卒業後、製薬メーカーからドラッグストアの経営、その後、行政官庁の人材育成や まちづくりの講師をしていたことを話した。 (相手の反応が見えない・・・このままでは電話だけで終わってしまう。そんな気がした) 「まちづくりは『ひとづくり』の仕事なのです。疲弊して行く町や村に入って、最初は 何をしても無駄だとあきらめている地元の人たちに、夢や希望を示しヤル気や頑張ろうと いう意欲を芽生えさせるのが仕事です。業種は違っても介護は『人』がすべてでは ないでしょうか。私は今までの経験を生かして喜びや感動を与える最高の介護チームを 作りたいのです」 何とかつなぎとめようと、つい、いつものように熱く語ってしまった。 「・・・そうですか。わかりました。とりあえず上のほうと検討してみますので、後で ご連絡いたします」 何とか電話だけで終わらずに済んだ・・・ホッとした。 こうして会社からの連絡を待つことになった。 その会社は、私が介護の世界へ進もうと決断したきっかけの会社だった。 今年二月の就職面談会会場だった。 初めての面談会ということもあり意気揚々と出かけたが、そこで見た光景は僕が 抱いていたものと違っていた。ハローワークでは年代を問わず大勢の求職者の姿を 見てきたが、この会場は二十代から三十代の若者であふれ、中高年の姿はどこにも 見当たらなかった。 (おかしいな?なぜ中高年の人たちはいないのだろう) 会場に設置された各企業の面談コーナーを回って、その理由が分かった。中高年の 求職者は、求人の対象外であることに気づいた。 「申し訳ありませんが、当社では今回の募集は30歳までとしていますので・・・」 「恐れ入りますが当社では若い社員ばかりですので・・・」 どこも行くあてがなくなり、せっかくだから空いたコーナーで話だけでも 聞いてみようと会場を見渡した。 ガラガラのコーナーはと・・・あった、あった。保険、タクシー、介護企業のコーナー だった。 介護か・・・良さんが進んだ世界だ。 彼は僕にとってかけがえのない友だった。どん底の日々の中で心がすさんでいく僕を 立ち直らせてくれたのは彼だった。 彼はいつも僕に言った。 「俺はね、新しい人生を切り開こうと思ってね。一度きりの人生だから、後悔したく ないしさ。俺は今が青春だよ。アハハ」と。 そんな彼が目指したのが介護の世界だった。 あれから年月が過ぎ、挫折を繰り返しながらも、僕は再び新しい人生を歩もうと 就職を決意した。しかし、どこを目指せばいいのか進むべき道が見えずに迷っていた。 会場でふと良さんの顔が浮かび、介護企業のコーナーへと足を進めた。 「あのう・・・現在49歳(その時はまだ50歳でなかった)ですが、こちらでは 応募は可能でしょうか?」 「はい、大丈夫ですよ」 (よかった!)初めて相手にしてもらえた。 「少しお話をお聞かせいただけませんか?」 「ええ、いいですよ。どうぞお掛けください」 生来の探究心から介護業界についての素朴な疑問をぶつけた。 ひととおり話を聞いたあと、本題に入った。 「介護業界では私のような男性でも働けるのでしょうか?ヘルパーの資格も ありませんが」 「男性の方でも大丈夫ですよ。どんな職種をご希望なのですか?」 「今までの経験職種がマネジメントや人材育成、事業戦略などでしたので、 できればそういう仕事をしたいと考えていますが・・・」 「当社は人材育成に力を入れていますし、マネジメントも重要な仕事です。 最初からそうゆう仕事をお任せすることは出来ませんが、まず現場で勉強して 頂いた後、それぞれの希望と適正に合わせて配属されます」 「じゃあ、どちらにしてもヘルパーの資格はあったほうがいいですね」 「もちろん現場をよく知っていただくためにも資格はあったほうがいいですね」 それがきっかけとなり、ヘルパーの資格を取ろうと決意した。 これが僕とこの会社との出会いだった。 最初は志というよりも「介護」という業界の枠組みに関心を抱き、次第に 介護の心を知るようになっていた。介護される人たちの想い、施設へ大切な家族を 預ける人たちの想い、介護の現場で働く人たちの想い、介護をビジネスとして 事業を展開する企業側の想い。 良さんが僕に語っていた介護の世界が、僕にとってどんどん身近なものへと 変わっていった。 いつか良さんが目指した介護への夢を僕も追っかけてみたい。 そして行き着いたのが介護の世界で「最高のチーム」を作りたいという夢だった。 離職率が高い介護業界。 現場で苦悩するスタッフ。そんな彼らに夢や希望を抱かせることが出来るような 現場作り。そのためには結束力が固いチーム作りが必要だ。僕もまずは現場に 飛び込み、問題点や悩みを一緒に受け止め改善していく。 すべては現場からスタートだ。 チームだからこそできることがあり、一緒に喜びを共有し、一緒に問題点を考える。 そういうプロセスを経ながら、お互いを理解し励ましあい支えあう。 そんなチームを目指したい。 年齢的に体力は衰えていくので、いつまで現場で一緒に頑張れるか分からないが、 監督としてならば歳を重ねてもまだまだ行けるはずだ。 最高のチームでお年寄りやその家族に喜びや感動を与えたい・・・。 そのためには同じ志を持ったチームが必要だ。 現場で実績をあげれば、会社の上のほうも評価し現場の待遇だってもっと 良くなっていくはずだ。そう信じたい。介護の世界には熱い心が絶対に必要だ。 現場での最高のチーム作りを目指そう。 いつか良さんと対等に話せるくらいの存在になろうと頑張ることを決めた。 この企業の成功の秘訣は人材育成に力を注いでいるからだ。 離職率が低いのもその効果が現れているからで、攻めの経営戦略も僕にはピッタリだ。 この介護の世界でも今までの経験を活かせる可能性がある。 そう信じてヘルパーの資格を手にした。 以前、「おやじ組」の仲間は言った。 「最高のチームを作るなんて・・・中島さん、あんたは介護の世界で目指す目的が俺たちと 違うよね。俺は介護の仕事はやりがいのある仕事だし、就職して頑張りたい。ただそれだけだよ」 たしかに僕が目指している目標は難しいが、やってみなければ分からない。 まずは面接の権利を得ることだ。 採用条件が満たされていないが、ここへの挑戦を抜きにしては他の企業への応募は出来ない。 「先ほどの件ですが、では面接を行いたいと思いますがよろしいでしょうか」 こうして僕は、とりあえず「面接」という最初の切符を手にした。
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第36話 今までと違う自分「求職男」〜再就職への道〜
同級生M君の紹介で、いきなり社長面接のチャンスが訪れた。僕は父の冤罪事件以来、佐賀の同級生や知人とは連絡を絶ったまま、ずっと 心を閉ざしてきた。M君は僕のことを心配して、事あるごとに連絡をしてきたが 僕は拒絶しつづけた。「犯人の息子」という偏見や陰口を目の当たりにした時から、 そのショックとともに僕はふるさとを捨てた。 だが、M君の母親の葬儀で、彼の母が認知症であったことを知り、彼もまた 苦しんでいたことを知った。僕はその時から彼に対して心を開くようになった。 クラスメイトであった彼と会話が出来るようになるまでに八年かかった。 彼が知り合いの社長に僕と会ってくれるように頼んで面接が実現した。 急成長するその会社は介護事業にも本格参入しようと準備を進めていた。 役員室で僕と向き合う社長は無言で僕の経歴書に目を通していた。 「あなたの経歴を拝見すると、自分で事業を起こしたほうがいいのではないですか」 社長は僕の顔を見つめた。 M君や他の人にも同じことを言われた。 「私はやっと自分のことが分かりかけてきました。自分は熱い男です。現場で 仲間と一緒に頑張るほうが好きなんです。そのことがようやく分かったのです。 不器用な私には経営と現場の両方で熱く燃えることは無理です。どちらか選べと いうならば、私は迷わず現場を選びます」 社長は首をかしげながら言った。 「だからといって現場でゼロからスターとするとなれば時間がかかりますよ。 もったいないじゃないですか。介護の世界は厳しいですよ、もっと他の方法を めざすのもいいんじゃないですか」 どう答えればいいのだろう・・・私は言葉をさがした。 「介護の世界はマンパワーであり、優秀なスタッフが求められる究極のサービス業 だと考えています。私は最高のチームを作りたいのです。現場で頑張る仲間たちと 一緒に汗を流して、そこからスタートして一生のチームメイトとなる仲間を 作りたいのです。だから介護の世界を選んだのです」 社長は私の目をじっと見ながら話した。 「あなたの熱意は分かりました。でも、それを成功させれるという担保は何か ありますか」 僕も社長の目をしっかりと見据えながら話した。 「うーん・・・私は実務経験もないし、全くの異業種からこの世界に飛び込もうと しています。だから今は何の担保もありません。あるのは・・・熱意だけです。 今はそれしかありません」 社長は黙りこんでしまった。 「当社が進めている介護事業は訪問介護事業ですので、あなたが希望する 運営形態ではありませんが、例えば希望を変えて何らかの形で関るとかの お考えはありませんか?」 「訪問介護は個人個人のヘルパーさんが頑張る仕事だと思います。 私がやりたいのはチームで一緒に取り組む仕事ですので・・・」 「そうですか・・・あなたの熱意のほどが分かりました。私の知り合いなどにも、 こうゆう人物がいると紹介しますよ。頑張ってくださいね」 介護という分野での社長との接点は見出せないまま面接は終わった。 一瞬、希望を訪問介護に変えてもいいかと迷った・・・でも、僕はどうしてもチームに こだわりたかった。 みんなで一緒に取り組むという、互いの顔が見えるチームにこだわった。 面接が終わった。 張り詰めていた緊張から開放され、車のシートにもたれながらぼんやりと夕日を ながめていた。 突然、携帯電話が鳴った。 「もしもし、どうやった?」 面接の結果を心配するM君だった。 「ありがとう。今回は俺のためにせっかくチャンスを作ってもらったけど、 残念ながら社長とは目指す方向性が違い接点が見出せんやった。ごめんな」 「そうか・・・残念やったな。何の役にもたてんで、こっちこそごめんな」 「ううん、お前の気持ちには感謝しとるよ。ありがとう。ほんとにありがとう」 「そっか・・・がんばれよ」 こうして次のアタックに向けて準備を開始した。 以前の自分とは違うような気がする。 就職への不安がないといえば嘘になるが、今回はきっとチャンスが訪れる。 そんな気がする。 おやじ組の仲間たちは焦っていたが、僕は冷静だった。 介護企業の求人方法について研究した。 福岡県内には介護施設が600あまりあるそうだが求人雑誌やハローワークには その一部分しか掲載されていない。求人情報は施設に張り出したり、口コミでの 求人方法が多いことをつかんだ。 つまり、どの施設が求人を行っているのか実体がつかめない。 直接、自分で問い合わせる方法が一番効果的なのだ。 この業界は仕事もアナログだが求人方法もアナログだ。 インターネットで周辺の施設のリストを拾い上げ、ひとつづつ情報を丹念に調べていく。 運営形態、業務内容、設立年度。 設立年度になぜこだわるのかというと、介護サービスがスタートしたのは今から 十年ほど前だ。当時は異業種からも、こぞって介護ビジネスへと参入した。 慎重に様子を見てから参入してきた後発企業を狙うことにした。 なぜなら、そういう企業は人材の育成や独自のノウハウがまだ十分に整っていない 可能性が高いと考えたからだ。 社長の年齢も確認できる分は調べた。 僕よりも若い社長の企業は部下も若い。社長よりも僕が年上の場合、僕は『年上の 使いづらい男』に見られてしまうからだ。 僕の第一印象は、ただでさえ堅いイメージで見られてしまうので、経歴書の書きかたも 変えた。今までの肩書きや仕事の内容が堅いイメージなので、もっと本当の自分を 知ってもらうために、経歴書に自分のプロフィールを書き込んだ。 画像も何点か組み込んだ。 従来の職務経歴書とは違う様式だが、たかが紙切れ、されど紙切れだ。 ここでも自分の個性を表現しようと考えた。 着々と準備を進めながら、自己アピールのための秘策も練っている。 友人から送られてきた松下幸之助氏の本も読み勇気凛々だ。 とりあえず一社目に電話を入れた。 応募資格は実務経験二年以上、大学卒で40歳までとなっている。 かなりハードルが高い。高いどころか僕は実務経験はゼロ、おまけに年齢は十歳以上 オーバーしている。 応募条件を満たしていないということで、すぐに断られるかもしれない。 その時はその時だ。 「もしもし・・・」 つづく
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