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というわけで今度はIMAX3Dで観てきました。IMAXの3Dメガネをかけると光量が落ちるので、
全体的に画面が暗めなこの作品は大丈夫かな、と心配しましたが大丈夫でした。昔はあからさま
に暗くなってましたが、こういう面でも進歩してますね。

IMAXの画面と音響で観る怪獣映画は格別です(^_^)
この監督さんは本当に怪獣映画が好きで撮りたくて作っている、ビシビシとそれが伝わって
くる。こちらも好きだからとても嬉しい。個人的にこの映画のベストショットはこの画像です。
ところどころに、こういう「すごく絵になる格好いいカット」があって、うんうん、わかる
わかる!みたいな感じ(笑)。格好良さで背筋がゾクッと来ます。こういうのを感じたのは
「パシフィック・リム」以来かな。

対比で出すのもあれなんですが、スピルバーグの「レディ・プレイヤー1」ってありましたね。
あれにメカゴジラやガンダムが出てきましたが、出た瞬間は「おお!」と反射的に喜んだけど
内心「なんかガンダムの動きが違うし、たったこれだけ?」って欲求不満を感じてました。
なんでガンダムはビームライフル持ってないのか?あれガンダム出すなら外せないでしょ、
とか。あれでちょっと感じたのは、スピルバーグ本人は本当は大して好きじゃないんだろう
なあ・・・って思ったんですね。こだわりが何にも無い。ガンダムはビームライフル持って
なきゃダメですね。大きな盾しか持ってないのは、バランス的にもおかしいんですよね。

その点、この監督の拘り、ガチ感はすごいです。しかも、ただオタクなだけじゃなく、ちゃんと
それを映画として画面に焼き付ける術を持ってる。これが一番大事です。インタビュー記事を
読んだんですが、この監督が自分でやるならどうしてもやりたかった事に、伊福部さんのゴジラ
テーマを流す、鳴き声をオリジナルに戻す、など色々あったんですが、あ、なるほど1作目の
ゴジラで「こうだったらいいのに」自分が感じていたことは、海外のファンも同じように
思ってたんですね。だから不満が解消されたという意味でも非常に気持ちがいい。

この映画は制作費宣伝費に凄いお金をかけてしまったから、興収的に今の所厳しいみたいです。
並のヒットでは回収できない。是非お膝元の日本でヒットして欲しいですね。
まあ過去に絶賛した「パシフィック・リム」もたいして儲からなかったみたいなので、所謂
一般の、普通のお客さん的には大したことない映画なんでしょうけどね・・・。

イメージ 2

映画館にあった、過去作品全てのポスターを背景にした今作のゴジラ。こういうのを作ってる
あたり、東宝としてもそれなりに力が入ってるのでしょう。



さてようやく最終回です。やっと全て載せ終わりました。明治あたりの漢字はよくわからない
ものも多々あって調べるのに意外に時間がかかってしまいました。

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私は意外だった。嬉しかった。ただし、この重病人に長話をさせて万一、体に障りでもすると
申し訳がないと思った。すると足立国手(医師の敬称)が側から、

「何、私が付いているから大丈夫です。折角話そうというのですから、聞いておやんなさい」
と言ってくれたので、私も安心して聞くことにした。晴一氏も側へ来て聞いていた。

玉山翁は、幼少の時からの事を話し出した。子供の時分の貧乏だった事を話している時の翁の
には、未だにそれが消えないような痛ましい影があったが、後年彫刻を以て名を成した時分
からの話になると、翁の語気には僅かに元気が湧いてきた。華やかな青春の追憶は、この瀕死
の老人の肉体に生き生きとした血潮を盛り返して来たかのように見えた。ぽつりぽつりと話さ
れるので二時間以上もかかった。

「私の生涯は大抵それでお仕舞いです。明治二十四年に京都へ来てからの事は、何もお話する
程の事がありません」
玉山翁はそう言ってやや暫く深い瞑想に浸っているいるようだった。それから後でまたこう
言った。

「お聞きの通りで、私の彫刻には師匠がありません。だから私は本筋の彫刻というものを習った
ことがない、古い物を模刻した事もない、ただ我流に物の形を写すことだけしか知りません。
ですから、今のように人間の頭が進んで、芸術という物をたいそう難しく言うようになって来る
と、私の彫刻などは何にも価値のないものになるのです」

「お言葉ですが、伝統を学ばなかったということは、先生の為にはかえって良かった事では
ありませんでしょうか」
と私は言った。

「いえ、そうではありません。古人を学ばない者は、狭い自分と言うものから出られないから、
真に優れた仕事は出来ません。それと私は、最初から銭を取る仕事をした。明治になってから
象牙の輸出に目をつけて、輸出物ばかり多くやった。いきなり金になる仕事ばかりやって
きた。それが仕方がなかったのです。しかし、私はそういう時代の人間だからそれでも構わない
しても、弟子に気の毒でした。私が本筋の彫刻を知らないために、弟子にもやはり自分のよう
事ばかり習わせました。それがために、時世が覆ると間に合わない。私が世話をした弟子の中
も、才分のある者もありましたが、師匠の私が悪かったために、今の世になって優れた彫刻家
になれた者が一人もありません。私はこれだけが真に・・・」

玉山先生の言葉はそこで切れた。その時、仰向いたまま固く閉じていたその両眼から涙が迸って
肉の落ちた頬を伝ってツルツルと落ちた。私自身も、言いようもない感激に打たれて胸に迫って
きた。私は、玉山先生の心持ちを理解する事が出来る。今殆ど臨終にも近い病床に横たわって
いるこの老芸術家の、心の苦悶と悔恨とを思いやると、その偽りのない涙に対して心からの同情
を注がずにはいられなかった。私は晴一氏に願って、第二回博覧会の名誉賞状を出して見せて
もらった。

。。。。。。。。。。。。。。

牙彫髑髏

東京府本郷区湯島天神町   旭 玉山

寸余ノ牙材ヲ用テ髑髏ヲ彫模シ其頭蓋平断シテ内部ヲ明示ス精緻霊巧造化ノ秘ヲ奪ヒ医学の
資トナル真ニ絶世ノ技量ナリ
其福井安兵衛出品印筒ニ鹿角ヲ用テ蟹身葉ヲ彫嵌スル意匠斬新活機ヲ具フ精粗両ナカラ得タリ
其神功名誉ヲ輝カスニ足ル絶タ感賞ス可シ

。。。。。。。。。。。。。。

この一枚の賞状こそ、まさに玉山翁の生涯を飾るに足るものであろう。先刻、足立国手は丸髷
婦人を側へ招いて

「つかぬ事を言うようですが、この家に算盤と帳面があるかどうか調べてください」
と言っていたが、婦人は暫く経ってから来て、
「算盤は見かけたことが御座いませんでしたが、帳面もただ今探してみましたが一冊も見当たり
ません」
と言った。この夫人は亡き養子榮山氏の妻女で、陶工故橘道八の次女である。

「あ、そうですか、御面倒でした」
足立国手はそう答えて、それからその元気の良い顔をにこにこさせながら私に向かって言った。

「私は玉山さんとは三十年来の交際ですが、その交際を始めた動機についてちょっと面白い事が
あるからお話致しましょう。その当時私は京都医学校ーー京都府立大学の前身ですーーに奉職
しておりました。当時の校長は猪子博士でしたが、その猪子さんが明治二十五年にドイツへ洋行
なさる時、職員達から餞別を贈ることになりましたが、何を贈るが宜しかろうと相談した結果、
旭玉山に頼んで時計下げの髑髏を彫って貰おうという事に決まって、東京へ照会したところ、
玉山は去年から京都へ来ているという事がわかったので、その時私がお使い役でやって来て、
初めて玉山さんに会ったのでした。で、その事を依頼すると、その前に一つ同じ物を他から
頼まれている、それを彫ってからでなければ取り掛かれないが、そうしていると到底日数がない
から引き受けられないという挨拶でした。それでは困るので段々聞いてみると、その前約者と
いうのが我々の知っている人でしたので、その人の方へ交渉して、我々の注文の方を先にやって
貰うことになりました。そこで初めて彫刻代は幾らですかと訊ねた所、五円だと言います。
明治二十五年でも五円は大金ではありません。あまりに安いので私も意外だったが、実は職員
全部で集めるので金が沢山集まるから、代金は何十円でも構わぬから一つ精一杯骨を折って頂き
たいと言うと、精一杯やってこれ以上には出来ないから五円だと言うのです。

とにかく、それで頼んで帰りましたが、品物が出来上がってきてから、五円ではあまり気の毒
だから十円出したところが、五円だけ返してどうしても受け取らない。あまりに安いではありま
せんかと私が言うと、いや、決して安くはない、実は東京にいた時は十円取ったが、京都は家賃
初め物価が安いので、一日の生活費が五十銭あれば足りる。髑髏一個彫るのに丁度十日かかる
から、五円貰えば丁度良いわけであると玉山さんは言うのでした。その時から私は、この人は
面白い人だなと思って、段々深い交際をするようになりました。玉山という人は万事がそういう
やり方で実に無欲な人です。

つい近年、石黒忠悳さんから頼まれていた象牙の筆筒を彫りましたが、これは是真の下絵で、
明治七年に材料と彫刻代七円を受け取った事になっていたそうですが、玉山さんに言わせると、
是真の下絵が面白くないというので手を付けずにあったのです。私もしきりに勤めて先年それを
彫り上げましたが、非常に良い出来で石黒さんも大層お喜びでした。ところが玉山さんは、
彫刻代は明治七年に貰っていると言って受けないのです。

たった七円ばかり貰っていたってそれではあまりに馬鹿馬鹿しいではないか、とその時も私が
言うと、玉山さんは、いや、七円だと思えば安いようだが、明治七年からかれこれ五十年の利息
を勘定して御覧なさい。この彫刻くらい高いものはないと言うのでした。実に金の嫌いな人
ですよ。それから、ただ今お聞きでしょうが、この家には算盤と帳面が無いそうです。これは
以前誰かに聞いたことでしたが、最前ふと思い出したので調べて貰ったのですが、やっぱり無い
そうです。それで玉山という人がいかに無欲な人かという事がわかるでしょう」     
すると黙って聞いていた玉山翁は、痩せ細った手を横に振りながら言った。

「いけませんいけません、そんな事は決して褒めるべき事ではありません。私は言わば職人根性
で、無欲ではない自堕落だったのです。私が自堕落だったばかりに、今日家族の者に難儀を
掛けております。実にお恥ずかしい次第です」

何という潔白な人格であろう。今日の世の中において、兎も角も清貧に甘んじて生活している人
があったならば、それだけでも確かに尊敬に値する人である。然るに玉山先生は、清貧をもって
甘んじているのでもなければ、無論それを誇りとしているのでもない。先生はそれを自己の不徳
だと思っているのである。ここまで到達してこそ初めて真に完成した人と言われるのであろう。
偉大なる人は、限りなく謙遜なるものだという事を私は知った。私は、このたった一度の玉山
先生との対面によって、千冊の書物を読んだよりも、幾万回の説教を聞いたよりも、遥かに多く
の事を教えられたような気持がした。このむさ苦しい家が、輝く殿堂のように思われた。
垢染みた布団の上に横たわっている老彫刻師の顔は、穢のない物の尊厳を示して、神のように
神々しく見えた。私の頭は自ずからその前に下った。



ーーーーーーーーーーーーーー校正しつつーーーーーーーーーーーーーー

今日丁度校正しつつある私の手許へ金田兼次郎氏から、玉山先生の病、遂に癒えず昨十日永眠
されたという通知が届いた。今春私の支那漫遊の留守中に「病気も大変軽快に赴いた」という
喜びの翁の自筆の手紙を私は受け取っていたのだった。翁を訪問した時から今日で満半年経って
いる。書斎の前の百日紅に烈日が照りつけ、蝉がやかましく鳴いている。(八月十一日。筆者)


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こうして読んでみると、やはりこの後日談も載せて良かったです。筆者のようにこうして文章
記録を残してくれると当時の雰囲気がよくわかり、一級の資料になるのでとてもありがたい
です。本文中でも玉山先生は真面目で曲がったことが大嫌いな性格が伺えましたが、これを
読むと、本当に馬鹿が付くほどの正直者だったみたいですね。今の時代と違って、清貧を良し
とする雰囲気もあっただろうし、作品に対する報酬に関しても、あまりに律儀でちょっと吃驚
してしまいます。
まあ当時でもここまで真面目だと、変わった人だなと思われていたみたいですが(^_^;)。

これを書いていた5年前に、どうにかして玉山先生のお顔を拝見したくて色々と探したんです
見つからず・・・。その後すっかり忘れていた所、去年の1月6日放送の「美の巨人たち」
で思いがけずお顔を拝見できました。


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写真が残っていたとは知りませんでした。どこにあったんだろう?確かに実直そうな感じです。
しかし、時計下げの髑髏というのはよほど有名だったようです。たくさん作ったに違いない
ので残っていると思いますが、私はまだ見たことがない。機会があったら一度拝見したい
ですね。


長らくお付き合い頂いてありがとうございました。

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追記


情報を寄せていただきました。
「明治の金勘定」洋泉社 2017年6月19日初版発行によると、明治30年代では大体
1円=二万円、一銭=二百円、一厘=二十円
に相当するそうです。なので、玉山の髑髏の5円は今の金額にすると10万円くらいです。










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素晴らしいです。怪獣映画として出色の出来栄え!!
この監督さんは怪獣をどう撮ればいいかを良くわかってます。是非大きなスクリーンで観て
欲しい。
前回のゴジラは、悪くはなかったけど、正直もの足りなかった。そのもやもやした感じを全て
吹き飛ばした感があります。そう!観たかったのはこんなやつ!多少の話の強引さ、雑さは
気にならない。むしろ、小さい頃に観ていたゴジラ映画を思い出して懐かしい感じさえする。

今回は、ゴジラの敵としてキングギドラが出現しますが、これがまた格好いいです。悪役に
徹するためか、金色ではなく黒々とした姿になって、宇宙怪獣という特性も発揮され、話に
絡んできます。思えば、今まで観たハリウッドの怪獣映画でこれイマイチだなあと思っていた
のに共通する点、全て敵がダメだったんですよね。前回の「ゴジラ」のムートーや「キング
コング: 髑髏島の巨神」のスカル・クローラーなどは正直、見るからにこれじゃ勝てんだろう
という風貌で魅力がなかった。やはり敵が強くないと主役も引き立たない。

今回のキングギドラはその点もうお墨付きの強さ、格好良さで、しかも作る方もどう撮ったら
良いのかよくわかってるんですね。わくわくする出現シーン、タメの後の見栄を切るような
見せ方。これでどうだー!お前ら!こういうのが観たかっただろ!と監督は思ってるに違い
ない(^_^;)

モスラやラドンといったお馴染みの東宝怪獣がハリウッド版になってどう変わっているのかも
見所です。そして随所に日本のゴジラ映画に対するリスペクトが感じられる。伊福部さんの
音楽、有名なカットのオマージュ、ゴジラの鳴き声をよりオリジナルに近くしたり、ゴジラ
映画にお金を払って映画館に観に来るような人間が喜ぶツボがビシビシ刺激される(笑)。

これはIMAXでもう一度観たいですね。もっとでかい画面と音響で観たい。なかなかこれを
超えるのは難しいんじゃないかな。次回は、キングコング対ゴジラらしいですが、かなりトーン
ダウンしてしまいそうで心配。









うーん思ったよりまだ分量があったので今回では終わりませんでした(・_・;)

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旅館へ着いて食事を済ますが否や、私はまず第一番に玉山先生を訪問すべく車を雇って宿を
出た。何年ぶりかで見る落ち着いた京都の町が私の心を楽しませた。二月十日頃なのに、
この日はわりに暖かくもあった。車は上へ上へと駆けた。皇居の中の公園を抜けたりした。
車屋は、紫宸殿(ししんでん)だの、何の大納言だのと言って私に教えてくれた。
室町通下立売というあたりは、場末に近いらしく、しもた屋(店じまいした家)の多い寂しい
街だった。車屋はのろのろと歩きながら家別に表札を覗き込んでいったが、とある家の前で
梶棒を下ろした。見ると、べんがら塗りの格子造りの古い家の門口に「旭玉山」と書いた
小さな木の表札が掛かっていた。

その家は、入口から奥へ土間が突き抜けていて、突き当りにのれんが掛かっていた。丸髷に
結った婦人が取次ぎに出てきた。私が名刺を出して簡単に来意を述べると、婦人は私を
取っ付きの八畳くらいの間へ上げて座布団などを出してから、名刺を奥へ持っていった。
そこは畳も壁も古びていたが、隅の方に土佐絵か何かの屏風が立ててあった。間もなく
そこへ、四十くらいの質素な様子をした人が出てきて初対面の挨拶をした。それが玉山先生
の息子、晴一氏であった。

「あなたのお話は先日金田さんがお出でなすった際に伺いました。わざわざお出掛け下すっ
誠に恐縮致します。」
晴一氏は何処までも謙虚な調子で話される。

「先生のご病気はいかがですか」
「それがよろしくないのです。何しろもう歳が歳ですから・・・」
「いかがでしょうか、お目にかかってお話を伺わせて頂くわけにはまいりませんでしょうか」
「さあそれが・・・医者からも談話を止められているいるような訳でして、それに宅の親父は
まことに無口な人間ですから、お会い下すった処で格別の話もあるまいと思います。しかし
あなたの事は金田さんからのお話で、親父も承知してはいる筈でございます。」

私も京都へ飛んできたものの、大方こんな事になりはしないかと実は半分覚悟していたの
だった。いかに私が図々しい人間でも、重態で床についている病人に向かって「あなたの
身の上話が聞きたい」などと言えたものではない。私は断念するより他はなかった。

「それではひとつ、あなたからお話を願いたいものです。こういう事もあった、ああいう事も
あった、などと日頃お聞きになっている事もおありでしょうから」
「どうもそれが何にもお話致す事がないのです。申し上げたように、まことに無口な人でして、
若い時分の事などを何一つ話したことがありません。ですから家族の者でも親父が昔どんな事
をして来たか、どういうわけで彫刻を始めたかというような事すらも一向に存じませんのです」
と晴一氏は言われた。

私は殆ど当惑してしまった。玉山先生の口からは聞かれなくても、家族の方々に会えば大抵
材料は得られると思っていた。晴一氏という方は、知っていながら隠しているような人で
ない事は明らかである。またそんな事をする理由も無い。この上は、もう全てを断念するより
他はなかった。

「どうも私としては残念ですが致し方ありません。それでは伝記の方は断念致しますが、折角
出かけて参った事ですから、せめて先生に一寸でもお目にかかって帰りたいものです。それも
ご気分の悪い時では押して願うことも出来ませんが、まだしばらくは滞在する考えですから、
ちょいちょい伺って見ることに致しましょう。どうかそれだけお願い致したいものです」
私はせめて玉山翁の顔でも見て帰らないことには、諦めきれないのであった。

「少々お待ちくださいまし、一寸聞いてみますから」
晴一氏はこう言って私を残して奥へ行った。やや暫くして、晴一氏は戻ってきて、
「親父に申しました所、今日はいつもより気分も良いからお目にかかると申します」
と言われた。私はそれだけでも非常に嬉しく感じた。他人に読ませる伝記など書かなくとも、
自分の尊敬している老芸術家に接することが出来るなら、私自身の心にだけは何時までも忘れ
ない印象を残すことが出来るであろうーーー。

暗い六畳間の中の間を通ると、その奥の座敷が玉山翁の病室だった。翁は、厚く重ねて敷いた
の上に、さらに壁際へ寄せて布団や座布団などを三尺くらいの高さに積み上げて毛布を
掛けた上へ、上体を仰向けにして寝ていて、軽く目を閉じていた。頭は禿げて後ろと横にだけ
薄い毛が残っている。面長で、真っ白い顎髭が四五寸位の長さに伸びている。その顔はひと目
見た時殆ど死相に近い程やつれて、やせ衰えていた。

何という質素な光景であろう。この家といい、あたりの様子といい、あまりに質素である。
私は最初から、玉山先生が堂々たる邸宅を構えて豪奢な生活をしているとは無論予期していな
かった。けれども、隠遁したとは言いながら、一代の巨匠である玉山先生の住居であるから
にはきっと小ざっぱりとした風雅な暮らしであろうと想像してきた。ところが、私のその
小さな想像さえも全く裏切られてしまった。本当を言えば貧しいのであるーーー。

天井も煤けていたが、壁も畳も汚れていた。病人の枕元の黄色い壁はザラザラした中塗りの
ような壁だった。身に掛けた物も粗末だった。かい巻きだけは古くも絹布だったが、上に掛けた
二枚の布団も、下に敷いているものも、木綿で綿の固そうな布団だった。床の間には見舞いの
菓子折りがたくさん置いてあった。六十くらいの白髪交じりの老紳士が一人、病床の裾に
座っていた。玉山翁は、胸の上で両手を組み合わせたままぐるりと頭を回して、

「これはこれは、初めてお目に掛かります。私が旭玉山で御座います。遠方からようこそ
お訪ねくださいました」
と、皺枯れた苦しそうな声で言った。
「ここにいらっしゃる方は、足立さんと言って、お医者様です。私が京都へ来た時から御懇意
して頂いてる方です」
そう言って玉山翁は、半白の老紳士を私に紹介してくれた。その後でまたこう言った。

「先達ても金田さんがおいでになって、あなたが私の伝記を書いて下さろうというお話を伺い
ました。しかし私は、人様に知って頂くような人間ではない。詰まらんことしかして居りません。ですから以前にも、新聞や雑誌の方から経歴を話せと言われたこともありましたが、
いつでもそう言ってお断り致しました。しかし、金田さんのお話もあり、あなたもご親切に
お訪ね下すった事ですから、私も考えてみましたが、玉山という人間はどんな人間だったかと
いう事を、幾らかの人には知って頂くのもいいように思います。伝記などという事は別に
しまして、今日は幸い足立さんもいらっしゃることですし、それに昨日注射をしたので今日は
痛みもなくて気分が良う御座いますから、思い出した事を少しばかりお話致しましょう」


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うーん・・・常人が到達できない領域にまで技を高めた人の晩年が、必ずしも幸せではないと
いうのは珍しくありませんが、こうして具体的に描写されると不遇感が半端じゃない。

同じく超絶技巧で昨今もてはやされている正阿弥勝義なんかも同じで、あれだけの傑作を作り
華々しい活躍をしながら、晩年はパトロンがいなくなってしまい、新たな顧客を得るために
慣れない営業で身をすり減らし、大きな借金をしながら制作を続けて亡くなりました。
性格が両人ともかなり真面目でストイック、自分に対する評価が低い。自分を自ら売り込み
に行くなどという事は端ないとでも思っていそうな、昔気質の職人。

やはり営業の部分を疎かにしてはいけないのだな、と思います。この筆者は大したものでも
ないのに流行りに乗って売れているものを忌み嫌っていますが、だからといってそっちを
疎かにするとこんな名人でも名を知られずこうなってしまうんですよね。
今はネットがあるから、見てもらうだけなら随分楽になったなと思います。











そろそろこのヤフーブログからも引っ越しかな・・・と思ってちょっと記事を見返していた所、
この「近世名匠列伝」が途中で終わっている事に気づきました。忘れてた(・_・;)

と言っても、本文は終わっていて、ここからは言わばメイキングや後日談です。「いずれ補完
します」書いて終わっていたので、5年ぶりに続きです。前に書いた時はまだ旭玉山は世間的
あまり知られていなかったんですが、超絶技巧ブームでTVで取り上げられたりして、知名度
多少上がったように感じます。まあ、まだ知る人ぞ知るという感じですが・・・。

もしこの「近世名匠列伝」を読んでいない方がおられたら、結構面白いので最初から読んでみて
ください。

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旭玉山の名を私が初めて知ったのは、名匠列伝の述作に着手してからのことだった。

それは他の彫刻家の伝記に関する材料を蒐集している場合に、折々その中に旭玉山の名が出て
くるのだった。そういう程度で知っただけの旭玉山の輪郭は、極めて朦朧とした程度のもので
あったが、それでも旭玉山という人が極めて人格の高い、そして優れた技量を持っている彫刻家
であるということを知るには充分であった。僅かに片鱗を現しても、波間に隠れる大魚の姿は
遂に見通せないのであった。そこで私はその道の先輩について玉山の事を問うてみると、
「旭玉山は明治の彫刻会における原動力で、非凡な技量を持っている人だ」と何人もがそう
答えた。また私は玉山は現在でも京都で存命であるという事も知った。

「それほどの大家をどうして自分は今まで知らずにいたのだろう?」と私は思った。
無論、私自身が美術の門外漢であり、かつ世事に疎いことに極まってはいるが、それにしても
名前くらいは嫌でも知りそうなものだったのに、と些か不思議な感に打たれた。で、考えてみる
と世の中というものはまことに不公平なものである。同じくらいの力量を持っていても、栄える
人と栄えない人とがある。芸術家などに至ってはそれが特に甚だしい。さしたる天分も技量も
ない者が、不思議に人気を博して一代の流行になっているかと思うと、一方では真の天才が
世に埋もれ終生頭角を現さずに終わるような例は、古今東西を通じて珍しくない。

芸術そのものの価値は飽きれるほど絶対的なものであるけれど、それを鑑賞するものは世俗
なのだから、勢いこうした矛盾も免れないことである。また、真価意外に、その人の置かれた
地位境遇いかんによっても、社会的な名声は大をなす人と成さない人とが生じてくる。だから
芸術ばかりは棺を蓋わぬ間は到底その真価を測る事は不可能だ。死後百年二百年の後に至って
初めて公平な標準が取れてくるのである。それでいいのだ。

そもそも芸術家を志すほどの者なら、一時の名声だの物質上の報酬だのは眼中に置かず、常に
百年の後に評価を待つ程の覚悟を持って自己の芸に精進すべきだ。芸術家とて人間だから、
名誉も欲しい金も欲しい、それで立派な生活を営むのに何の不思議があるか、と近頃では言う
人がいるけれど、それは間違いだ。芸術家は自己の芸を生かすことだけが仕事である。

自分を生かし家族を生かす事は本来の目的にはならない。私はあくまで、所謂名人気質という
ものを尊重し、憧憬する者である。とにかく、旭玉山の如き名人が、比較的社会に認められず、
もしくは忘れられているというような事は有りがちなことである。私同様に、これまで旭玉山
の名前を知らなかった人が世間には少なくあるまいと思う。で、私は是非とも玉山の伝記を
書いて見たいと考えた。私の今度の仕事は、著名な芸術家の伝記を書くよりも、寧ろそうした
隠れた名匠の事跡や性格を研究して、それを社会に紹介するところに、より多くの意義がある
と信じるのである。

そういう目的を抱いて、玉山の事を知っていそうな二、三の人に聞いてみた。すると断片的な
材料は多少得られたが、一向に筋道が立たない。ところが、ある人に教えられて、梅澤隆真氏
(柴田是真の三男、蒔絵師)の紹介で京橋大鋸町の金田兼次郎氏(初代は牙彫家、牙彫商。
安藤緑山と関係が深いが筆者が会ったのは二代目らしい)を訪問した。

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安藤緑山の象牙彫刻。超絶技巧ブームで一気に名が知れ渡った感じ。

当代の金田氏は二代目だが、先代は彫工会の発起者で日本の彫刻界に多大の貢献をした人で、
明治初期の彫刻史からは名前を外す事の出来ない功労者である。今の金田氏はその養子と
なった人であるが、これまた柴田是真に就いて書を学び、後に女性を内室にして、絵画、書、
彫刻共に造詣が深く見識を持っていられる人であった。金田氏は私の目的を聞いて大層喜ばれた。

「しかし、私も玉山先生の事は明治十年以後の事だけしか存じませんが」と言って、十年頃
からの事を詳しく話された。当時の彫刻家の一般の生活や彫工会の前進の競技会時代の事柄
などを私は氏によって知ることが出来た。その上、氏の手元に秘蔵されている玉山の彫った
髑髏と、例の暁斎が下絵を描いた煙管筒を見せて頂いた。この煙管筒は花柳壽輔の手を離れて
その後転々とした挙げ句に、不思議な因縁で金田氏の所有になった。が、これでは伝記になら
ない。何故かと言うと、肝心の生い立ちが一向にわからない。せっかくここまで漕ぎ着けながら、このまま手を引くのも残念だから、自身で京都に行って玉山を訪問して、直接に話を聞く
よりほかはないと決心した。その考えを金田氏に話すと、
「それは非常に結構なことですが、ただ困った事は、先生はもう二年程このかた病気で床に
ついておられるのです。何しろご高齢ですから回復は難しいでしょう。会っても話が出来るか
どうか疑問なのと、もう一つは、玉山という人はまことに無欲な、そして名聞を好まぬ人です
から、滅多なことでは自身の口から経歴などは話しますまい。ですから、京都へお出掛けに
なろうというのなら、その前に私から書面で様子を問い合わせてみましょう」と金田氏は
言った。その事を依頼して私は帰った。ところが間もなく金田氏は京都へ行かれた。

玉山先生の所へ、病気見舞いを兼ねて私のことをあらかじめ先方へ通じさせておこう、という
親切からであった。私は金田氏の帰りを待って京都へ向かうべきであったが、他に都合もあって
氏と行き違いに東京を発ってしまった。

それから四、五日後に私は京都へ入った。

.............................................................................................

次回が最終回になりそうです。遂に筆者は最晩年の玉山先生にお目通りします。しかし芸術家
金や名声などを求めず、芸のみに精進すべし、っていうのは現代ではほぼ廃れた感があります。
流行に振り回されず、百年、二百年後の評価が本当の評価でそれまで待つべし、っていうのも
ちょっと(^_^;)
でもほぼ百年後の現代、再評価されて光があたっているのはやはり素晴らしいものを残して
いるからこそだとは思います。




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