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第21話 老いるということ 「求職男」〜再就職への道〜
桜の花びらが舞う午後の病室。今年80歳を迎える父と78歳の母。 そして50歳になったばかりの私。 父は長かった裁判が終わった直後から,心労がたたり体調を崩し始めた。 持病の糖尿病に狭心症、公判中は検事の脅迫によるPTSDに苦しみ、 身の潔白を証明しようと死をもって抗議しようと、死に場所を探してさまよった こともあった。裁判後に二度の脳梗塞に認知症。 さらに心臓の動脈硬化も見つかった。 「お父さん、どがんね。傷口は傷むね?」 父は心臓のカテーテル治療のために入院した。 治療は無事に終わったが、腕の動脈からの出血が止まらず、手術が行われて 退院が延期になっていた。 内出血でどす黒く変色した右腕。 「おお、お前か。ほんなこと(本当に)久しぶりに来たな。(息子たちが) 誰も来てくれんから徒然なか(とぜんなか:寂しい)ったばい。」 (父は私が数日前に来たとことを忘れていた。兄や弟が来たことも忘れている。 以前、良さんが教えてくれた『受容』という言葉が浮かぶ) 「ごめんごめん、職探しで忙しくてね」 「そうか、お前はそうやったな・・・ニュースを見てると、ほんなこと厳しか みたいだな」 (父は私の職探しのことは覚えていた) 「うん、その件で二人に聞いて欲しいことがあってさ。まっ、俺の話を聞いてよ」 私は父と母に介護企業への就職をめざすことを伝えた。 なぜ介護業界なのか、何をめざすのかを説明した。 ヘルパーの養成講座に通うことも伝えた。 父や母の反応が気になった。 「そうか、介護か・・・俺は賛成ばい。実際、自分が介護をしてもらう身になって 知ったけど、お世話して下さる人たちはみんな良か人ばかりばい。せちがない 世の中に他人を世話してくれるなんて、誰にでも出来る仕事やなか。ほんなこと 感謝しとるばい」 父は意外なほど快く賛成してくれた。 「そうよ、私も一人ではお父さんを介護できんよ。みなさん良くして下さるし、 私も感謝しとるよ。人様に喜んでもらえる仕事だし、よかと思うよ」 母も賛成してくれた。 「介護の世界は仕事がキツイし給料も安いというし・・・反対するかと思うとったよ」 「あはは、なんば言いよるか。以前の俺やったら反対したかもしれん・・・でもな、 俺も逮捕されて苦しい裁判を闘う中でいろんなことを考えたばい。 人生って何やろうかと。一瞬で人生が変わる事も知った」 父の言葉に私も母もうなずいた。 「どんな立派な地位や肩書きがあっても必ず歳を取っていく。歳を取ればただの人、 誰でん同じばい。そん時に誰が世話してくれるとか・・・絶対に介護は必要ばい。 感謝される仕事ばい。そこで今までのお前が教えてきたことや経験が活かせるならば、 やってみればよか」 「俺もそう思う。裁判で俺も変わったとよ・・・人生観や生き方がね。 だからボランティアに興味を持つようになったし、就職活動を続けていく中で だんだんと自分が探していたことが見えてきたとよ」 今度は父と母がうなずいた。 「あんたがどがん仕事しようと、自分で納得して決めた仕事ならば、お母さんは 応援するよ。頑張りんしゃい」 母の言葉がさらに私の背中を押してくれた。 「よう考えると、お前は小さか頃から黙って人の様子ば、よう見よる子やった。 辛抱強くて根は優しい子やった。お前が闘ってくれたから無実を証明できたとばい。 お母さんも俺もほんなこと、お前には感謝しとるばい」 「またあ、その話はもうよかよ・・・もう終わったことだし。でもさ、裁判でいろんな ことを教えられたことは確かだね。 感情に押し流されない冷静な見極めと決断、そしてあきらめない気持ち。 最初は先生たちに感情ばかりで物事を見るなと何度もボロクソに怒られたよ」 「あはは、そうそう、そうやったな。お前なりに考えた上で決めたことやろうし、 俺も人として何が大切かを考えてきた。お前が考え抜いた末に出した結論やし 応援するばい」 「お父さん、ありがとう。最初は現場のヘルパーの仕事から勉強せないかんし、 大変やと思うけど頑張るよ」 「うむ、最初は誰でん苦労するのは当たり前ばい。そりゃあ大変やろうけど、 苦労した分は後で必ず役に立つ。お前は俺たちに内緒で夜の工事現場で 働きよったやなかか。お前なら出来ると信じとるばい」 たしかにあの時は親兄弟にも内緒で働いていた。 必死だった・・・。 事件以降、世間に背を向けて人との関わりが途絶えた八年だったが、 もう一度、人との関わりの中に戻ろうと決めた。 父と母、そして私。 いつも一緒に裁判を闘っていた。 当時の出来事が、今では遠い昔の出来事のような気さえする。 ベッドに横たわる年老いた父。 あの頃の父とはまるで別人のように老いてしまった79歳の父。 しかし父の表情には穏やかな優しさを取り戻していた。 そして寂しげな表情も。 五年前、74歳の父は法廷に立っていた・・・。 結審の日。 「本日、今の私の心境をお話させて頂こうと思って法廷に臨みましたが……この 二年半を振り返ると、一生忘れることが出来ないし、言葉ではお伝えできないほどの 憤りと苦しい日々でありました……そして、もっと検察が適正な捜査をしてくれて いたらと思うと残念でなりません……」 K検事は表情を変えないまま父をじっと見つめていた。 「私は検察の申されるように、不正を知っていながらあえて指示したということは、 天地神明に誓って致しておりません……」 父は、裁判官席に向かって涙をこらえながら訴えていた。 母は不安そうな顔で、今にも泣き崩れてしまいそうな父の背中をじっと見つめていた。 声がつまった父は三人の裁判官たちの顔を確認するかのようにゆっくりと見渡し 直立の姿勢で、腹の底から搾り出したような声で訴えた。 「私は司法の正義の元に、本当の真実が必ず明らかになる事を信じています」 それまで表情を変えずに聞いていたK検事の顔が、苦渋に満ちたような複雑な表情に 変わった。日野弁護士と山口弁護士は二人とも目を閉じたまま父の声を聞いていた。 「司法の正義が……司法の正義が、必ずや真実を明らかにしてくれることを私は信じています」 あの冤罪事件から今、九年目の春を迎えた。 一度失った信用をもう一度取り戻したい・・・父や母の願いだった。 窓際に立ち、ふるさとの佐賀の風景を見渡すと視線の先に裁判所が見えた。 母は椅子から立ち上がると私の横に並んだ。 背中が丸くなるばかりの母は以前よりも小さくなっていた。 母の視線は私と同じ方向を見つめているようだった。 人が老いるということ・・・。 親として子供に最後に教えることは、老いていくこと、死とは何かなのかもしれない。 誰も避けることができない「老い」と、どう向き合っていけばいいのかを、 父と母が教えてくれた。 今日に至るまでの時間は、父にとっても私たち家族にとっても言葉では言い表せない 濃密な時間だった。 「・・・・・・」 「おい、何か見えるか?」 「うん・・・桜が見える。今まで忘れていたけど・・・やっぱりきれいかね」 「そうか・・・」
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