五街道を歩く(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)

キーボードの「ctrl」を押しながら「+」キーを押せば拡大、「ctrl」を押しながら「−」なら縮小。ctrl+「0」で元に戻る

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

イメージ 2

これが書かれたのは1843年で、北斎84歳のときの絵で、碑には『画狂老人卍筆期「文昌星(北斗星)」北斎美術館蔵』と書いている。

風水にも『文昌の方位』(もんしょうのほうい)というのがあるそうで、中国の街中にそびえる塔・文昌塔は道教のシンボルといわれ、また「文昌帝」はわが国の天神様と同じように学問の神様として受験生がお参りしていると言う。

北斗七星の側にある文昌星という六つの星を神様になぞらえ、広大な宇宙パワーを身につけようという信仰のようである。

一方、北斎辰政の「北辰」は、「運歩色葉集」には「北極と稱するもをなじ、うごかぬ星なり、上總國にてひとつのほしと稱す」とあり、北極星を指している。
千葉氏の上総、つまり千葉県では一つの星を北辰というとある。

38歳から北辰を長く信仰していた葛飾北斎が、それから半世紀を経た84歳のときに道教の神「文昌星」を描く心境とは、一体何を意味していたのだろうか。

「千葉の北辰」と言えば、幕末江戸三大道場の一つである玄武館創設者、北辰一刀流の千葉周作が思い浮かぶ。
幕末の志士、坂本龍馬・清河八郎や新撰組では藤堂平助・山南敬助らがそこで学んだといわれている。

その剣術には旧来の剣術のような神秘性がなく、技術のみを追求したので教授方法も極めて合理的であり、他道場においては3年かかる修行がこの流派では1年で完成したという。
この合理性が北辰一刀流の特色であって、周作は門弟に玄武館隣にある儒者東条一堂の塾「瑶地塾」で朱子学を学んで合理精神を養うことを奨励している。

また、千葉周作や弟子海保帆平は、水戸藩の藩校・弘道館で剣術指導をしている。

弘道館剣術方教授であった小澤寅吉は明治時代に道場・東武館を開き北辰一刀流剣術を指導したことにより、水戸藩に伝わった系統が明治以降も残っていった。
日本古武道協会に加盟している茨城県水戸の東武館をはじめ、日本伝統技術保存会では水戸伝の形が継承されて、現在でも北辰一刀流の道場がいくつか現存していると言う。
(ウィキペディア(Wikipedia)を参照した。)

ここで、水戸弘道館と妙見山北辰信仰との接点が浮かびあがってきた。
坂本龍馬も少なからずその思想的影響を受けていたのだろうか。

赤坂氷川の勝海舟邸を龍馬が訪ねたとき、龍馬は海舟の殺害を目的として行ったのだが、海舟に説得されてそれ以降幕府海軍練習生として勝に従うことになる。
結局、長崎での海援隊による貿易利益が後の薩摩長州の西洋式武装に貢献することになり、薩長同盟のきっかけを龍馬が提供することになるのだが、そこまでの道筋までこのとき海舟から打ち明けられていたかどうか?

武士が武士を斬る目的で訪問するというのは、映画で見るほど生易しいものではなかっただろう。幕府の重臣を邸宅にて斬首したとすれば、その後の龍馬の身の振り方は厳しいものになるはずだ。その覚悟までして勝邸を訪れた龍馬が、その日の内に弟子入りするほどの秘めた会話が為されたのだろうか。

司馬遼太郎の小説などでは、勝海舟の懐の深さに感銘を受けたというようなイメージでさらりと龍馬の意識の転換を描写しているが、武士の覚悟とはそれほど容易な変化を起こすものであったとは思えない。

ましてや、合理的精神を周作から教え込まれ、天子に仕える朱子学を学んだとすれば、その方面での秘策の開示をして海舟は命を留めたのではなかっただろうか。

秘密を知りすぎた龍馬は、飛ぶ鳥を落とす勢いで時流の旋回役を果たすのだが、大政奉還が為された時点で龍馬の口を封じる必要が出たのではあるまいか?

妙見信仰、隠れキリシタン、北辰信仰は、一つの糸で繋がっているように思えてきた。
そして、そこに千葉周作も水戸学とつながりを持っていたこともわかってきた。
朱舜水が17世紀に水戸で撒いた種は、19世紀になって漸く芽を出し始めてきたのである。

皮肉なことに、水戸学が掲げた尊皇攘夷の精神は天子を奉ることであったが、徳川幕府を崩壊させることになろうとは、徳川光圀翁も予想だにしなかっただろう。
朱舜水が徳川幕府へ何度も救援要請をしていたにも関わらず、家康は鎖国を理由に表立っての援助は拒絶している。
わずかに倭寇である平戸の松浦水軍と日本の浪人たちが大陸へ赴いて復明運動を手伝ったのみである。

朱舜水はひょっとしたら徳川幕府打倒の思惑を抱えたまま、水戸藩へ朱子学の教授に出かけて行ったのかもしれない。
朱子学の合理的思考で突き詰めていけば、最後の最後に徳川水戸藩ですら尊攘の思想について行けなくなることを論理上見抜いていたのかもしれない。

同じ尊王攘夷グループでも、薩摩と長州は外様大名であり、徳川幕府に対する倒幕運動になんら躊躇するところはなかった。むしろ尊攘よりも倒幕開国の方向へ向かい、倒幕は関が原以降の無念を晴らす絶好のテーマになっていった。
明治以降の恩恵もこの両藩は如何なく享受している。

朱舜水の江戸移住は1665年、慶喜の大政奉還は1867年であり、実に202年後の出来事である。200年は長すぎるから関係のないこととも思えるが、6000年の歴史を持つ中国では長い期間だと言い切れるかどうか、疑問である。

閉じる コメント(1)

顔アイコン

こんにちは。いきなりコメントすみません。
「水戸 北辰信仰」の検索で辿り着きました。
というのも茨城県出身の横綱稀勢の里の化粧まわしが北斗の拳ということでラオウのファンだからと聞いた時は「ふーん」って思ってたのですが、三つ揃いの化粧まわしの3つとも北斗七星が描かれているのをTVで見て、もしかしたら「北斗の拳」というより北斗七星をモチーフにしたかったのかな?などと思い至り検索してみました。確かに司馬遼太郎の本でこの地域と北辰信仰の関わりを書いていたなと思い出し、また隣県の千葉県では里見八犬伝と北辰信仰の関わりが30年程前に指摘されています。仰るように「妙見信仰、隠れキリシタン、北辰信仰は、一つの糸で繋がっているように思えてきた」は以前からなんか関わりがあるなあと思っていました(キリシタン、というか古代
ユダヤ教?な気も)。いきなり現れて長文で色々まくし立ててすみません。後、近々TVドラマで水戸黄門が復活するそうですが、光圀を演じるのが坂本龍馬ファンの武田鉄矢ってなんだか不思議な気がします。今の朝ドラ、まさに茨城県が舞台です…勤王思想は現代にも根付いてますね。

2017/5/7(日) 午後 2:09 [ nek*da*oun*kod*rou ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事