座乱読無駄話日記

読書や趣味、日常のことなど不定期に語ります

婆娑羅大名

 唐物好きの極め付け・・というか、唐物をたくさん集めて見せびらかした・・というのは、もちろん、室町幕府の将軍たちもそうですけど、南北朝の時期だけに流行った「婆娑羅大名」たちがいます。
 歴史の本などに出てくるのは、「建武式目」の第一条。
 「近日婆佐羅と号して,もっぱら過差を好み、綾羅錦繍、精好銀剣、風流服飾、目を驚かさざるはなし。すこぶる物狂いというべきか・・・(だから、これほど目を覆うようになってきては、厳罰にしてもしょうがないぞよ・・)・・」
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 というので、「ばさら大名のすべて}(佐藤和彦・選・新人物往来社)という、まあ、なんだか軽そうな題名(失礼)の本を読んだ。
 この中に出てくるのは、もちろん、有名どころの三人の婆娑羅大名たち。
 土岐頼遠、高師直、佐々木道誉のお三方。

 一般的に、一番有名なのは、やはり、高師直でしょうねえ。
 高師直は、なにしろ江戸時代を通じて、仮名手本忠臣蔵の悪役になったからには、好色で陰険、意地悪で憎たらしい、ひひじじいにされてしまった。
 しかし、まあ、生きている時から、あっちにつき、こっちにつき、武士としては、忠も義もあったもんではないとう、よく言えば、臨機応変、機を見るに敏ということです。  ですが、武士が忠義をうんぬんするようになるのは、身分が固定されてしまった江戸時代ですから、これから、戦乱の時代が始まるというような時期には、とても大切な才能だったかも。
 けれど、彼自身は、足利尊氏の執事でしたから、主君の弟とはいえ、実験を握っていた足利直義とは、性格的にも、心情的にも、まったく「合わない」間柄だっただけで、結局は、尊氏自身には死ぬまで忠実だったかなあという感じもします。
 寧ろ、尊氏という「主」が、なんだか背反常無き性格の不可解な人物だったみたいなので、そのとばっちりを受けていたら気の毒だなあ・・と。
 ましてや、彼の「肖像画」まで、主君尊氏の者とされていたというんですからねえ。
 しかし、人妻への横恋慕は本当みたいだし、彼の決めゼリフとみたいな
 「王とか言うものが、必要なら、木か金ででも作って御殿にたてまつって、本物の院や天皇などは島流しにしてしまえ」
 まあ、これは婆娑羅の面目躍如でしょうか・・。

 そして、佐々木道誉。彼は典型的な婆娑羅大名でありながら、けっこう長生きしたし畳の上で死んだ。
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 彼は京極佐々木家の出で、鎌倉幕府に仕えて、最後の執権北条盪に、子供の時から仕えていたので、高時が、病を得て出家した時に一緒に出家した家臣の一人だったので、かなり重んじられていたんでしょう。
 しかも、幕府に逆らって流罪になった後醍醐天皇を護送したのも彼ですから、かなり重要な幕臣だったはず。
 しかし、時代の流れを読んでいたのでしょう、足利尊氏のもとに入って六波羅攻めを行い、中先代の乱のときには、尊氏とともに鎌倉攻めをしているというから、立派な足利旗下です。 
 けれど、尊氏が京都に反した時には、新田義貞に攻められて敗戦すると、今度は新田側に入り込む。されど、またまた尊氏側が盛り返してくると、新田を裏切り尊氏に再度寝返るという、まあ、「機を見るに敏」の典型。
 以後、尊氏のもとで重用されて、好き放題。権威をものともしないのは、有名な「紅葉の枝」事件で、道誉の下人が、妙法院の紅葉の枝を折ったのを、寺僧にとがめられ、暴行されたことをきっかけに、「うちの若いもんに怪我をさせるとはええ度胸や」とばかりに、手下を引き連れ、妙法院を襲撃し、乱暴狼藉、挙句に火をかけて焼き払い、建仁寺まで類焼したというから、まああきれたもんです。
 格式の高い妙法院としては黙っておれず、今度は本寺の比叡山の荒法師たちが都に乱入するという仁義なき戦いの様相を呈してきて、結局、道誉の流罪ということで手を打たせたのです。
 けれど、これがまた、ただではすまん・・・天下の婆娑羅大名が「流罪」ですから、護送されていく流人行列をこれまた道誉流の、派手派手しいパレードにしてしまった。大勢取り揃えた「見送り人たち」を派手に着飾らせ、鳴り物入りで、道々で酒宴を催し、宿場宿場で遊女を挙げてのどんちゃん騒ぎ。街道一の親分は誰だか見せつけた。 結局、こういったパフォーマンスのうちに、流罪はうやむや・・・って、すごいですねえ。

 そして、土岐頼遠は、前の二人ほど有名ではないですが、仲間たちと犬追物をして、酒を飲み、よい気分で帰っていたところ、光厳上皇の牛車に出合い、院の伴の者が「このお方をどなたと心得る。さっさと馬から下りろ。院の御車であるぞ。」と命じた。
 これに対し、酔っぱらっていた土岐頼遠は、「へ? いん・・・・いぬ・・・? 犬なら犬追物よ! こうしてくれるわ」と言って、院の乗った車に矢を射かけたというもので、実力主義の武士には都の権威などへのかっぱ・・という、たとえ話で有名です。
 しかし、この決着は、なかなかに悲劇的なものです。
 土岐という名前からも分かるように、彼は美濃土岐氏の出身で、遠祖は清和源氏の流ですが、美濃では勇猛でならし、家紋である桔梗の旗印のもと「桔梗一揆」と言われる一族を率いて足利氏に従って活躍したのです。
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 その戦いぶりは蛮勇とすれすれで、彼自身、敵の刀を顔に浴びて、左の眼の下から鼻を横ぎって、右の唇にまで刀傷があったそうです。見てくれも、さぞ「恐ろしげ」であったでしょう。
 このような、いわば、体力自慢、腕自慢の彼らが、犬追物などで盛り上がって、おまけにお酒も入っていた帰り道ですから、気分は高揚していたのでしょう。
 そのよい気分の時に、居丈高な公家たちの態度や雰囲気に、かっとしたのも分かりますが、無抵抗の牛車を取り囲んで矢を射かけるというのは(たぶん、乗っている人間にはあてないという自信もあったと思いますが)、暴走族のようで、社会的に容認できないというのはわかります。
 しかも、上皇という高貴な人であったことから、これは大問題になり、いかに足利家に忠実で勇猛な家臣であったとしてもかばいきれず、ただ、彼一人の首と引き換えに、土岐一族の存続は認めるということになった(実年齢などはわかりませんが、いつもともに行動をしていて、家を相続した甥の年齢などからすれば、かなり若年であったかもしれません)。
 一旦は逃亡したけれど、子供達には類は及ばず、甥の相続を認められて、刑死したというのは、婆娑羅というにしては、一族のために非業の死を遂げたような感じがします。
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 このあと、守護土岐氏は、後に守護代の斉藤家の斉藤道三に下剋上されて、滅ぼされるのですが、同じ一族の分家筋には明智光秀がいます。

 ということで(どういうことで?)婆娑羅というのはどんな雰囲気だったのか・・・ちょっとこっちに描いてみました。

 
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名物というブランド品

 一時ほどではないでしょうけれど、日本人ってブランドもの好きですよね。
 海外からの高級輸入製品が大好きっていうのは、もう奈良時代の昔・・・いや、もっと前の弥生時代から・・あるいは縄文時代からの国民性かもしれません。
 いわゆる「国風文化」と言われていた平安時代でも、その実、最高の貴重品を集めていたのは天皇ですし、摂関家の貴族たちは、ここ一番という晴れの時には、高級輸入品「唐物」で飾り立てていたというのは、以前、「毛皮の女王」末摘花のところで、「光源氏が愛した王朝ブランド品」(川添房江・角川書店)で色んな例をあげて述べられていたところですが、そののちも、ず〜っと日本は、高級輸入品「唐物」への憧れ文化を持ち続けていた・・というのですね。
 そして、室町時代に流行した「茶の湯」の文化は、そういった唐物を大いにもてはやした。
 茶の文化そのものは、おそらく遣唐使がもたらし、平安初期にはで流行っていた「団茶」というものが大いに好まれていた。団茶というのは読んで字の如し・・・団子になったお茶っ葉ってことで、茶葉を蒸して搗き固め、あぶって砕いたものを湯に溶かす・・・フリーズドライではないけれど、まあそういったインスタント固形茶みたいなものであったらしい。 このお茶湯に塩を入れて飲んだというから・・・どんな味だったんでしょうねえ。
 鎌倉時代になって禅僧が、の国からお茶の木そのものを持ち込み、また宋代に流行っていた「点茶」(所謂、今日いうところの「お抹茶」これも、乾燥粉茶ですけど)を日本に紹介しました。
 これが、以後大いに流行し、そのお茶を飲む容器や、茶をたてる器具、保存しておく入れ物などが、すべて「唐物」で、茶の湯・・茶道が起こってくるわけです。
 ちなみに、煎茶というのは、代におこったお茶の飲み方で、江戸時代になって日本に入ってきたそうです。
 しかし、現代になって、缶入り飲料やペットボトルが普及すると、日本人の定番であった緑茶は、時間を置くとカテキンが酸化して色が変わってしまうため、急須で出さなければならず、お茶離れがはじまった。しかし、業者の努力もあって、容器に窒素ガスを充填することで酸化を防ぎ、2000年前後にはかなりの種類が出そろい、今、手軽に緑茶を持ち歩けるようになったんですね。

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                     ↓大河の佐々木道誉(陣内孝則)
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  ↑ 佐々木道誉              ↑茶会の席

 まあ、お茶そのものの話は別として、鎌倉以降に流行した「茶の湯」とお茶道具という海外ブランドは、武士の間に流行し、いわゆる太平記の時代・・つまり「婆娑羅」と呼ばれた人たちのお茶会は、なかなかに絢爛豪華。
 身なりも派手なら、行動も派手、持っている唐物も、自慢の種で、これ見よがしに並べまくって、飾りつけ、茶会は、ただお茶を飲むだけではなく、そのお茶の味を競って、賭け事をするので、賭け事の商品の対象となるのも、それらの唐物。勿論、料理も食べるし、酒も飲むので、賭け事はエスカレートする。
 婆娑羅大名で有名な佐々木道誉など、派手な寄合茶会を開いたのみならず、敗走するときにも、茶会のしつらえをなして、三石の酒を入れた大きな筒容器を置き、給仕人を残して、誰かれなく酒をふるまう用意をして去ったというから、豪儀なことですねえ。

 室町幕府にも当然、そういった唐物趣味は継承され、歴代将軍は、高級輸入品を集め続けた。そして、将軍家は、そばに「同朋衆」として、目利きを多く抱え、厳選された良いものを集め、分類し、整理した(博物館学のようだ・・・)のですね。ですから、将軍家の収集品は高いブランド価値を、さらに高めたと言えますね。これが、いわゆる「東山御物」(ひがしやまごもつ)として知られる「名物」になるんですけど、なぜ、「東山」というのか・・。
 なにもこういった物を集めたのは東山殿、つまり足利義政だけではなかったし、むしろ、それまでの歴代将軍の方がたくさん集めている。
 これについては「戦国織豊期の唐物」(竹本千鶴・『唐物と東アジア』・勉誠出版)にむしろ、足利家が、経済的にひっ迫し、持っていたブランド品を小分けにして売り出し始めたということで、義政の時代・・をとらえているのは面白いですね。
 田舎の大名などに、都の商人が
 「大きな声ではいえまへんけど、これは東山御物どす。ほんまはほかのお人のお手に渡るものや、おへんのどすえ」
とかささやいて、
 「おお! 東山殿の旧蔵品か! そぎゃあ値打ちもん、この値段でか!」
 とかなんとか言ってそうでしょう? ここらあたりから、本物の室町幕府の倉庫から出たものかどうかわからなくても「東山御物」の値段がだんだん高くなる。
 勿論史上名高い「つくも茄子」もそうですね。
 そして、天下を望んだ戦国大名たちは、こぞって、こういった「名物」を欲しがった。名のある大名・・というより、野心のある大名たちは、駿河今川(9)、美濃斉藤(10)、近江六角(22)、越前朝倉(32)、阿波三好(62)・・と、持っていた名物の数(カッコ内の数字)が、なんとなく勢力を表しているような気がせんでもない・・。
 そして、織田信長は、235点もの名物を持っていたそうです。
 さすが、天下人・・というところでしょうけれど、世に言う名物狩りのように、根こそぎ集めまくった・・というようなことではなく、あくまで彼の趣味で集めたようで、いくら差し出されても、自身の好みに合わないものは、受け取らなかったというようなこともあったらしい・・って、これはちょっと意外だったかなあ。
 しかし、「東山御物」というなら、新たなる価値は「信長御物」とでもいえそうで、これは政治的に利用され、恩賞になったり、和平の貢物になったり、一つの価値を持っていたようですし、また信長が開く茶会は、これらの名物を披露して、権力の象徴としての機能を果たしたわけです。
 ここまではすべて、名物は「唐物」だったのですが、本能寺でたくさんの「名物」が失われて、秀吉の天下になると、茶の湯においても、千利休に代表されるような、新たな価値観も生まれ「名物」は唐物だけではなくなってくる。
 秀吉が所蔵していた「名物」は327点もの多くに上っていたようですけれど、これらの中には、新しい価値観のものや、日本製の茶道具なども入っており、時代は明らかにかわったんでしょうね。
 平安時代以来続いてきた「唐物」の伝統は、信長をもってして終わったということでしょうか。
 これらのネタは、「唐物と東アジアー舶載品をめぐる文化交流史」(河添房江・皆川雅樹・編・勉誠出版)です。色んな切り口があって、面白かった。
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待賢門院藤原璋子

 待賢門院とくれば、文学史の方から言えば、ご本人よりも、彼女を取り巻く、華やかな女流歌人たちが有名でしょうか? あるいは、西行が、彼女のために、一生を誤った(?)、いや、侍女たちとの交流をもちつづけ、文学的業績を高めたという説など、文学サロンの香りが漂います。
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 待賢門院本人は、沢山の才女を身辺に集めながら、和歌の素養はなかった・・などと言われていますが、自身に、とびぬけた創作の才能がなくても、「観賞眼」があり、好きなら、凡庸な自作をひけらかすことなどせずとも、その財に任せて、輝く才人たちを身辺に集めて楽しむ・・・そして、更にその才人たちを売り出す・・・・これほどの文学的贅沢がありましょうや! 
 だって、好きな作家をたくさん「子飼い」にして、競わせ、発表されたなら、ベストセラー間違いなしの作品を、だれよりも先に自分が読める・・・これ、ものすごいことでしょう?
 こういった贅沢を享受する「権力」を持ちえたのも、ひとえに、彼女の才覚・・・とはいえ、その立場を作ったのは、たった一人の権力者である・・というのも、この人が、華やかで哀しい原因かもしれませんね。
 まあ、読んでだいぶたつので、内容をわすれてしまったところもあるけれど、待賢門院とくれば、基本書はこれですね。
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 「待賢門院璋子の生涯ー椒庭秘抄」(角田文衛・朝日選書)です。
 彼女の生涯を書く小説も、論評もこれを決定版としなけらばならないほど、詳細に書いてある。
 そして、その待賢門院の「不幸」の子供達、崇徳後白河天皇との確執などの導入となる、崇徳院の「実父」問題に、彼女の生理周期まで表にして考察する、学問的というには生臭すぎることを大真面目にやっているから、印象が深いんでしょうね。
 本来は、藤原氏とはいえ、さほど上流ではなかったうえに、父は早死にしているので、たとえ宮中に上がったとして、もさほど出世できない女の子が、女性の最高ステータスにまで上り詰めるには、たった一人の権力者のわがまま?がありました。
 これを愛情というには、なんともはた迷惑なところは、楊貴妃にも匹敵・・いや楊貴妃以上かも。
 白河上皇の愛人の一人である祇園女御(女御と呼ばれていますが、正式に入内した妃の一人ではなかったらしい)が、養女にした幼い娘が、上皇に可愛がられ、娘分となったことが、そもそもの出発点。
 上皇の可愛がり方は異常なほどで、14歳になる頃にはもう愛人関係にあったとされています。歳の差、なんと48歳。現代でもひょっとすると孫娘ですね。平安時代だと、曾孫もありうる。
 この可愛い「娘」に箔をつけてやろうと(というより、上皇が甘やかした?おかげで奔放な娘に育ち、愛人も複数あったようだし、そろそろ身を固めさせて、立場を作ってやろうというのでしょう。年寄りの自分の妃にしても将来がしれているので)、摂関家の嫡子藤原忠通との結婚話を持ちだした。
 ところが、関白忠実は、上皇との噂を知っていたので、断わったところ、上皇の不興をこうむり冷遇されるはめに陥ります(もしこれが実現していたら、どうなっていたのでしょうねえ。彼女は摂関家のなかに「争いの種」を持ち込んで、ここの家ももめてたかなあ・・・いや、結果は忠通頼長のモメゴトは避けられなかったでしょうから、まあ、同じかな?)。
 摂関家がだめなら、もっと上を狙おうと、上皇は、なんと自分の孫鳥羽天皇に彼女を入内させます。年齢は彼女のほうが6歳年上。
 そして、ここで、角田先生の詳細な考証が始まる訳ですが、まあ、結局、彼女は養父である白河上皇の子供を、夫の鳥羽天皇の第一皇子(崇徳天皇)とすることに成功するわけです。
 その後、彼女は、女性としては最高の出世である中宮になり、ほぼ毎年のように子供を産んで、結局5人の皇子、2人の皇女を持つわけですが、その長男が崇徳天皇、四男が後白河天皇。運命の二人ですが、それはずっとのちの話です。
 しかし、絶対権力者白河上皇が、その権勢をふるっている間は、彼女の立場は絶頂期で、年若い夫は天皇とはいえ祖父に逆らえず、幼い皇子(当然、長男の崇徳天王)に位を譲らされ、19歳で隠居(上皇)生活を余儀なくされますが、彼女自身の「広い守備範囲」のおかげで、夫もそこそこ愛情を注がれていたので、夫婦関係は良好であったようです。
 彼女の転落は当然ながら、「養父」白河法皇の死とともに始まります。この時、彼女は第7番目の子供を身ごもっていたようですが、以後、夫とは形式的な付き合いになり、鳥羽上皇も重圧がとれて、白河院に遠ざけられていた忠実を関白に復帰させ、忠実の娘を皇后に立て、別の女性藤原得子を寵愛し始めます。そして得子の生んだ皇子を皇太子にし、崇徳院を退位させて、新しい天皇(近衛天皇 時に4歳!)を即位させます。
 時代が過ぎたことを知った彼女は出家しますが、周りの侍女なども一緒に出家して、文学サロンはかろうじて残っていたようですが、3年後に45歳で亡くなります。
 ここにきて、鳥羽院も、白河院のまねをはじめたわけですね。役者もそろって、もはや、保元の乱が見え始めてきました。あ・・大スター、院政期のナポレオン平清盛を出すの忘れてましたけど、彼の母は祇園女御の妹で、ある意味、待賢門院とは「従兄弟」ですね。
 この角田先生の本をもとにして、忠実に書かれたようなのが、
「天上紅蓮」(渡辺淳一・文春文庫)です。
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 しかし・・・・う〜ん・・高年齢の地位も金もある(当然です。日本一の権力者ですから)ダンディな紳士と、美少女の恋愛・・というか、性愛というか・・まあ、そういった面が強調され過ぎている感じがします。
 若い魅力的な女性に翻弄される男たち・・・といった図もイマイチで・・・・。それでも、彼女の心の中にあるのは、ただ、いろんなことを「指導」してくれた「お父様」って、高齢男性の願望でしょう。
 まあ、好みの問題でしょうけれど、ただ、渡辺淳一の作品だな・・・といったところですかね。
 
 ところで、なんとか門院という、高貴な女性の門号ですが、それまでの内親王や皇后などは、自分の住んでいた御殿のあったところの地名や、その場所に至る御所の門の名前だったそうですが、待賢門院からは、実際の場所とは関係なくなったとか・・・。
 ですけど、角田先生の本には、待賢門は、白河上皇のお住まいに向かう出口だったとかいうのですが、だとしたら、白河上皇自身は彼女を「娘分」として、自分のところを「実家」と思っていたかもしれないですよね。
 ところで、平安京と、現代の京都の地図を重ねたサイトに、こういうのがあります。
 なかなか面白い。涼しくなって京都に行く元気が出てきたら、スマホにダウンロードすれば役に立つかも。

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盾持人物埴輪

 ちょっとやわらかい名前の「上淀白鳳の丘展示館」へ行ったというのは先日書きましたけど、ここの目玉の上淀廃寺以外にも、埴輪の3人組・・・「盾持ち人」もちょっとした御当地アイドルです。                         
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 盾持ち埴輪というと、思いっきり笑顔の本庄(前の山古墳出土)の三人組がとても有名で、全国区だし、今度海外ツァーもこなしたとか。
 ここまで笑顔を振りまいて、好かれないわけがない・・・とはいうものの、この上淀の角田遺跡出土の盾持ち人もなかなか渋い。→
 何しろ、表情が、本庄市の正統アイドルスマイルとは一味違う、苦み走った男たち。憂いを含んだ目元なんかも、いいじゃあないですか。
 口元は笑いというよりは、なにか声を出しているのか歌を歌っているのか、少し開かれている。
 ↓本庄市前の山古墳の盾持ち人
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 では、笑顔いっぱいのもいれば、深刻な顔のもいる、盾持ち人とは何者なのか・・・。
 最古の人物埴輪と言われる奈良の茅原大墓出土の埴輪は、これは盾持ち人であり、しかも顔は笑っている。
 その造形たるや、盾と言えばいえる平たい文様のついた板に顔がついているだけ。手も足もない、盾人間。
 埴輪は、もともとは、古くには、形象埴輪が先行していて、さしばや盾、武具などの器物が埴輪として並べられているのから、突如、盾の上に頭がついて人間っぽくなったらしい。
 人物埴輪のおこりは、今のところ盾持ち人がはじまりです。
 また、円筒埴輪の表面に盾をつけ、円筒部分に首だけ作ってさしこんだという、まあイージーなつくりではあるけれど、盾を持った人物を表現しているんでしょうねえ。まさか、盾の上に生首・・・いや、それはないでしょう? あんなわらった生首ないですよ・・(まあ、盾の上に冑だけをのせたものはありますけど)、ちゃんと首と顔がついているので、人間でしょう。
 ↓茅原大塚の盾持ち人               
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イメージ 5↑東博所蔵の若水塚古墳出土盾持ち人

←群馬県太子塚古墳
 こんな派手な盾持ち埴輪に進化した。

 こういった、盾をもち、笑っているにしろ、しかめっ面にしろ、口を開いてなにか物言いたげな(開いた口の中に歯のあるものもある)、声を出しているのではないか・・ということですね。
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     ↓平安神宮の方相氏
      
 そこで、盾を持っていることから、方相氏と関連つけて考える人もいる。
 方相氏は、今では、おにやらいの追儺式を先導する四つ目の仮面で有名ですけれど、平安初期頃までは、葬送行列の先頭を歩いたらしい。
 つまり、死者に悪霊がつかないように祓っていたということですね。
 中国の志怪文学には、墓のそばに方相氏を埋めていたというものが確かあったはず(・・あ、今調べられません・・うろ覚え)。
 円筒埴輪や、家型埴輪、武器甲冑などが登場したあと、いち早く、盾持ち人が登場したのは、古墳の辟邪が目的だったかもしれませんね。
 笑いの力で魔を避ける。あるいは、方相氏が叫ぶように「おにやらう!」(これ、平安神宮の追儺式みてたら、「鬼野郎!」って聞こえてしょうがない・・)といったりしていたかも。
 魔除けというなら、方相氏の声だし盾叩き?に先立って、斎人たちを引き連れた陰陽師が、お祓いをして祭文を読み上げます。
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←陰陽師と7人の斎人
 陰陽師の祭文読みあげ
 前においてある壺が何か気になる・・。
 それと、布で顔を隠した斎人もなんだか
 ブキミ・・・。











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 米子方面に行ったのは、実は、この遺跡を見るという目的もありました。
 上淀廃寺(かみよどはいじ)跡です。
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 上淀という、なんだか親近感のわく名称ですが、海のそばに淀江という港があって、その上のほう・・というくらいの地名です。
 この古代寺院の本当の名称はわかっていません。
 7世紀頃に建立され、すでに平安時代頃に、火災によって焼失し、再建されることなくそのまま土に埋もれて廃絶してしまっていたのですね。
 平成3年からの調査によって、この寺院は、築地塀にかこまれた中心伽藍には金堂と、その右側に、3つの塔(?!!!)という、不思議な寺ですが、周りにはいくつかの付属建物もある立派な伽藍が検出されました。    ↓この辺にもう一つ心礎がある
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 中心の金堂跡の焼け落ちた壁に、天人? 菩薩? 神将?のような壁画があることが発見され、それが、法隆寺金堂の壁画にも匹敵するんじゃないかという、国内最古級の寺院壁画!?ということで脚光を浴びました。
 さらに、焼けた仏像の足(指)や、螺髪、腰の部分、人物の頭部や、迦楼羅の顔?の部分などの塑像の断片が見つかりました。
 ただ、中央文献などに、その存在は記載されておらず、寺の名前すらもわかりませんが、出土した瓦に「癸未年」という文字が記されており、これが、寺院の建築年代だとすると、683年ということになり、天武天皇の時代です。
 この遺跡のすぐ近くに「上淀白鳳の丘展示館」というのがあり、やや軽くて観光っぽいネーミングながら、本格的な考古資料館で、そこの資料館に、原寸大で、金堂の内部と、三尊仏が復元されていますが、これは見もの。

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 壁画は、敦煌の壁画寺院のものや、法隆寺金堂の壁画などから考証復元され、仏像も、脚の指や螺髪の大きさなどから全体の寸法を復元し、釈迦三尊形式の仏像で、なかなかの迫力です。

     ↓復元された壁画                          壁に光背と蓮台だけを描いたもの
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 壁前に塑像などを置いていたか?
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 断片から復元された神将
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   ↓焼け落ちた壁面に残っていた壁の部分。火災により変色している。
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    ↓古代顔料が、火によってどのように変色するか実験したもの。これで色彩を復元。
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「みほとけはきらきらしい」と言って、いかにも古代人が喜びそうな派手な色彩。
ただ、お堂の天井の高さなどから考えると、仏像が大きすぎる気がするんですね。
ほんと、もうちょっとで天井につかえそうだし、扉を開けていても、お顔は、かくれてしまって、正面から拝めない。
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 螺髪と足の指からしたら、これくらいの大きさになる・・・って、まあ、白鳳や天平の仏師は優秀ですから、頭と足のサイズ間違ってしまった! みたいなブサイクな仏様は作らんでしょう。
 もしかしたら、このデッカイ仏像は、奈良の中央で、大仏開眼供養があった後、この寺が改装された際、「うちの仏様もデッカクしようぜ!」と作り直したものかもしれません・・・・まあ、そんなことはわかりませんが・・。
 遺跡の方は、この史料館から少し山の方に行ったところにあるのですが、広々として、ここに朱塗りの柱の壮麗な寺院が建っていたらさぞ美しかったでしょうねえ。
 この遺跡の近くには、妻木晩田遺跡(むぎばんだいせき)という弥生時代の大集落があり、この地方の中心であったような場所ですので、古くからかなり開けていた地域ですが、この遺跡には復原住居などもあり、見どころ満載ですが、ここには、ちょっと息切れしていかなかった・・・まあ、弥生は地味だしなあ・・・って、駐車場から遺跡が遠いので・・・・根性なしです。
 
 今回は現地には行っていませんが(だって、ただの道路だし・・・まあ、珍しい道路は見に行きましたけど・・・)、遺跡としては、古代道路の跡だというような地味なものですが、鳥取県には、まだ「目玉」があります。
 古代の官道である大規模道路、古代山陰道の可能性のある7世紀から8世紀初めころの青谷横木遺跡(場所的に言えば、鳥取と倉吉の間くらい)の発掘調査で、古代道建設の際の盛り土の中から、板切れが見つかり、その板切れに「高松塚の飛鳥美人にそっくりの女子像」が描かれていたのが見つかったというものです。
 「法隆寺金堂にも匹敵する寺院壁画」のつぎは、「高松塚古墳壁画にそっくりの女子像」ですから、これもセンセーショナル!
 よく見ないとわからないので、大きな写真をはります。
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 これ、確かに、長いぞろぞろした襞のスカートをはいた女性?が並んでいるように見えます。高松塚の壁画の女子像に似た格好をしているように見えます。
 ですけど、これだけ見ると、ものすごく似た絵柄があります。
 高句麗壁画古墳の水山里古墳です。
 古墳の壁画ですが、墓の主とおもわれる官人風の男性と、そのあとにつづく夫人らしき女性と侍女の集団。人物のばらつき具合とか、上着の長さ、髪型など、これのほうが「似て」いませんか? 
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 ただ・・・こちら、古いんですよね。5世紀くらい・・・。


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今年は大山

 今年の夏は「大山」に行ってまいりました。
                  大山はもと大神山。大己貴命つまり大国さまがいらっしゃる↓
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 全国が晴れ渡って、なかなかの好天気であったのに、なぜか松江の沖あたりにだけ雨雲があって、若干どうかなと思いましたけど、それくらい大丈夫だろうと・・・・。
 予定より早めに、大山に近づいた時、ちょっと曇り空ながら、まあ、雨は降っていなかったので、せっかく来たんだから展望台に上ろうということで、牧場横のスキー場のリフトに乗った。天空のリフトなんて看板出して、なかなかいいじゃないですか・・って。
 雲が多くて曇りがちで、さほど遠くまで見晴らしがいいとは思えなかったけれど、夏ですから、緑がいっぱいですがすがしい・・・・。
 と途中まで、ご機嫌だったのですが、なんだか雲行きが怪しく、パラパラと小雨がちらついてきた。
 と思ったら、途中で、ザーっと降ってきた。
 ええ〜! 傘を出そうにもリフトの上で、折り畳みをごそごそしているうちに、ほとんどがびしょ濡れ。帽子は濡れて頭に張り付くわ、ジーンズは、膝から下が無防備でびしゃびしゃ。靴はぬれねずみで、しずくがぼたぼた、わあわあ言うけれど、この状態で何もできん。リフト自体はのんびり、のほほんと頂上を目指して進む。
 きゃあきゃあ言っている間に、上から下りてきた、物の見事にぬれねずみになっている対向車両(車両っていうのか?)のカップルに笑われた。そちらも、もうあきらめの境地でしょうねえ。
 上に着くと、リフトの係員さんはちゃんと傘をさして待っていた。降りたら、傘を貸してくれたけど、あたまっからぬれねずみですよ。
 まあ、てっぺんも益々すごい降り・・これで眺望は望めず、灰色の雨のカーテン。
 雨宿りする場所もないので、記念撮影(すごいびしゃびしゃの)だけして、すぐ下りようかということになったけど、あのびしゃびしゃのリフトに座るの?と思っていたら、係員のおじさんは、降りられますか?と座席シートをかけてくれる・・・ってことは、こんなことしょっちゅうあるんだ。
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 頂上に、残っていた他のお客たちはどうしたんだろう・・・山道も、すごい降りだったし・・。
 しかし・・・山の神は気まぐれなのか、下に着く前に雨はやんで、これから、上りに乗ろうとする他のファミリーにあったけど、全員ぬれねずみの私たちが、ものすごくヘンだった・・・。 
 これは、山の神様に嫌われたな。大山の神ってオオナムチ・・大国主だよ。なんか不敬なことしたかなあ?
 まあ、それはそれとして、下に降りて、一部着替えをしたり、歩き回っているうちに乾いてきたので、よしとしよう。

 次の日は、境港から江島というところに渡るダイハツのコマーシャルで有名になった「ベタ踏み坂」を見ようということにして、皆生温泉からそっちにまわったんですね。
 そしたら、どれ? あれ? 地図ではあれみたいやけど、くねくねしてない? っておもいつつ、渡りはじめたら、海の上を走る普通の道路・・?。 
 でも、江島側に続く長い坂道降りていたら、向こう側に、なにやら、道のそばにカメラやスマホかまえた人うろうろしてる。 かなり急な坂ではあるけれど、逆やったんや・・・。ベタふみ坂は江島側から堺港に入る方角だったのか・・。でも、坂を降りてしばらく行ったところにコンビニがあり、そこの駐車場に入ると、なんだか車がどんどん入ってきて、買い物ではなく、降りてカメラを構えて横断歩道を渡る・・。
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 そうか、ここが撮影スポットかあ・・・。ということで、ミーハーチックに写真撮ってきた。かなりの望遠で、空中に消える道路が写っています。
 ここのコンビニも名所扱いで、駐車場入り口には「ベタ踏み坂チラシあります」と書いてあるので、(つられて)中に入ってみると、チラシの横にはちゃっかりこの坂のグッズが売っていた・・・何が名物になるかわからんですねえ。あ、いかに私がミーハーとはいえ、普通の道路の絵描いたハンカチやキーホルダーなんて買いませんが・・。
 そして海岸通りをまわって、(かなり雨に降られて、風向明媚なところなのに、全然眺望がよくなかったし道路は水浸しで大変だった・・やはり大国主さまを不機嫌にしているのか?)、松江に行きました。

 ここは、やはり「国宝」を見ておこうかと。
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 松江城では、ラッキーで、城の直ぐ前の駐車場に入ることができた。
 横は堀を一周する屋形船の乗り場で、これもタイミングよく乗ることができた。大阪城で黄金の御座船は乗ったことがないけど、大阪城の堀なんて、石垣がものすごく高いので、乗ったところで、石垣しか見えないんじゃないかしら? 乗った人どうでした?
 松江のお堀は小ぶりで、なかなか風情がありました。城の堀から外堀まで出て、市街地も行くので、面白い視点だった。
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 お城も上りましたが、なかなか展示も面白かった。けっこう古い甲冑なんかが並んでいたし、むかしながらの展示法も面白いですね。
 このお城の殿様は、後に松平直政ですが、この方は、かの真田丸攻めの時に14歳で出陣し、最前線まで駆けつけて勇猛だったので、感心した敵の真田幸村が扇を投げ与えたというエピソードがあるお方です(その真田からもらった扇というものも展示してありましたが、扇より、背景に貼ってあるポスターの堺雅人が目立ち過ぎだ・・)。もちろん、その勇猛な14歳の戦場姿の襖絵もありました・・って現代作家が描いたものですけれど。                          ↓このポスター
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 去年は津山城に行ったけれど、ここのお殿様も松平さんで、どちらも結城秀康の子孫でしたねえ・・。まあ、偶然ですけどね。

 で、天守は眺望がよくて涼しい。街も、あまり高層建築がないので、なかなか麗しいです。大阪城は登ったところで、まあ、周りが大阪だからなあ・・・。




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 この城の中に、産業振興館として明治に建てられた洋館「興雲閣」があったので、こちらの洋館内部で珈琲でも飲もうかと思ったら、まあ、これも満員御礼・・・待ち時間が大変だそうで、まあ、いっか・・と。
 駆け足ながら、なかなかの見どころ満載でした。

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男と女の近世史

 ♪恋人に ふられたの  よくある話じゃないか・・♪

 なんて・・・「男と女の話」としては、こんなのを思い出すのはかなりの年配ですね。
 この本も1998年の出版なのでかなり古い。

 「男と女の近世史」(藪田 貫・青木書店)
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 タイトルがやや軽い感じ(?)がするけれど、れっきとした歴史の本です。しかも、地道な本格的な地方史で、現在の羽曳野市の旧家に残る古文書から引き出された、興味深いエピソード。これがめっぽう面白かった!

 まづは「男」の物語。
 塩野家の父、子、孫に至る、家名と家業をまもる「濃」と「兵」を分離しながら伝えるという物語は、江戸時代、士農工商が歴然とした身分分離になかったというのを思わせて興味深い。
 塩野家は、中央から来る代官から郷士として取り立てられ、苗字帯刀を許された大庄屋。後に、代官の仕事をするようになって、農民でありながら武士扱いされたのですね。
 その6代目当主治部右衛門は「代官」、息子の栄次郎が「庄屋」を務めていたけれど、突然、栄次郎が庄屋を解任され、理由は、御主筋の「思し召し」で処分に至った。
 この件で、父と子はともに身分を失い、父は隠居、息子は郷里を離れて武者修行の旅へ・・・って冗談みたいですが、これは本当で、江戸に出て、剣術の研さんを積んで後、剣術指南として、若狭の小浜藩のお抱えになった。
 その話も面白いと思うのですが、隠居した治部右衛門の代わりに「当主」には妻のさちがなって、当座をしのぎ、治部右衛門の死去にともなって、他家に養子に出していた二男の兵七郎を呼び戻します。そして、16歳で母から譲られて、9代目の当主をつぎ、以後塩野家の名誉と役職を回復すべく努力をする。結局元通りになるのはその次の10代清衛門の代であったとのこと。

 そして、「女」のドラマ。
 西谷家の母と娘の物語です。しかも、当事者の女性の日記が残されているというとても特異で興味深い記録がある家です。
 裕福な商家であり、地主として小作人も抱えるる西谷家も一家の当主は平右衛門。家族は妻あい、長女さく、次女たつで、直系男子はいなかったので、長女さくに婿養子をとった。
 しかし、その婿養子が、当主の平右衛門が病気がちになってから、勝手な振る舞いが多く、多額の借金をしたり、店の仕入れ金を使いこんだり、いわば商売用の手形の印鑑を偽造したりというような、不誠実な振る舞いが多くなったので、離縁。
 そしてまもなく父の平右衛門が死亡して、家をとりしきるのは妻と、二人の「独身の」娘2人になってしまった。この長女のさくというのが詳細な日記を残していて、日記の初めは、夫が出て行ったあとから付け始めているんですね。
 この時19歳くらいですが、女が一人になって気合を入れなおしたというところでしょうか。
 一家の当主は、平右衛門の妻のあいが「へい」と改名して、届けているのは、「平」という文字が、この家の当主を表すようで、離縁された、さくの夫も「平三郎」から元の名前の格之助に戻っている。
 そして、女二人で奮闘努力してはいるものの、やはり表に立つ男手がいるということと、後継ぎを作らなければならないということから、まだ21歳になったばかりのさくは、東之助と再婚します。
 ところが、この家にとっての不運は続くもので、当時大阪に大流行した麻疹で、さくは、新婚三か月で急死。目の前が真っ暗になったのは、女当主の母へいでしょう。
 そして、へいは、この婿入りしてきた東之助を、妹のたづと再婚させる。
 今の感覚で言えば、死んだ姉の夫を妹がもらう・・・え〜!と驚くけれど、「家」を存続させるためには、江戸時代はこういうことがあったのでしょうねえ。
 昭和の時代にも、豪農の長男に嫁いだ嫁が、夫が徴兵されて戦死し、その弟と再婚したというのがありました。「家」を残すというのは、なかなかシビアです。
 しかし、この西谷家はそれで、めでたしめでたしとはならなかった・・。
 時代ははるかに勢いづいて進行し、とうとう明治維新を迎えますが、その間に、次女たづは東之助(平右衛門と名乗っていた)との間に2人の子供をもうけましたが、またぞろ、婿の不行跡が目につくようになる・・・。
 とはいうものの、これはあくまで、西谷家の女たちの言い分だからかもしれませんが、「わがままで、養母に何の相談もなく取り仕切り、多額の借財をした」ということで「離縁調停」の裁判を起こします。
 かくして「酒色に耽ッた」婿養子は放逐されますが、すでに、後継ぎの男の子は生まれていたので、婆、母のがんばりですね。
 西谷家はさらに10年近くも母「へい」がとりしきり、このスーパーお祖母ちゃんは、あととりの孫篤三郎が17歳の時に永眠します。
 
 これらの豪農、豪商の一家を見ても、女性が一時的に当主となり、家を支えることはある訳で、近世の話とはいえ、歴史上、すぐ思いつくのは「女帝」の問題ですね。  古代にいる8人の女帝も皆、息子や孫などに皇位を継承したいがために、未亡人となってからがんばる(江戸時代の女帝も、幼い弟に引き継ぐため)。だから、明治以降・・現代になっても、なかなか「女帝」論議が進まないのは、根強い、特別な「家」観念があるからではないでしょうか?
 農家や商家では、優秀な婿養子をとって、家業をつぐというのはありでしょうけれど、こと天皇家となると「女帝の婿」のハードルが高いのでしょうね。

  さくも伊勢参りをしている
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朱鳥の陵

 以前、38社のイナリさまから「救いがない」というようなことを言われていたし、私の「草壁暗殺説」の小説類の中には取り上げていませんでした。
 しかしまあ、興味のある時代ではあるし、この作者が、古代をどんなふうに書いているのかも興味があったので読んでみた。

 「朱鳥の陵」(坂東眞砂子・集英社)
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 まあ、この人の作品なので、なんともいえん、まがまがしいおぞましさというようなものは、かなりなものだろう、とは予想はしていましたけど・・・・・。
 古代きっての女帝の時代を取り上げて、さてどんな話になるのか・・・。

 時間軸の中心に、文武天皇の時代を設定しているのですが、持統天皇の「回想ドラマ」みたいになっているので、強烈な2人の女帝、つまり、斉明天皇と持統天皇が、印象に残ります。
 中継ぎとして立てられ、蘇我馬子や聖徳太子がいた推古女帝とは違って、みずからの意志の強烈さが匂う、二人の女帝・・です。
 そして、阿閉皇女(のち元明天皇)・・その娘の氷高皇女(のち元正天皇)が出てくる。
 文章としては、やたら古代風和語を設定したルビが少々うるさすぎる感がありますが、まあ、慣れればなんてことはないんです・・そういうファンタジーもあることだし・・。
 主人公と設定してある(?)夢解の能力のある女性は、いろいろ技巧を凝らしているけれど、その名前の読み方などから、「稗田阿礼」なのだろうなと推測がつきますが、途中で、その双子(ちがったっけ?)の兄の、同じ名前を持つ、図書寮に勤める下級官吏が「稗田阿礼」だと気付く。
 まあ、それはある意味、深い意味を持つ、作者に仕掛けられた誤解だろうなと思う。神秘的な力をもつ、いかにも『古代巫女』風の女主人公が稗田阿礼だというよりも、理性と学識を持つ、合理的な官僚の男性が歴史を記す・・というほうが「進んで」いるかもしれません。「歴史の記述」は、男性の手によって、学問に成り下がってしまった。
 それはそれとして、ネタバレでいけば、持統天皇は、夢かうつつか(神がかりの状態で)、謎の鳥(紫の羽、あかい嘴)を見ます。その話を聞いた夫が、鳥を自らの「天下取り」と信じて、起死回生の大博打をしたのが壬申の乱
 そして、その鳥は実は瑞兆ではなく、悪魔のような鳥ではなかったか・・・?
 それは「鴆毒で有名な、羽を水に浸したものを飲めば死ぬと言われる,全身これ猛毒な恐ろしい鳥です。その鳥からとった毒が、古代中国の小説などで、けっこうおなじみの毒薬。
 女性権力者は毒薬使い・・というわけでもないけれど、女帝が手繰る「毒」がこの物語の重要なアイテムです。大陸の伝説の毒薬を、百済人の技術者がひそかに再現して、抽出に成功し、それを女帝(即位していないので、野讃良皇女ですが)は、使って自らが権力の階段を上っていく・・・・。
 そして・・まあ、これもまた、実母による草壁暗殺説ではあるわけですが、これに伝世の宝黒作懸佩刀までからめている・・・・ということは当然藤原不比等が登場するわけですが、キーパーソンは高市皇子です。
   ↓ 藤原京大極殿前広場復元図(奈良文化財研究)
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 女帝は、あの夢に見た鳥は、夫天武に下った鳥ではなく、実は自分に下ってきた鳥なのだと確信している・・。つまりは、自分以外は「可愛くない」人なんです。
 特に、その思いの根幹にあるのは、「愛されなかった」「愛されていない」ことこそが最大の関心事で、夫も含めた他人を恨み、妬むという、人間として、最も人に知られたくない心情。立派な人と思われているものには、どうしても知られたくない。
 そして、どろどろした女の情念のような嫉妬心も、いまだに持っているという・・これも人に知られたくないでしょう。特に、「御立派」な女帝としては・・。
  そして、夢解きの能力を持った女主人公(?)が、女帝の秘密を知ってしまったために、とてもおぞましい現実・・・・・・・まあ、私にとっては、やはり後味の悪い話でした。
 この小説を読んだら、百人一首の持統天皇の天香久山の歌が、悪夢のように、まともに読めなくなる・・・・。
 とはだれかが言っていたけれど、そっちは、もう十分おぞましいけれど、私は、永遠に壺の中に閉じ込められて、埋められ、漆黒の闇に葬られる・・・・というほうが怖いかも・・・。

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