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そうなるにつれて幻想や想像や時に楽しく時に不思議な異世界の物語からどんどんと現実と近くなってきています。
わたしは自分歴史の中で中学生時代を”暗黒時代”と名付けていますが、この本は読んでいてそんな自分の暗黒時代をたくさん追体験するような本でした。
あの独特のからからに乾いているのに、でもじっとりとはりついて、諦めてしらけているのに、ものすごく感情的で、ころころとかんたんに変われるくらいうすっぺらくても、でも得体のしれない深淵なものに束縛されている、そんな矛盾だらけの暗黒時代を思い出してしまいました。
このお話の主人公と主要登場人物は一人を除いて中学生で、 その一人(20代青年)は心を病んでいます。
仲の良かった2人の女の子が同学年内の少し悪いグループとつながってしまい、組織的な万引きに加わるようになります。
ある日2人はスーパーでの万引きが見つかり、一人だけ(主人公)が捕まってしまいますが、自分のことも親友のこともひたすら黙って粘っていることころへ、ある店員の青年(心を病んでいる)がすきを見て逃がしてくれます。
この事件をきっかけに親しくなった青年とこの事件で疎遠になったかつての親友と、親友のことが好きでいつも二人につきまとっていたクラスの男子が二人の関係の異変に気づき、なんとか修復させようとするそんなところからこの4人の人物と、この青年の非現実的な「つきのふね」への使命をめぐりストーリーが進んでいきます。
程度の差こそあれ人は社会に適応すべく、様々な葛藤を経て歳を重ねていくものですが、私はこの本を読んでちょっとドキリとするものがありました。
中二病という言葉がありますが、通過したはずの暗黒時代の中二の私は、いまだしぶとくそこにいて前ほど大きな影を落としはしないもののはっきりとその周辺をトーンダウンさせています。
おそらく似たような暗がりでもがいている人がどうしてもなんだかほっておけない気持ちになるのは、この暗黒時代の中二の私のせいなのかとはたと思い当たりました。
かつて徹底的にこの中二の私と対決しなかった、うやむやにした、もしくはできなかった、それか好きなところが多かった。。。原因はそんなところかもしれません。
案外私ほどではなくても「永遠の中二」がいる人は多い、いやいてほしいと思ったりもします。
作者は30代でこの作品を書かれているようです。
ひょっとしたら似たようなことを思われたのかしらと勝手に推測しています。
この心を病んでいる青年のただ一人の友人で、かつて心を病んでいてこの青年によって救われれ海外でチェロを学んでいる友人の手紙がとても象徴的で作者の優しさ?に深く共感してしまいました。
中略〜
心の病なんてそんなおどろくほどのことじゃない、という気もするんです。それは僕が危ないヤツの多い環境(芸術家肌って国籍を問わずキレてるヤツが多いんだ)にいるせいかもしれないし、僕自身も、一つ間違えば危ないヤツだからかもしれません。
中略〜
人より壊れやすい心にうまれついた人間は、それでも生きていくだけの強さも同時にうまれもってるもんなんだよ。
野間児童文芸賞受賞とありますが、中二病キャリアの大人にも面白いそんな素敵な児童書です。
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すてきな児童書
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お盆に実家へ帰省した時に、何げなく外を眺めていてはっと思い当たったことがありました。
長年の間、最低限の手入れしかされていなかった慣れ親しんだその庭がわずかではあるのですが少し賑わいで見えたので聞いてみると、春に兄が植木屋さんに頼んで少し手入れをしてもらったとのこと。
久しぶりに無造作に伸びた枝や葉を剪定したり、いつの間にか勢いをました雑草や、こぼれ種であちこちに育ち始めた小さな樹木を整理したようです。
私の生れる前に他界した祖父が庭いじりが好きで、いろいろと手を入れていたその庭は祖母がそのままに毎年植木やさんに頼んではいたものの、祖母が亡くなってからは掃除程度でここのところは半野生に近い状態にまでなってしまっておりました。
庭に出てみてますます納得しました。
今まで伸びた枝に隠れて見えなかった赤味がかった大きな石は、庭全体が見渡せる位置にあり腰をおろすのに最適です。
春は燃えるような色の椿やつつじ、夏は朝露に光る紫陽花、秋は金木犀の甘美な香りや色ずくもみじを生涯を通して多忙だった祖父はほんの短い間でも庭に出て楽しんだそうです。
私も蝉しぐれの晩夏の夕刻、その石に腰かけてみました。
今までどこかにいってしまっていた庭についての遠い日の記憶を次々と思い出しました。
その石のすぐ隣の木に目をやると、サルスベリがあって、その名前にいたく興味を示した幼い私が実験とばかり本当に滑るか上った時に、恰好よく伸びていた枝を折ってしまいひどく怒られたことなどを思い出しました。その枝のあった場所は、輪の形で少し濃い茶色になりながら今では幹と一体になっているのをみつけました。
庭というのはいいものだなぁとつくづく思いました。
あっという間に野生化してしまうように見えても、いつまでも関わった人の名残はどこかしらにずっとあり、庭は自然と人間が融合する特別な場所だと改めて思いました。
そんな風に庭のことを考えていたら、ある庭のはなしを30年以上ぶりに読んでみたくなりました。
名作の秘密の花園(原題はThe Secret Garden)です。
インドで両親と死別し唯一の親戚であるイギリスの荒野に邸宅を構える叔父にひきとられることになった少女と、その邸宅に住むいとこの少年、そして使用人の弟である少年との交流の物語です。
少女は社交に忙しかった両親から本当の愛情はなにかを知らずに育ち、また少年も出生時に母が亡くなったために悲しみにくれる失意の父の元で使用人に囲まれ、自分が病気だと信じて引きこもり
、そして使用人の弟であり愛情豊かな母を持つ動物と植物のことを知り尽くした少年と、偶然発見した封印された秘密の庭を舞台として、脆弱な二人がいきいきと再生をしていく物語です。
私が小学生の頃に読んだ時とは全く違う感想でした。
あの時は、大人の知らない子供だけの秘密や、よみがえっていく庭や元気になっていく子供達にわくわくしたのだと思います。
私は両親が忙しく一人で庭で遊ぶことが多かったので、ちょっぴり共感を覚えていたのかもしれません。
この年になって読んでみると、作者が子供達に伝えたいであろう自然の素晴らしい力への畏怖や感謝などの強い思いを感じます。
物語の終盤でひ弱な少年が、もう一人の少年(使用人の弟)の愛情深い母に初めて庭を見せるときの会話です。
この庭の魔法で自分が変わったという少年が「魔法を信じますか?」と問うと少年の母はこう言います。
「信じますよ、坊や。そういう名まえは知らなかったけどね。でもなまえなんぞはどうでもいいこった。フランスだの、ドイツだのじゃ、みんなそれぞれちがう名まえでよんでるんだからね。花の種をふくらませるのも、太陽を輝かすのも、坊やをふとらせるのも、みんな同じ、『いいもの』なんですよ。人間はけちな考えしかないもんだから、違う名まえでよばれるのをいやがるけど、その『大きくて、いいもの』は気にしやしない。わたしたちが住んでるような世界を何百万回と作り続けなさる。だからその『大きくて、いいもの』を信じ続けなくちゃいけませんよ。この世界にはそれがあふれてるんだからね ー それをなんとよぼうとかまうこっちゃない。好きなようによべばいいんだから ・・・・
この言葉の中にすべてが集約されている気がしました。
少年の亡き母が愛した庭、その母を愛した父が避けていた庭、その庭の中に魔法であり、『大きくて、いいもの』をみつけだした子供達、私も機会があったら子供達に実家の庭とそれにまつわる話をしてみたくなりました。
ある庭のすてきなおはなしです。
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何年か前のことになりますが、書店でこの本が目に留まったのはきっと”しゅうぜん”という言葉に惹かれたのと、表紙の古い石畳の通りに立つ女の子の絵にすいよせられたのだからと思います。
こういう石畳の街を歩く夢をなんだか小さいころから何度も何度も繰り返し見てしまうし、何よりも修理するとかDIYとかリメイクとかが大好きなので、子供のためというより自分用に買ってしまった本です。
ストーリーは少女が異国の旅先で、不思議な男の子に誘われてしゅうぜん横丁にたどり着くところからはじまります。
そこはありとあらゆる壊れた大切なものをしゅうぜんしてくれる通りです。
たんす屋さんからはじまってカード屋さん、鏡屋さん、人形屋さん、、、、、、ロケット屋さんといろいろなお店を少女が訪ねて、それぞれの店のご主人、お客さん、そしてしゅうぜんしているものにまつわるいろいろなお話が語られます。
お店のご主人はみな「職人」で、皆がちょっと変わっていて、不愛想だったり、気が短かったりとするのですが、自分の仕事にかけては文字通り全身全霊を傾ける共通点があります。
どのお店のお話も人間模様が語られていていいお話なのですが、中でも「刃物屋の話」というエピソードは、「刃物は魔物ですからね」とそこのご主人が鬼気迫る緊張感をもって仕事をしている様子を少女が垣間見る内容で、日本の昔の刀鍛冶を連想させてちょっと背筋が伸びるような印象的なお話でした。
私は祖国に対しては愛憎あいまった複雑な思いがあります。異国の地にあれば尚のこと、その思いは日々より明確化してきます。
職人気質を愛しまた職人気質が愛される文化は私の好きな日本の部分です。
特にものづくりに関して、人が見ていようと見ていまいと、もうかろうともうからなかろうと、きちんと自分のやるべき仕事をプライドを持って手抜きせず行い、出来上がったものが大切にされることが尊ばれる風土は素晴らしい思います。生活のいたるところにその文化が浸透していて、知らず知らずのうちにその環境で育ってしまったので、それがないことで妙に恋しく思います。
先日、こちらで友人になったイタリア人と、職人の話題で盛り上がったことがありました。
もともとは女性スキャンダルで有名な大統領の話題だったのですが、その流れでなぜか職人の話になりそました。(やっぱり自分の国の好きなことと嫌いなことを話しているときに、政治家が嫌いで職人が好きという流れだったと、、、、、)
というのも、友人が引越しで大事にしていたある家具をあやまって傷つけてしまった話題からでした。
3日くらい落ち込んでしまったと言っているので、どう慰めていいかわからず、今は悔やまれるけど子供たちが成長したら、それも引越しがあったっていう記念の傷だと思ってねぇ、、、などと言ってはみましたがどうもいろいろな思い出のあるかなり古いもののようで、こちらで変な修理をされても困るから帰国したら修理に出すと言い聞かせるように自分に何度も何度も言っておりました。
この傷が気になってしかたがない上に自分が傷つけてしまったのが耐えられないということです。
そんなことがあったせいで、この本のことをふと思い出したのだと思います。
特に終盤の章の一節を思い出しました。
少女が貝ボタン職人だった祖父が作ってくれた形見のロケットを不注意で破損してしまい、ロケット屋へ”もとどおりになりますか”としゅうぜんをお願いするエピソードで、気難しい店の主人に少女が諭される場面です。
「一度こわしたものは、二度ともとどおりになるものではない。わからんようにごまかすだけだ。このこと、ようくおぼえておきなされ」
ああ、本当にその通りだと、私の中の日本人が頷きます。
職人というと細かいことばかりにいちいち気をとられてとか、「職人きどり」という悪い面ももちろんありますが、日本人のはしくれとして私の中にもある職人的なこだわりは大事にしようと思っています。
この本は、ちょっと舞台がイタリアのようでもあり、イタリア語に訳されてもきっと好評なのではないかと思います。
職人魂を愛する人にとってはすてきな児童書です。 |
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ずいぶん前に童話館のブッククラブで子供のために送られてきた本です。当の子供は本棚にしまったきりまったく読んでいない様子。
そんな本が何冊かあるので、いっそ知り合いの本好きのお子さんか、地元の学校へ寄付でもしようかと整理をしていると、この本のタイトルも表紙もとっても気になってしまい、またまた今朝は掃除途中で手に取って読んでしまいました。
大人には、40分くらいで読み終えてしまえるライトな感じですが、そのさわやかな「さらっと感」と一緒にちょっと懐かしいような心地よいほのかな「希望」が芽生えるような素敵な作品でした。
昔劇場だったカンザス州の田舎町にあるヴァンゴッホカフェを舞台に、魔法がたびたび起こるというその不思議なカフェに行きかう人たちのストーリーがカフェのオーナーとその娘を中心に描かれています。
これは映画にしたら大人も楽しめる味のあるいい映画になると思います。
劇場に起こる夢の魔法というのは言うまでもありませんが、日常の中にもありえそうなほんの小さな魔法のことを考えて夢を膨らませるのは主人公のカフェのオーナーの娘の歳くらい(10歳)だったら楽しいことだと思います。
特に、毎日が平坦な田舎の生活を送っている(私もそうでしたが)子供たちに、ちょっと違った種類の希望を与えるのではないでしょうか。少なくとも私の子供時代は言葉は乱暴ですが、こういうことに飢えていました。
この本の中でも特に気に入ったエピソードは、かつてその劇場に出ていた往年のスターが人生の最期の目的のためにこのカフェを訪れるお話。そして巻末の「作家志望の男」と題して人生の停滞に半ばあきらめている男のエピソード。
そこにすわっているうちに、ヴァン・ゴッホカフェの壁にしみこんでいる魔法が彼のうちではたらきはじめました。
彼は自分がどういう人間か、どういうものをうつくしいと感じているかを思い出しました。
こんな作中の一節は、大人に、とくに中年期の大人の私には現実味を帯びてぐっと迫るものがありますが、果たして子供たちはどう感じるのでしょうか。
うちの子供にもう一度すすめてみたいと思います。 こんな作業を人生で反芻するのはどんな人にとっても、大切なことだと思います。
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言わずと知れたモモです。
初の日本語訳が1976年なので、確かに私の世代にとってはタイムリーだったのですが、そして話題になって面白そうな本だと思っていましたが、私は子供時代とうとう読みそこねてしまった本です。
私がやっと読んだのは20代になってからです。
はじめて読んだときに、ああなんで読んでおかなかったのだろうと何度も溜息をついてしまいました。
外国の児童書の翻訳によくあるちょっと不自然な日本語というのをほとんど感じないおもしろい数少ない本でした。
母になってから児童書を子供と一緒に読み始めたくなった理由は、もしかしてこんなすばらしい読み損ねた本が他にもあるかもしれないというこの経験が原点かもしれません。
中でも以下の箇所は、とっても気に入っています。
本当にそうだど歳を重ねるごと思います。
時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬とおもえることもあるからです。
なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。
(六章冒頭より)
子供の頃読んで感動したという友人や親せきから、うちの子供へのプレゼントでいただいたモモはのべ5冊になり、全部本棚に並べておいてもよかったのですが、2冊は私のように読み損ねて悔いる人が一人でも減るように震災後に東北へ送りました。
そんなすてきな児童書です。 |




