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竹駒から気仙川の右岸を下り、当時の様子などを聞かせてもらった。竹駒はかなり内陸部にあるのだが、気仙川を逆流した津波は堤防を乗り越えて付近一帯を呑み込んだ。的場の辺りは多くの宅地があったはずだか今は更地同然になり、以前の様子は想像できない。ヤマセン醤油もこの辺りにあったそうだが、従業員らが避難した神社があるだけでここも更地のようになっている。 気仙中は避難命令が出た場合、気仙小に移動するようになっていたが、あの付近の様子からだと中学生のお孫さんはダメだろうと思っていたそうである。ところが気仙小の菅野校長先生の機転で生徒らは更に高い場所に避難したため無事だったのだ。 このあと実家があった場所を案内してもらったのだが、長部川を遡った津波は裏手の斜面で渦を巻いて建物は全てやられてしまったとの事。今は養生された欅の木?が仮置きされていた。 川を下って海辺まで行くと、破壊された漁協の施設のような建物が今もそのままになっている。市内に戻ると一本松を見物に来た人々が集まり始めていた…。 |
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ふうさんのご実家は長部だったんですか。
私は45号線からしか見たことがないけど、「こんな奥まで津波が来たんだ。。」と驚きました。
高田を見るたびに、恐怖と悲しみが入り混じった思いで打ちのめされそうになります。
かさ上げ工事が進んでいると思いますが、高田の良さを生かした防災都市づくりを願っています。
2013/5/23(木) 午前 5:59 [ 麻巣 ]
ますピーさん、長部や竹駒もそうですが「まさかここまで…」と現地で思うことはしばしばです。ふうさんは当日市内にいたため家族の人たちは絶望視していたそうです。防潮堤だけに頼るのではなく、自然と調和した減災を目指して欲しいものですね。
2013/5/23(木) 午前 6:33 [ スタリオン ]