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中世のポルトガル年史に日本キリシタンと朱舜水に関係する出来事を( )で挿入してみた。ポルトガル年表は、「茶と砂糖の歴史」(下記サイト)を参照した。
http://homepage2.nifty.com/shworld/15_victorian_life_style/sugar_tea/sugar_tea_history3.html
756年ポルトガル領にイスラム国が成立
これ以後キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)が活発化
1143年イスラム軍を破ったアフォンソ=エンリケシュがポルトガル国王アルフォンソ一世となる。
1179年ローマ教皇が正式にポルトガル王国を承認。
1455年大勅書ロマネス・ポンティフェクス発表
教皇ニコラス五世はポルトガルに対し、サラセン人と戦いこれを奴隷とする許可を与える。
「アフリカでの発見と征服の権利」をポルトガルが独占する。
1486年ポルトガル王室がリスボン奴隷局を設置し、奴隷商人に貿易許可証を発行。
1493年ローマ教皇はスペインにポルトガルと同じ権利(大勅書ロマネス・ポンティフェクス)を授与した。
1494年ポルトガルはスペインに対して「トルデシリャス」条約を締結させる。
スペインとポルトガルはローマ教皇の承認の下に世界を二分(西経46度37分、東経133度23分)し、両国はそれぞれの領域に排他的独占権を持ち他のヨーロッパ諸国の侵入は違法とされた。
1497年ポルトガルのバスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓。
1509年 インドのディウ沖でイスラム連合の艦船隊との闘いに勝利し、インド洋の覇権を獲得。
1510年 ポルトガルはインドのゴア占領。
1511年 ポルトガルはジャワ、スマトラに進出。マラッカ(現マレーシア)に要塞を建設。
1513年 ポルトガルの商人ジョルジェ・アルバレス(後年ヤジロウを鹿児島からマラッカへ運んでくれた人物)は海路で中国に達する。
1518年 ポルトガルはセイロン島占領。
1543年 ポルトガル人三人を乗せた明国船が種子島に漂着。
1550年 ポルトガル船が平戸に初入港。
1552年ザビエルが中国上陸を試みるも、上川島にて死去。
1560年ポルトガル人宣教師ダークルスが中国を始めて訪れる。(ザビエルの後継者か?)
1580年ポルトガルはスペイン国王によるスペインとの同君連合時代になる。
(1587年秀吉のバテレン追放令(伴天連追放令))
1588年スペイン支配下にあったオランダのプロテスタント派がオランダ共和国を宣言。
1596年 英仏オランダ独立を承認。
(1600年朱舜水が中国浙江省に生まれる)
1602年オランダ東インド会社設立。
1605年インドネシアのアンボン島の要塞をオランダに奪取される。
1611年オランダ、ジャワ島に商館を設置
江戸に幕府をおいた徳川家康は当初キリシタンの信仰を黙認する態度を示していた。
そのためフランシスコ会の勢力は関東地方から東北地方にひろく伸び、その勢いを家康はおそれた。
(1614年家康、禁教令を発布、弾圧の態度を明らかにした。)
(1614年豊後のキリシタン「ペトロ岐部」、キリシタン追放令によりマカオに追放。)
(1618年、ペトロ岐部はゴア、ペルシャ湾ホルムズ経由後、ペルシャ、シリアの砂漠を歩いて横断し、エルサレムに至る。エルサレムからは地中海を船で渡った。)
(1620年ペトロ岐部、ローマに入り、11月15日念願の司祭に叙品され、11月21日イエズス会に入会。)
1621年オランダ、西インド会社を設立。アフリカや新大陸のポルトガル権益へ介入。
(1624年鄭成功が平戸に生まれる。)
1630年頃、香料諸島のスパイスを主としたオランダ東インド会社の独占貿易体制が完成。
(1630年ペトロ岐部、キリシタン弾圧の嵐吹き荒れる日本に潜入し、長崎で布教。)
1634年ポルトガルでスペインからの独立を求める反乱が発生。
1639年日本はポルトガル船の来航を禁止、オランダと清国とのみ交易をする。
(1639年、ペトロ岐部隠れキリシタン布教中に仙台で捕らえられ、「穴吊し」の拷問を受けるが、仲間のポルロ神父と弍見神父が棄教したにも関わらず棄教を拒み殉教。)
注)「穴吊し」の拷問は日本管区長だったフェレイラ神父も棄教したという過酷な刑
1640年ブラガンサ公ジョアンがポルトガル国王ジョアン四世となりスペインから独立
1641年 オランダによるマラッカ占領、ポルトガルの東アジアにおける勢力は凋落。
(1643年、徳川幕府のキリスト教弾圧強化により、聖職者不在となり、隠れキリシタンの時代に入る)
1650年 オマーン(イスラム国家)、ポルトガルを破りマスカトを奪回。以後、両者のインド洋覇権をめぐる争いが続く.
1651年イギリスは航海条例を制定。英国が輸入する商品の輸送は英国の船舶のみとし、オランダの仲介貿易進出をおさえる。
1652年(〜1654年) 第一次英蘭戦争
1656年 ジョアン四世死去、キャサリンの兄弟アフォンソが王位に就く。
オランダはセイロン島からポルトガルを駆逐。
以後、アジアのポルトガル植民地のほとんどがオランダ領となる。
1657年イギリス東インド会社は共和政権の下で永続的な会社組織として再出発。
(1659年春、鄭成功南京攻撃に失敗、同年冬、朱舜水復明運動を諦め日本の長崎へ亡命)
(1661年春、鄭成功台湾で第二次明帝国建設を狙い、台湾のオランダ軍を攻撃し、翌年2月オランダ軍を降伏させ駆逐する。)
1661年 英国のチャールズ2世とポルトガルの王女キャサリンが結婚。
ポルトガルは「北アフリカのタンジールとインドのボンベイ」を持参金として英国に譲渡。
(1662年鄭成功台湾で病没、抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。)
(1665年朱舜水、水戸藩主徳川光圀に招かれて江戸に住む)
1661年以降、かつてのポルトガルの権益は凋落の一途を辿ることになる。
アジアでのポルトガル覇権の崩壊とともに、明朝復興の望みも消え去っていく。
そういう時代に失意の朱舜水は長崎への亡命を決めるのであった。
なお、ペドロ岐部は殉教して300年以上もたってから、ローマ法王により福者に列せられている。遺族にとってはあまりにも遅すぎる「世界の承認」であっただろう。
ペドロ岐部は奴隷商人たちと共同活動をしている当時のイエズス会の宣教師たちの姿も見てきたのではなかっただろうか?それはザビエルがリスボンでみた光景と同じであったはずである。
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ニコラウス5世 (ローマ教皇)は1452年に、ポルトガル王アフォンソ5世に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えている。
さらに1455年には教皇教書「ロマーヌス・ポンティフェックス」を出し、異教徒の土地と物品を所有する権利をポルトガル王に独占的に認めた。
2018/2/12(月) 午後 2:47 [ マレーシアにまた行きたいな ]