■「桜」と共同性
私が活動している「市民団体・エンディングセンター」は、その前身を「21世紀の結縁と葬送を考える会」と言った。発足は一九九〇年七月。それから数えて一五年目の今春、数年来あたためてきた「桜葬」を東京・町田市に実現する運びとなった。
「桜葬」とは、樹木葬の一種。樹木葬はご存知のように、一九九九年に岩手県一関市の祥雲寺(臨済宗・千坂げんぽう住職)が、この呼び名の墓地を開設したことから広まった葬法で、自然環境保全を志向して外柵や墓石を設けず、遺骨を土中に埋めて樹木を墓標とする自然共生型の墓地である。散骨と違うのは、墓埋法に則って墓地として許可を得た区域で行っている点である。
私たちは、樹木葬の中で墓標となる木が桜であるものを、特別な愛着をもって「桜葬」と命名したというわけである。
三月のある日、こんな質問を受けた。
「樹木葬ができて何年にもなりますが、どうしてこれまで、日本人が大好きな桜がなかったのでしょうね」。
その人は不思議がった。
答えは簡単である。これまでの樹木葬墓地の一区画は、半径一メートルぐらいの墓所。その区画ごとに木を植えるわけだが、それが桜だったら、成長すると枝はとても半径一メートル以内には納まらず、隣の区画まで伸びていってしまう。
もうおわかりだろう。桜は一区画に一本植える形態には適さず、大きな木の下に、みんなで眠る形がふさわしいのだ。古来、日本人が愛でてきた桜は、人々が住むそばの里山にあって、桜は里に住む人々みなを見守り、包み込んできた。
「大きな桜の木の下に、みんなで」
このゆるやかな共同性が、桜葬の心地よさである。
■ゆるやかな共同性と自然志向
核家族は、子どもが巣立てば「夫婦だけ」、夫婦の一方が亡くなれば「独居」、最後の一人が亡くなれば消滅する一代限りの家族。親子が同居するからこそうまくいってきた老親介護や先祖祭祀といった家族機能は著しく衰えた。だからこそ介護保険制度ができて、第三者の手を借りるという「介護の社会化」が起こった。
親子同居の家族では、「つながり」「絆」「永遠性」を感じつつ自らの死を迎えることができた。しかし、生き方が多様化し、核家族が主流になった現代社会では、三世代家族のときと同じシステムでは機能しない。
それは決して現代人が薄情になったわけではない。子への愛情があるからこそ、「子どもに迷惑のかからないように」と親たちは介護や死後を第三者に託し、子からは実働ではなく、精神的な支えを求める傾向にある。これが現代社会の家族の「つながり」「絆」である。
家族や親族、地域共同体といった「強い共同体意識」で支えられていた時代が終わり、「ゆるやかな共同性」の時代に入った。
その具体例が桜葬である。個人、夫婦、あるいは家族で入るという個別区画を持ちながら、家族だけでは担いきれないものを、大きな木の下に「みんなで眠る」というゆるやかな共同性に求めている。
では、なぜいま自然なのか。
それは、一つには工業化社会がもたらした自然破壊への反省を伴った自然回帰であり、もう一つは「自然という永遠性」が注目されているのではないか。
従来の墓の継承制は人間関係の永遠性を約束してきたが、子孫があてにできない現代で、「家」の永続性という呪縛から解放され、「絆」や「永遠性」の代替が、家族も含んだ家族外部の人々との結縁(ゆるやかな共同性)や、自然の「永遠性」の中で眠ることなのではないだろうか。
樹木葬というのがあるそうです。
昨日の朝日新聞に掲載されているのを見て始めて知りました。
高いお金を出して石のお墓、よりもなんだか安らげるような気がします。
桜の木の下や自分の好きな木の下に眠って、いずれは大地に帰る、素敵ですよね。
|