『いつか春が』執筆日記

波乱に満ちた人生。夢に向かって挑戦する男のドキュメントストーリー。

心と人生

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「ひとり手紙」

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「ひとり手紙」という言葉を聞いたことがありますか。

父が逮捕されて勾留された佐賀少年刑務所。
拘置所は高さ四メートルほどのコンクリートの壁の向こうにある。
少年刑務所の敷地内に拘置所があり、周囲はこのコンクリートの壁が
敷地全体を取り囲み、さらにその外側は小さな堀で全体が囲まれています。

面会に行くときにはその小さな堀に架かった橋を通らなければなりません。
その橋を渡った刑務所側の敷地内に、街角でよく見かける赤い箱の
郵便ポストがぽつんとひとつ。

「なぜこんなところにポストがあるのだろう・・・」
明らかに一般の人が投函するような場所ではなく、橋の欄干の
すぐそばに設置された赤いポスト。
私は最初にそのポストを見たとき不思議に思えました。

ポスト・・・手紙を投函するただの箱かもしれません。
この赤い箱に投函された手紙を郵便局の職員が回収に来る。
しかし、このポストに投函される手紙は特別な手紙ばかりです。
このポストには塀の向こうにいる人たちからの専用の投函ポスト
なのです。手紙・・・今では滅多に書きません。

私が最後に手紙を書いたのは、読者の方から頂いた手紙に
対しての返事を書いたのが最後。
たしか一ヶ月ほど前だったと思います。

手紙を書くときの私は誰にも見せたことがないほど
やさしい表情でペンを握っています。万年筆で書く文字は
文字そのものがやさしさにあふれています。
書きながら自分の顔を見ることはできませんが、自分の
書いた文章を読み返すと分かります。
パソコンでは怒りの文章も書くことができますが、手紙では
なぜか書けなくなります。

父の手紙もそうでした。
拘置所の独房で書いた父の手紙。いつもの厳格さや威厳なども消え、
一人の男として、父親としてやさしさにあふれた手紙でした。
こんなにもやさしい父の言葉など今ま耳にしたり目にしたことがないほど
やさしさにあふれた言葉が綴られていました。
世間と遮断された環境なので、そのような心境になるのかもしれません。

手紙に関する規則として便箋の枚数は七枚以内。
父の場合は未決囚(判決が決まっていない)だったので、手紙を出すのも
受け取るのも数に制限はありませんでした。
刑が確定して服役している受刑者は服役態度によって階級が決められ、
その階級によって手紙の回数も面会の回数も決まる。

こちらから送った手紙は本人に渡す前に封を切り検閲されます。
受刑者の場合は、最初は中から手紙を出せるのは月に1回一通からだったと
思います。面会も月に一回、15分だけ。
受刑者に写真を同封する場合、許可を得た人だけが写っている写真に限定。
友達と一緒に写った写真は本人に渡されない規則だそうです。

父の面会に通っていたころ、待合室にはたまに若い女の子の姿や
赤ちゃんを抱いた若い母親の姿も見かけました。
恋人や夫に面会に来ていることはすぐに察しがつきました。

塀の中から外に手紙を出せる回数は決まっていて何通も手紙は出せない。
だから帰りを待つ人たちは、返事がもらえないことを承知で何通も何通も
手紙を書いては送る。

このように受刑者に宛てた一方通行の手紙を「ひとり手紙」と呼ぶそうです。

ここでの手紙は特別な意味があります。
塀の中で自分宛に届く手紙を待ち続ける人たち。
大切な人の帰りを待ち続ける人たちの想い。
塀の向こうと外とをつなぐ唯一の絆・・・手紙で結ばれた絆です。

塀の中で書かれた手紙は、赤いポストに投函されて、それぞれの待つ人たちの
もとへと発送される。しかし、すべてが帰りを待ってくれているわけでもない。
それでも塀の向こうから、毎日たくさんの手紙がポストに投函されるそうです。

苦しいときこそ笑う

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記事を更新しようとしたとたんに間違えて削除・・・泣きたい心境。

気をとりなおして書き始めましたが、何を書いていたのか?
そうそう、裁判で闘っていたときにどうやって心を支えていたか。

当時は完全に心を閉ざしていました。家族にも胸のうちを見せなくなり
どんなに苦しくても不安でも誰にも相談もできなくなっていました。
私が弱音を吐いたら、父や家族も不安がるので決して弱音は吐けません
でした。「大丈夫、絶対に無実を証明してやるから」といつも強気を
装っていました。
裁判は弱気を見せたら負け。
かたくなに自分ではそう信じていました。

しかし、無理がたたりストレスと不安で体に異常があらわれました。
背中や腕に激痛が走り、体も心もボロボロでしたね。
弱音を吐いてしまうと自分がつぶれてしまう。
そんな気持ちでした。

では、どうやって崩れそうになる心を支えたか。
人と交わらなくなった、いわゆる引きこもりにも似た生活が始まり
自分でもこのままでは精神的に持たないと考えました。
私はホームページを立ち上げ、父の無実をインターネットで訴えたのです。
「真実の証明」という事件のドキュメントも書き(これが本の原型でした)
「上を向いて歩きたい日記」というウェブ日記も作りました。

実生活では誰とも言葉を交わさないような毎日だったので、たまにコメントを
書いてもらうと嬉しくてですね。当時はブログなどありませんでした。
かろうじて何人かの人とネットで会話を交わすという異常な生活で、家でも
あまり話さなくなっていましたね。
だから何とかして自分の心を支えようと、こんなページも作りました。



自分で自分を励ますために作ったページです。
酒を飲んでウサを晴らすとかの心境にもなれず、ギャンブルも縁がない私は
ひたすらじっと耐えながら、無実の証拠を探すという生活でしたが、
ネットでの会話に救われた気がします。千葉県のきんのり丸さんという
漁師さんや佐賀県有田町のめがね屋さん・・・今頃どうされているのでしょうか。

ほかに音楽にも救われました。裁判や調査に佐賀に向かうときはいつも音楽を
大音量でかけながら車を運転していました(笑)
ボブ・ディランの「ハリケーン」は特に聴きこみました。この曲は無実の罪で
牢獄生活を送る世界チャンピオンのボクサーだったルービン・カーターを
支援するためにディランが作った曲。二十数年間、牢獄の中から闘い続けた
この実話は「ハリケーン」として映画化されました。

ほかにも吉田拓郎の「元気です」、ジャクソン・ブラウンの「悲しみの泉」
いろんな曲を聴いては気持ちを高めていました。次々にCDを買い続け
いつの間にか二千枚ほどになっていましたが、これもストレス発散のために
買い物をするという異常な心理状態だったと思います。

このようにネットや音楽で自分の心を支え続けたのですが、今ふりかえると
心を閉ざしてしまうと誰も近づかなくなり、自分で自分を追い詰めていました。

今、私が言えることは「苦しいときこそ笑おう」です。
笑う気持ちにはなれなくても、無理してでも笑おう。
当時はこのことに気づきませんでしたが大切なことです。
無実を訴えて闘っている人だけでなく、人生にもがいている人。
笑ったが勝ち!
気の利いた冗談など言えない私ですが、笑顔があるところに人は集まります。

苦しいときこそ笑える人・・・そんな人になりたいですね。




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