『いつか春が』執筆日記

波乱に満ちた人生。夢に向かって挑戦する男のドキュメントストーリー。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索


第30話 「ありがとう」のチカラ 「求職男」〜再就職への道〜


介護実習が始まった。
「介護」と一口に言っても、働く場所は病院であったり老人施設であったり、
はたまた障害者施設であったり。または相手の自宅へ出向いての訪問介護
だったり、いくつにも分かれる。しかも施設での介護といっても、運営形態に
よってさらにいくつにも分かれる。
私の実習は「訪問介護」という現場からのスタートだった。

実習先は二十代から六十代の女性ヘルパーさんを二十人ほど抱える事業所で、
六十代半ばのベテランヘルパーさんとの同行だった。

向かったのは八十代後半の一人暮らしの男性宅。比較的経度の障害で、足腰が
弱っているので自宅の掃除や食事のお手伝いをするという仕事だった。
うっ・・・。
古い家の玄関を開けると、生活の臭いがしみついた家々特有のニオイが鼻をついた。
アチャー・・・。
家に上がると、男やもめに何とやら・・・畳は見事なまでに薄茶色に変色し、台所の
床は油でベトベト。
床に足の裏がヒタヒタと吸い付くような感触がした。

「じゃあ最初にトイレを掃除してね」
ベテランヘルパーはそう告げると洗濯の準備に取りかかった。

ギョッ!
黒茶色のモノがあちらこちにへばりついたままの黄ばんだ便器。
今まで他人の家のトイレなど掃除したことがない私は戸惑った。
当然、これもありだ・・・。
トイレブラシを持ったまま目をつぶり、気持ちを落ち着かせようと
深呼吸をしようとしたが、逆に臭気にむせてしまいあわてて息を止めた。
(いかん、気持ちで負けようとしている)

「よし!やるぞ」
私は覚悟を決めて便器を洗い始めた。
一度動き始めると気持ちが楽になった。ニオイも気にならなくなってゆき、
風呂場の掃除に万年床の布団干し、台所のベトベト床の雑巾がけに
茶の間の掃除。
その間にベテランさんが洗濯、夕食の調理をするなど、二人で手分けして
黙々と仕事をこなしていった。

昼間は部屋の明かりはつけず、薄暗い部屋の中でテレビを見て一日を
過ごす老人・・・。
丸くなった背中を見ていると、しみじみとした思いに包まれていく。

「ありがとうございます。おかげで助かりました」
おじいちゃんが顔をほころばせながら嬉しそうに言った。
「ありがとう」の言葉に対して、何かを感じた・・・
この不思議な気持ちは何だろう?


介護の世界で必ず直面するのが「認知症」。
翌日、別の六十代のヘルパーさんと老夫婦が暮らす自宅へと向かった。

「認知症って、症状が進むとどんな感じですか?」
歩きながらヘルパーさんに聞いてみた。
認知症は症状が進行するにつれて、コンロに鍋をかけていることを忘れて
危うく火事になりかけたり、さっきまで手にしていた物をどこに置いたか
忘れてしまい、家の中の物が次々と行方不明になったり。
はたまた部屋の中で排便したり、冷蔵庫にはずいぶん前に買ってきた食材が
そのまま腐ったり。
さらに症状が進むと外を徘徊したり、家族の名前や顔も識別できなくなったり、
自分で歩くことや話すこともできなくなる・・・「単に物忘れがひどくなるとか、
そんな単純な病気ではなく、自分で生きていくことが出来なくなるのよ」
ヘルパーさんが自分の目で見てきた認知症の実態を話してくれた。

「へぇー・・・大変なんですね」
壊れていく・・・父も認知症だがまだ普通の会話ができるし、頭では何となく
分かるが、実際に自分の目で見ていないのでこの時は認知症を理解できなかった。

「いらっしゃーい」

品のある朗らかな声で出迎えてくれた女性は、私の母と同じ七十八歳。
かなり進行した認知症だと聞いていたが、見た目には品のある普通の奥様に見えた。
この奥さんの身の回りを、足腰が弱ったご主人が献身的に介護する、
いわゆる老老介護の夫婦だった。
彼女は私の母と同じように背中が丸く、背格好も母に似ていた。
見た瞬間、思わず母の姿を重ね合わせてしまった。

「私はね、ここに越してきたばかりでよく分かりませんのよ」
十年以上ここで暮らしている彼女の口癖だという。ご主人が苦笑いしながら
奥さんにお茶を入れてあげた。
片時も目が離せないので、いつもご主人がつきっきりで寄り添っている。
家の中はもちろん、買い物も外出も病院もいつも一緒・・・。たまには友達と
会ったり、自分だけの自由な時間を過ごしたいだろうが、すべて奥さんの
身の回りの世話をするための時間を優先し、自分の予定や時間が作れない。

奥さんに話しかけても意味が通じず、チグハグな答えが返ってくる。
そんな時はうんうんとうなずいて笑顔で話を聞いてあげるご主人。
「それはさっきも聞いた」「何度同じことを話すんだ」と、奥さんの言葉を
さえぎったり否定したりはしない。「○○しちゃダメだ」と自分の考えや
意見を押し付けると、奥さんはパニック状態になり泣き叫んでしまうという・・・
ご主人はそんな奥さんを受け止め献身的に介護している。
私は次第に驚きと悲しみ、そして感動に包まれていった。

限られた時間内に手際よくいくつもの仕事をこなしていくベテランさん。
私はベテランさんの指示に従い動く。掃除、布団干し、洗濯、ゴミ出し、
買い物をこなしていく。

「中島さん、訪問介護では必ず調理をせんばよ。冷蔵庫にあるもので
手早く料理を作ったり、○○を食べたいと言われたら、必要な食材を買い物に
行き料理してあげなきゃならないとよ。出来るね?」
ベテランさんが料理を作りながら私に尋ねた。
「料理・・・ですか。うーん、困りましたね。学生時代に自炊したことはあるけど・・・
あれから三十年ちかく・・・料理は自信ないですね」
「じゃあ洗濯は?」
「うーん・・・それも・・・」
今まで仕事にかまけて何もしてこなかった自分が恥ずかしかった。


「ありがとうね。ほんとにありがとうね」

二人で仕事をこなしている間、奥さんは数え切れないほど何度も何度も
「ありがとう」の言葉を口にした。
ご主人にも、私たちにも。

奥さんの無邪気な笑顔・・・。
母の姿を彼女にだぶらせて見ていた私は現場で何かを感じ始めていた。
彼女の笑顔と朗らかさが私の心に元気を与えてくれることに気づき始めた。
「ありがとう」の言葉を聞くたびに「どういたしまして」と疲れた体が
不思議なほど動く。
「ありがとう」の言葉が持つ、不思議なチカラのような気がした。

介護の現場にふれるにつれて、自分の心の中で人としての純粋な気持ちが
甦ってくる。人に対して優しくすることが偉いとか立派だとか、感謝を
してもらいたいとか、そんな思いとは次元が違う。
どこかに置き忘れていた、人としての素直な心。
目の前に笑顔で喜んでくれる人がいる、ただそれだけで自分も嬉しくなり
不思議な力がわいてくる・・・。
過酷な介護や看護の現場で働く人たちを支えているのは、この「ありがとう」の
言葉が持つ不思議なチカラなのかも知れない。

人間本来の自然な感情なのかもしれない。
いつの間にか手垢がついて汚れてしまった自分の心が洗われていく・・・そんな気がする。

夜、母に電話を入れた。
「お母さんの介護は俺がしてやるから、安心して歳を取ってよかよ」
「なんば言いよるとね。自分のことは自分で考えとるから、あたしのことは
考えんでよかよ。でも・・・ありがとう」

電話の向こうで母が嬉しそうに笑っていた。
                            次回へとつづく。


  第29話 決断の時 「求職男」〜再就職への道〜


いよいよ実習がスタートする。
私は畳の上に寝っころがると、手足を投げ出して大の字になった。

「・・・・・・」

天井を見上げながら、あの日のことを考えた。
あの時、決断しなかったならば・・・何も変わっていなかったはずだ。

年の瀬が迫った昨年の十二月。
「やあ元気!就職活動はどう?」
電話の声は同い年の旧友トッコさんだった。

「あっ、うん、まあ・・・全滅だよ。不採用の連続でね、面接にもこぎつけない。
やっぱり雇用不況だし、それに年齢でボツになるみたい」
「そっか、年齢ね・・・たしかに年齢的には難しいよね。じゃあ、どうすんの?」
「別に仕事を選好みしているわけじゃないけどね。仕方ないから今度はもっと
条件を下げて探してみようと。今はそれしか方法がないしね・・・」

正直、今の状況では手の打ちようがない。
悔しいが自分でもどうしていいのか分からなかった。

「あのさ、今までいろいろ考えて探してみたんでしょ。それで現実の厳しさが
分かったはずでしょ。じゃあ、もういいかげんに目を覚ましなさいよ。
年齢が問題ならば、年齢が関係ない仕事を探せばいいじゃん。簡単じゃない」
トッコさんの声が苛立ってくるのが分かった。

「そんなあ・・・そんなこと言ったって、自分の人生がかかっているんだよ。
慎重になるのは当然だろ」
「あのさ、今までいいかげんな気持ちで仕事を探して応募したんじゃないでしょ?
考えに考えた上で応募してダメだったんでしょ。今までと同じ考えで仕事探しても、
時間だけが過ぎてゆきどんどん追い込まれていくだけだよ。こうなったら
思い切りが必要よ」
「そんなこと言われなくても分かってるよ!分かっているから悩むし、いろいろ
考えているんだよ(なぜ決めつけるんだよ。まだ分からないじゃないか)」
彼女の言葉にムッとした。
売り言葉に買い言葉とはこのことだ。

「考えたならばあとは実行すればいいじゃん。慎重に考えてる考えていると
言いながら、いつまでも同じことの繰り返しよ。今の年齢で受け入れてくれる
仕事を探しなさいよ。男ならウダウダ言わずに、まずは飛び込んでみたら
いいじゃない!」
「そう言うけど・・・簡単にはいかないよ。やはり慎重に考えないと後で後悔
することになるしさ(今までの経歴を少しでも活かせる仕事に就きたいと
思うのは当然だろ)」

「何が後悔よ!このまま時間だけが過ぎて、あとで『やっぱりダメだった。
あの時、思い切って変わっていたら』と後悔するよりマシじゃない。
今、変わらなきゃダメなんだよ。それが分からないの?」
「分かっているけど・・・でも、やっぱり・・・(俺は妥協したくないんだよ)」

「あー、やだやだ!煮えきれないね、君は。結局、君は自分の面子しか考えて
いないのよ。今、意識を変えなければ何も変わらないよ。
裁判では検察相手にあれだけ闘ったくせに、怖いの?それともプライド?
なぜ変わらないのよ」
「・・・そういうわけじゃないけど・・・(俺の気持ちなんて君には分かりっこないよ)」
「もういい!あたしは忙しいよ。じゃあね」
「ちょっと!あのさっ」

≪ブチッ!ツー・・・ツー・・・≫

電話が切れた。

(いったい何なんだよ、今の電話は)
私は興奮した気持ちを鎮めようと、唇を噛みながら外に出た、
冬の冷たい空気が、まるで冷水を浴びせたように私を包んだ。

砂を噛むようなジリジリとした思いに拳を握り締めながら、
あてもなく歩いた。
(くそっ!言われなくても分かっている、分かっているよ)
さっきの彼女の言葉が、心の奥の誰にもふれられたくない一番嫌な場所に、
突き刺さっていた。


彼女の言葉に反論しようとしても何も言えなかった。
悔しいけれど彼女の言葉は真実で、私に現実を突きつけていた。

『自分自身が変わらなければ何も変わらない』
彼女が私に放った言葉は、私自身が言い続けてきた言葉そのものだった。

現実を受け入れるには自分が変わるしかない・・・・・・今が決断の時か。

部屋に戻った私は一人で考え続けた。
中高年の再就職は自我との葛藤の連続だ。
引きこもり状態となり焦りだけが膨らんでいく。
理想と現実とのギャップに戸惑い落胆する。

残された選択肢は限られている。
それなのに、分かってはいるものの最初の一歩がなかなか踏み出せない。
自分では踏み出したつもりでも、実際は前に進めないままそこで立ち往生してしまう。
先の見えない不安の中で、自分は何を求めているのだろう?
本当は何を探しているのだろう?

変えよう、変わろうと思いながらも、最後の決断で立ち止まってしまう自分。
条件や職種で仕事を選ぶよりも、年齢で受け入れてもらえる業種の中から
自分に合った仕事を探す・・・。
私は数字を追いかける仕事よりも、本当は人間と関わる仕事がしたいんだ。

私はこのことにやっと気づいた。

あの時の電話、私にとっての『決断の時』だった。

超えてゆけそこを 越えてゆけそれを・・・・

トッコさん、ありがとう。

純恋歌

 
   二つの誕生日


私の横で墓前に手を合わせる娘。


目を閉じたまま静かな時間が流れていく。
風がほほをつたい鳥のさえずりが聞こえる。

今年も娘とともにやって来た。
ここに眠るのは娘の友人。


思いをはせながら、魂との会話が続く。

三十秒、四十秒・・・。

「友達の分まで精一杯生きるよ」
友の墓前に誓った娘は、その約束を今も守っている。

娘と友人が一緒に歌った曲、『純恋歌』が心の中を
駆け巡る。


  ♪目を閉じれば 億千の星 
   一番光るお前がいる
   初めて一途になれたよ 
   夜空へ響け愛の歌
 


友の魂に語りかけ、祈りを捧げる娘。


顔を上げると娘も顔をあげた。
無言で立ち上がる私。

「帰ろうか・・・」
「うん・・・」

心にそっとしまっていた思い出が蘇る。

命の尊さを考える。

娘には二つの誕生日がある。
一つはこの世に生を受けた日。
もう一つは命が消え行く瞬間を目の当たりにした日。
生きることの重さを知った娘はその日から変わった。

まだ子供だと思っていた娘が大人へと成長していく。

あの時、娘が流した涙は大人の私たちに、懸命に生きることの
大切さを教えてくれた。
そして、人を愛することの素晴らしさを教えてくれた。

心の中でつぶやく娘。

お父さん、忘れようとしても忘れられない想い出があるよ。
お父さん、忘れようとしても忘れられない人がいるよ。
お父さん、その人の笑顔は永遠に輝き続けているよ。
その人を想う心はいつまでも変わらないよ・・・。


娘からの無言のメッセージが私に問いかける。

お父さん、幸せって何?
お父さん、人はどう生きれば幸せになれるの?
お父さん、人生って何?

「・・・・・・」

娘に大切なことを教えられ、私も変わった。

娘の前では弱音を吐くまい。
愚痴を言うまい、泣き言も言うまい。

お父さんに今できることは、懸命に頑張る姿を
お前に見せてあげることだけ。

何かを感じてくれればいい。
何かを感じてくれたならば、自分の心に正直に、
頑張ってくれればいい・・・。


          父より

http://www.youtube.com/v/RgBdDjZqG0A
You can enjoy Videos by 『YouTube Seeker』



第28話 仲間との別れ 「求職男」〜再就職への道〜


仲間との別れは駆け足でやってきた。
ヘルパーの資格を取るために一緒に学んだ仲間と、こうして顔を会わせるのは
今日が最後。この日は別のクラスも合流し二十名近くが一緒に最後の講義を
受けていた。

時計の針が静かに時を刻みながら最後の講義が進められていく。
今日の講義が終われば、あとは実習だけだ。実習は各々が指定された介護施設に
行き、そこで現場を体験する。
仲間と一緒に過ごした時間は、わずかな時間だったが、資格取得という同じ
目的に向かって頑張った仲間だった。


「あとは各自それぞれの施設で実習を頑張ってください。その実習が終了しだい、
個別に資格証明書が発行されます。いいですか、みなさん頑張ってくださいよ」
「はーい」
まるで学生の頃のような素直な声が教室に響いた。

「では、これでスクーリングを終了します。みなさん、本当にお疲れ様でした」
一斉に拍手が沸き起こった。
全員が立ち上がると、オヤジ組の川村さん、大久保さん、堤さんが満面の笑みを
浮かべながら私のもとに集まってきた。
「終わったー。いやあ、きつかったですね。お疲れさまでした」
「ほんと、久しぶりに充実した時間やったよ。みなさんと一緒で楽しかったよ」
互いに握手をしながら別れの挨拶を交わした。

ひょうひょうとして、いつも私たちを笑わせてくれた川村さん。
彼には障害者の奥さんがいることを知った。
幼なじみの奥さんとは中学時代からの付き合いで、障害がある彼女をいつも
川村さんが守った。大学時代は遠距離交際を続け、手紙で愛を語り合い、
「障害のあるもんを嫁になんてしたら、あとが大変だぞ」という周囲の猛反対を
押し切り結婚。
川村さんはずっと奥さんを介護してきた。
このあとも介護に関わる仕事に就くと言い切った。

社員を守るために社運を賭けて乗り込んだ大久保さんも笑顔だった。
「大久保さん、頑張ってよ!新しい事業の成功を祈っているよ」
「ありがとうございます。中島さんも最高の介護チームを作って下さいよ。
それから本も頑張ってくださいね」
「うん、両方とも頑張るよ!元気でね」

先日、昼休みに東京の某出版社から電話がかかってきた。
以前、「いつか春が」の出版企画書とラフ原稿を送っていた出版社からだった。
その時、担当者は興味を持ってくれたが、社内での最終会議でボツになり出版には
至らず、結局、別の出版社が私の本を出版してくれた。電話はボツになった
その出版社の別の担当者が偶然に私の本を知り、興味を持ったらしくて、その後の
執筆状況についての電話だった。
次回作を書き上げたら、ぜひ最初に原稿を読ませて欲しいと。
今は執筆どころではないが、落ち着いたらまた書き始めるつもりだ。

同じクラスの沖縄出身の美香さんが挨拶に来た。
「中島さん、いろいろとお世話になりました。私、中島さんに元気をいっぱい
もらいました。ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。美香さんは、この後の進路はどうするの?」
「私は資格を取ったら・・・しばらくお休みします」
「お休み?」
「じつは・・・以前から体調が思わしくなくてですね。悪いところが見つかり医者から
精密検査をするようにと言われて、今度検査をすることになったのですよ。
もしかしたら私・・・悪い病気かも・・・会えるのは、これが最後になるかも・・・」

「えっ!」

驚いて彼女の顔を見た。

冗談なのか本当なのか・・・彼女は深い悲しみの目で私を見ていた。
「・・・美香さん、悪い冗談はやめてよ。大丈夫、大丈夫だよ・・・頑張って検査に行って
来なさい・・・きっと大丈夫だよ、ねっ。元気を出して」

彼女は三十半ばのご主人と二人の子供がいる主婦だと聞いた。
亡くなった祖父の介護を手伝ったのがきっかけで、自分もヘルパーの資格を取ろうと
思ったという。
彼女の愛嬌ある笑顔は私たちを癒してくれた。
体が弱くて持病があると聞いていたが・・・まさか、そんなことはあるまい。
彼女の言葉を信じたくなかった。

次の言葉が浮かばなくて、戸惑う私に彼女は笑顔で話しかけた。
「中島さん、あたしね、本を読みましたよ。最初の挨拶の時、中島さんが本を
書いていると聞いて、どんな本なんだろうと思って書店で買ってきましたが、
一気に読んでしまいました・・・涙が止まりませんでした」

突然、本を読んだと言われて動揺した。彼女は私の過去を知っている。そう思うと、
まるで丸裸にされたような恥ずかしさと照れくささで、彼女の目を見ることが
出来なくなった。
「あっ、そうですか。あ、ありがとう・・・まっ、いろいろあったけどね。それで、
今こうして新しい人生をスタートしようとしているんですよ。
ホント、人生はいろいろだよね。あはは」

私は照れくさくて、彼女の前でおどけてみせたが彼女は笑わなかった。
「中島さん、頑張ってくださいね。あたし、応援していますからね。新しい人生を
切り開いて下さいね」
「うん、ありがとう・・・美香さんも負けちゃダメだよ。いつかこの仲間でまた集まろう。
同窓会しようよ。その時までお互いに頑張ろう、ねっ。」
「はい・・・あたしも頑張ります」
「検査はいつなの?」
「今度の土曜日です」
「そっか・・・大丈夫。うん、大丈夫、大丈夫。元気に検査に行ってらっしゃい」
彼女は笑顔でうなずいた。

「中島さん、ちょっと来て」
別れの挨拶でざわめく教室で、先生が私を手招きした。
私の進路相談にのってくれた女性講師だった。
先生は一通の茶封筒を差し出した。
「中島さん、これは私たちスタッフからのメッセージです」
「??・・・」
私が封筒をそのまま胸のポケットにしまうと、先生が右手を差し出した。
「あとは実習だけね。資格を取ってもそこからがやっとスタートラインだからね。
まだまだ先は長いし、まずは就職を決めないとね。これからが大変だと思うけれど、
頑張りなさいよ」
私は先生の手をしっかりと握りしめた。
「先生、頑張りますよ・・・」


みんなで教室を後にして外に出ると、外はいつものように家路を急ぐ人たちで
あふれていた。
「じゃあ、みなさんもお元気で。またいつか会いましょう」
私はみんなに向かって小さくお辞儀した。
「元気でね!」「またね」「じゃあね」
私たちは互いに手を振りながら、それぞれの帰る方角へと散って行った。
後ろを振り返ると美香さんが手を振っていた。
「またいつか会おう!負けるなよー!」
私は彼女に拳を空に突き上げてみせた。

このあと、ここにいた仲間たちがどんな道に進むのかは分からない。
それぞれがいろんな過去を背負いながら、夢や希望を抱きここに集まった。
介護の仕事は、その人の命と向き合う仕事であり、その人の歩んできた
人生を最期に受け止めてあげる大切な仕事であることが分かった。
時には本当の家族のように、しっかりと受け止めてあげなければならない。

大変な仕事であることが分かったが、以前よりもこの世界で自分の夢を
実現したいという想いが私を駆り立てる。
なぜだか自分でも分からない・・・。
遠回りしたけれど、やっと自分が探し求めていた世界に出会えたような気がした。

一抹の寂しさを胸にしまったまま天神駅まで歩いた。

また一人か・・・

一緒に頑張る仲間がいることの喜びを知ったばかりなのに、また一人に戻った。
実習が終わるとまた一人で就職活動を再開する。

私は電車に揺られながら、後ろに流れていく外の景色をぼんやりと眺めていた。
灯り始めた光の糸が一本の線となって流れていく。
胸ポケットから茶封筒を取り出した。

手書きのやさしい文字が心にしみた。

     『思いがすべての原点です』

私は下りる駅に着くまで、そこに書かれた言葉をかみしめながら読み返した。
何度も・・・何度も。


   『過去のことはどうにもならないけれど、これから先のことは
    自分の心がけしだいでどうにでもなります。中島さんの才能が
    宝の持ちぐされにならないように。
    思いがすべての原点です。
    今を生ききって仕事にやりがいを見出して下さい。
  
                         スタッフ一同』


  第27話 意気地なし 「求職男」〜再就職への道〜


午前の講習が終わって、やっと昼休みになった。
「いやあ、リアルやったね。現場に入ったらこれをせんばとねぇ」
弁当を食べながら川村さんが話し始めた。

今日はオムツの替え方や排便や排尿の際の清拭などの排泄の実習だ。
介護施設や病院では、寝たきりの人や病人は自分で排泄処理が出来ないので、
誰かに手伝ってもらわなければならない。
頭では分かっている。
分かってはいるが複雑な思いだ。

「ねえ、吉田さん。あんたは看護助手として働いていたから今までやってきたとよね。
どうやったですか?」
「うっ・・・食事中にそんな話をするのはやめてよー」
女性陣たちからブーイングが飛んだ。

「そりゃあ最初は戸惑うかもしれませんが、覚悟を決めたらいいですよ。
あとは慣れますよ」
元看護助手の吉田さんはサンドイッチを口にほおばりながら平然と答えた。

「そうか・・・覚悟ね」

「私だって最初は目をそむけてしまい、便の臭いが体に染み付いているような
気がして、気になってですね。家に帰って何度もシャンプーをしてしまいましたよ」
「ほー、まるで映画の『おくりびと』やね。あはは、そんな場面があったあった」
笑いながら話す川本さんを見た吉田さんはムッとした表情に変わった。

「でも、排泄の仕事が汚いと思って目をそむけた自分が悲しくなりました。
病院では看護士や看護助手の私たちが排泄の世話から、亡くなられた患者さんの
体を清拭したりしてましたよ。だけど、これは大切な仕事ですよ」
「そう、分かっているよ。別に汚いとか言っているわけじゃないし・・・
ただ、何と言えばいいのだろうか・・・他人の排泄の世話なんてしたことないし・・・
汚いなあと思うけれど、仕事だし・・・これもしなければいけないなあと・・・」
川村さんは言葉に詰まった。

「川村さん、頭で物事を考えてしまう人がいますが、ああ言えばこう言うしですね。
いざとなったら自分はできないくせに、ウジウジとああだこうだと評論家みたいに
偉そうなことを言う人もいますが、人間は生きている限り排泄はあるし、
生きている証ですよ」
「そうよ、生きている証よ、排泄はね。俺はただ一般的にはそう思っている人も
いると言っただけで・・・」

「他人の排泄の世話をするのは、最初は誰だって勇気が要りますよ。
自分でする勇気がないならば、介護がどうのこうのと語る資格はないし、
この仕事は無理ですよ。心の中で汚いとか、俺には無理だとか、勝手に自分の
心の中だけで思うのは自由ですよ。でも、それをみんなの前で口に出すのは
止めてください。
頑張っている人たちのヤル気をそぐような発言になりますよ。みんな、
これから頑張ろうとしているわけだから・・・空気が読めないのですか。
水を差すような発言はしないほうがいいですよ。みんなも頑張っているし、
俺も負けないように頑張ろうと思うほうが素敵でしょ?そんなふうに一緒に
頑張ろうと口にするのはみんなも大歓迎です。グジグジ言わずに行動で示す。
それが大人でしょう。そう思いませんか?」

「そ、そうね・・・」
川村さんは赤面し小声で返事するのが精一杯。

吉田さんは口を真一文字に結んだまま、それ以上は何も言わなかった。

以前、彼女は資格を取りに来た理由を私に話してくれた。
彼女は三十歳ほどだが、女でひとつで二人の子供を育てていた。

以前勤めていた老人病院につい話してくれたが、劣悪な労働環境で、
朝の六時半から夕方の四時半までの激務だった。昼に十分間の休憩が一回だけ。
あわててお茶を飲むと休憩は終わり。
食事する時間はなく、一日の勤務で十分間の休憩が一回だけ。
食事は仕事を終えてからだったという。
排泄やシーツの交換などの仕事に追われ、一日に何十人もの排泄の世話をしてきた。
夜勤の時はブザーが鳴りっぱなしで一睡も出来ず、残業代は一切つかず、休憩時間も
与えられない長時間勤務。

どこもきちんとした経営をしているが、どこの世界にでもこのような悪質な企業が
存在する。これも現実だ。

彼女は耐えて働いた。
資格さえあれば・・・何度も悔しい思いをしながら生きてきた。
愚痴をこぼしても世間を妬んだりしても誰も助けてくれない。
このままではいつまでも今の現実から抜け出せない。今の人生を変えるためには
ヘルパーの資格を取るしかない、と彼女は決断したという。

今回の養成講座に参加するために以前の病院を退社し、次はヘルパーとしての
資格取得を条件に、介護施設での就職が内定していた。
「私は子供を養っていかなければならないし、就職が決まらず何ヶ月も過ごすなんて、
私には死活問題です。この仕事は嫌だ、あの仕事は嫌だと選ぶ余裕なんてありませんしね。
私が一家の主ですし、二人の子供を養わなければならないのですよ」
彼女は修了証書を手にすると、それを持って翌日から働くと言っていた。

私は何も言えなかった・・・。

彼女は講義の休憩時間になると喫煙所に飛んでいき、そこでタバコをプカプカ。
タバコをうまそうに吸う。

そんな彼女がどんな施設で働くか、気になったが聞かなかった。
ひょっとしたら職場環境や給与待遇も恵まれていない施設かもしれない。
でも、どんな場所であろうと、彼女は自分の意志で就職先を決め、
新しい職場に夢と希望を託して懸命に生き抜こうとしている。
彼女には彼女の人生があり、夢や希望があるはずだ。
彼女が懸命に頑張っていることは事実。
彼女の頑張っている人生に、私が横から口を挟んではならない・・・そんな気がした。
彼女の生き方を否定したり批評するのは失礼だと思った。

彼女に負けないように自分も頑張ろう。
何かを感じたならば自分も行動すればいいだけだ。
他人の生き方を、さも悟ったかのような顔して語ってはならないことを学んだ。
人の生き方や価値観を否定したり批評したりすることは、その人を傷つけることと同じ。
それが人を想いやる心であり、人としての大切な礼儀だと。
これも介護の精神で学んだことだ。


その日の帰り、歩きながら川村さんが打ち明けた。
「いやあ、今日はまいりました・・・吉田さんが言うのが確かですよね。みんなが
頑張ろうとしている気持ちは十分に分かっているのに・・・恥ずかしかったですよ。
『みんなのヤル気をそぐような発言はしないで下さい』って・・・あの一言は効きましたよ。
もうすぐ実習で現場に出ると思うと、やっぱり不安になりますよ。中島さんは大丈夫?」

「うーん、不安がないと言えば嘘になりますよ。今日の排泄の実習・・・たしかに
現場で自分が実際にやるとなれば、ちゃんと出来るかなと不安になったりもしますが・・・
たぶん、それを乗り越えたときに、人間として一皮向けると思いますよ。
目からウロコというか・・・自信につながるとやないでしょうかね。あはは、
もう怖いものはないとね」
「そうかもね・・・」

川村さんだけでなく私も不安はある。
介護の世界を知れば知るほど大変な仕事であり、人間としての高い志がなければ
出来ない仕事であることが分かってきた。
同時に、思っていた以上に人に喜んでもらえる仕事であることも分かってきた。

喜びと不安・・・これが正直な気持ちだ。
吉田さんの言葉に私もガツンと一撃をくらわされた。

「川村さん、男と女って、どっちが意気地なしだと思いますか?」
「うーん・・・男のほうが意気地なしだと思うよ。男は人の出世や成功を妬む気持ちが強いし、
男は自分に意気地がないのを理屈をこねて正当化しようとするけど、女性は思いついたら
行動だもんね。なぜ介護や看護の世界が今まで女性によって支えられてきたのが、改めて
分かったよ。ここでは理論理屈でなくハートと度胸だね。やっぱり女性は偉大だよ」

私は川村さんの言葉に素直な気持ちでうなずいた。

.
Fight
Fight
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(26)
  • [moko&place]
  • A級
  • Xiong M Jarka
  • 相馬 龍
  • 瑠
  • Jalapenos
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

骨太

執筆

司法

教養

アート

文学

人生

エッセイ

つぶやき

標準グループ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事