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谷川俊太郎の詩から 仕事部屋にいるときは、FMラジオをつけっぱなしにしていることが多いのですが、 この日は珍しく、詩を朗読する声が流れてきました。 谷川俊太郎の詩でした。 とてもいい詩だと思い、みなさんにも伝えたかったのですが、 数日前のことでもあり、ほとんど忘れてしまいました。 覚えているのは、その詩を聞いているときに浮かんだ情景ばかり。 覚えているいくつかの断片と、 そこからイメージしたことを、 新たに自分の言葉で表してみました。 谷川ファンには申し訳ありません。 オリジナルとは、きっとほど遠いでしょうが、 そのときに覚えた感動をお伝えできればと‥‥。 朝の詩(うた) アルジェリアの少年が キリンに追いかけられる 夢を見ているとき スペインの女の子は もう起き出して 今夜のパーティのために パンを焼いている アルゼンチンでは 朝焼けの空に 教会の鐘が鳴り響き エクアドルでは 渡り鳥が新しい大地を目指して 飛び立った 朝は必ずやってくる ぼくたちは 朝のリレー選手だ ぼくから きみへ きみから あなたへ 朝のバトンを送る リレー選手だ 地球の朝を守る リレー選手だ ※写真は、南イタリア・アマルフィのドーモ(2006年7月撮影) 状況は変わっていないので、間のあいた更新になりそうですが、宜しくお願いします。
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文学・アート
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バレエ「ジゼル」 ◆牢獄 回数を重ねることで、だんだんとその良さが分かってくることがある。 私は長い間、 「クラシックバレエは女性が観るもの」 という固定観念の持ち主だった。 二年ほど前に知人から、招待券をもらい、 立て続けに「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」や「眠りの森の美女」など、 数本を観たことがあった。 招待券をもらうというきっかけがなかったら、 生涯バレエとは無縁の生活を送っていただろう。 とはいっても会場では、眠気をこらえるのにひと苦労だった。 「くるみ割り人形」は、バレリーナのアクロバット的な動きと、 ときおりみせるユーモラスな動作、そしてチャイコフスキーの魅力的な音楽によって、 かろうじて楽しむことができた。 しかし、「眠りの森の美女」にいたっては、 牢獄につながられ囚人のような苦痛を味わい、 「バレエは、体質的に合わない」と後悔したりした。 ◆化学反応 先日、同じ知人から久しぶりに招待券がまわってきた。 演目は、レニングラード国立バレエの『ジゼル』。 一月三十日に上野の東京文化会館で上演された。 バレエを観るのは一年半ほどぶりだったが、 この間に私の内部で何らかの化学反応が起こっていたらしい。 今回の『ジゼル』を観て、私なりにバレエの面白さ、醍醐味を発見したような気がした。 もとよりバレエには、歌もセリフもない。 踊り手が、踊ることによってのみ、表現する無言劇である。 観客は、バレリーナたちの動きと旋律によって、 物語のストーリーを読み取りる。 まるで言葉のない世界で、 哀しみ、喜び、怒り、楽しさを感じるのである。 言葉がないバレエを、言葉で言い表そうしていること自体が、愚かな行為のように思えてきた。 もう少し回数を重ねないと、うまく表せないようだ。 バレエ体験の途中経過ということで、このあたりにしておきます。 ※写真は、東京文化会館(建築/前川國男)のメインホール。係員から「撮影禁止です!」といわれる瞬間前に撮りました。
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バルセロナの裏通り ◆街並みの“美” 暮らしやすい街、美しい街並みとは何だろう? 国内外の街を歩いていて、ときおりそんなことを思う。 バルセロナに限らず、パリをはじめとするヨーロッパの都市は、建物の高さや大きさがコントロールされ、街全体の調和がはかられている。 日本でも、都市計画法や建築基準法などによって、一応、建物に制限を加えている。 しかし、それはひとつの土地と建物に対してであって、街全体の調和という観点が欠けているため、結果的に無秩序でバラバラという印象がぬぐえない。 最近になってようやく景観法などが施行され、街並みの美観を重視するようになってきた。 だが、法律が出来ても、それを活用するのは自治体やそこに暮らす人々である。 住民の意識が変わらなければ何も変わらない。 では、バルセロナの市民が公共の美に対して意識が高くて、日本人が低いのかというと、そうとも言い切れない。 ◆乱立するTVアンテナ いちばん上の画像を見てもらいたい。 若いスペイン女性が映っているので、そちらのほうに目が行きがちだが、注目点は屋上である。 無数のTVアンテナが乱立している。 ガウディが建築したアパートでは、不格好な貯水タンクや階段を、怪人の造形によって隠した。(http://blogs.yahoo.co.jp/raraland2/44398722.html) ところが、一般のアパートはというと、多かれ少なかれ、画像のとおりである。 共聴アンテナを一本立てればすっきりするのに、街並みの美観に敏感なバルセロナ市民が、なぜ放置しつづけているのだろうか。 おそらく、「せっかく自腹を切って自分専用のアンテナを立てたのに、新たに共聴アンテナを立てるために出費するのはまっぴらだ!」と思っているのだろう。 アンテナの乱立は、ローマでも一般的だった。 上から二枚目と三枚目の画像は、表通りから一本入った裏道の光景である。 洗濯物がたなびいているのは、日本をはじめ東南アジアの日常的な風景かと思っていたら、南フランスでも南イタリアでも見かけた。 ◆整然としたオランダの街 これに対して、ロッテルダムやアムステルダムなどのオランダの都市では、 アンテナの乱立も洗濯物の乱舞も、まったくといってよいほど目にすることはなかった。 この違いは、いったい何だろう? ラテン系とゲルマン系といった民族性の違いからくるものなのか。 気候風土や生活習慣、伝統に根ざすものなのだろうか。 それとも単純に、経済力の違いなのか。 どれも一理ありそうだが、まったく見当はずれのような気もする。 日本のカオスのように混乱した猥雑な景色を見馴れている私には、 確かに美しいのだけれども、どこかよそ行きの澄まし顔をしたオランダの住宅よりも、 そこに暮らしている人の生活が表出している、バルセロナの街に親しみを感じたりするのだ。 ※一番下の映像オマケ。バルセロナの市街地から歩ける距離に海水浴場がある。トップレスの女性が多かった。ちなみに南イタリアや南フランスではトップレスはほとんど見かけなかった。
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ガウディのアパート アントニ・ガウディは、教会や公園などの公共建築だけでなく、個人住宅やアパートも手がけた。 写真は大通りに面して建つ「ペトレラ邸」。 いまは文化財団の所有となり、内部の一部は一般に公開されている。 ファサード(外観)は、独創的な曲線が繰り返され、石の大波を思い起こさせる。 バルコニーの金属製の手すりは、私の性格よりも、ネジ曲がっている。 この曲線は、ファサードのみならず、鯨の胎内をイメージさせる、光があふれる中庭までつづく。 そして、らせん状の階段をのぼり、最上階に出ると、この建物最大の驚きに遭遇する。 宇宙人を思わせるような、さまざまな表情を持った怪物たちが、私たちを出迎えるのだ。 ガウディの美意識に、無粋な貯水タンクや階段がお気に召さなかったのだろう。 機知に富んだ彫刻建築を造形することで、それらを覆い隠したのである。 日本に帰って見上げる高層マンションでは、貯水タンク、エレベーター室、極彩色のバカデカイ看板が空を切り刻んでいる。 これでは美意識は育たないし、ますます性格がネジ曲がってしまう。 ※なお、この記事を含め、3シリーズ記事の名前の表記については、現地の読み方であるアントニ・ガウディ( Antoni Gaudí i Cornet)を採用しました。
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ガウディの「グエル公園」 ◆出会い バルセロナにあるガウディの建築には、“グエル”という名が付いたものが多い。 グエル公園、グエル邸、コロニア・グエル教会‥‥。 グエルとは、バルセロナを代表する資本家アウゼビ・グエルのこと。アントニ・ガウディの良き理解者であり、パトロンであり、生涯の友人である。 ガウディは、バルセロナ南西に位置する商業都市レウスで、一八五二年に生まれた。父は銅板機具職人だった。 十六歳のときにバルセロナ県立建築専門学校予科に入学。アルバイトをしながら卒業した彼は、内装や装飾の仕事に従事した。 転機が訪れたのは、パリ万国博覧会に手袋店を出品したとき。 この店舗のショーケースに目を止めたグエルは、彼の才能を見抜く。 その後、グエルは彼の想像力を引き出すかのように、次々と斬新な計画を持ちかけた。 ◆公園 写真は、グエル公園(一九〇〇年〜一九一四年)。バルセロナ北の丘の中腹に位置する。 この公園は、グエルが計画した分譲地の一部としてつくられた。 市場の上を覆った人工地盤には、砕いたタイルで装飾した美しいベンチが連なっている(写真の上から二番目) 公園の入り口にある門番小屋の屋根は、白いタイルで装飾され、まるでおとぎ話に出てくる砂糖菓子のようだ(写真一番上)。 ◆晩年 ガウディの後半生は、熱心なカトリック教徒として過ごした。 とくに一九一四年以降は、宗教関連施設に集中し、 サグラダ・ファミリア(http://blogs.yahoo.co.jp/raraland2/44273472.html) に全精力を注いだ。 しかし、親族や友人の相次ぐ死によって、ガウディの仕事は停滞した。 さらにバルセロナ市が財政危機に見舞われたことにより、サグラダ・ファミリアの建設は進まず、 同時に進めていたコロニアル・グエル教会は未完のまま中止された。 これに追い打ちをかけるように、パトロンのグエルが一九一八年に死去した。 度重なる不幸により、ガウディの精神は揺さぶられ、人を避けるようになる。マスコミからの取材や写真を撮られることを嫌い、ひたすらサグラダ・ファミリアの制作に集中した。 一九二六年六月八日、ガウディはミサに向かう途中で、路面電車にひかれた。
身なりに気を使わなかったため、浮浪者として扱われ、貧民のための病院に収容される。 手当てが遅れ、二日後に息を引き取った。 享年七十三歳だった。 |





