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鍛冶屋と聖徳太子〜北海道(33)
コシャマインの戦いは、この争いの勝者が松前藩主になっているということから、北海道の歴史を決定付けた戦争である。
コシャマインの戦い『ウィキペディア(Wikipedia)』からその様子をもう少し詳しく学んでみたい。
『コシャマインの戦いは、応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起である。志濃里(志海苔)の和人鍛冶屋と客であるアイヌ少年の間に起きた諍いをきっかけに、オシャマンベの首長コシャマインを中心としてアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが、最終的には鎮圧され、松前藩形成の元となった。
当時和人は既に渡島半島から道南に進出しており、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などを交易していた。アイヌ少年が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌ少年を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。
1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、東部の首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍は更に進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に武田信広によってコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。』(抜粋終わり)
まだこのときはザビエルが来日していなかったから、コシャマイン父子は弓矢で殺されている。
この事件はまさに、古代日本という「国」の成立過程を彷彿とさせる出来事である。
『鉄』という無機物質が無言でその国の成り立ちを教えてくれているように思える。
製鉄技術にかつて関わったことのある私なりに、その意味を説明してみたい。
鉄器時代『ウィキペディア(Wikipedia)』から「最初の鉄器文化ヒッタイト」を見てみよう。世界における「鉄器製造技術の伝播」の様子が書いてある。
『最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろに突如あらわれたヒッタイトと言われている。
ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、メソポタミアを征服した。
その鉄の製法は秘密にされており、周辺民族に伝わる事が無かったが、
ヒッタイトが紀元前1190年頃に滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。
各地の鉄器時代はこのエジプト・メソポタミア地方から拡散した製鉄技術が伝わってから始まることになる。
従って、一般的に中東から離れた地域にある場所ほど鉄器時代の始まりは遅くなる。』(抜粋終わり)
また、日本への伝播は以下のように書かれている。
『日本の鉄器時代
日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入しており、石器時代から青銅器時代を飛び越え鉄器時代に突入したと言われている。
しかしながら、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのはたたら製鉄の原型となる製鉄技術が確立した6世紀の古墳時代に入ってからだと考えられている。
たたらによる製鉄は近世まで行われる。
製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在する。
7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及する。』(抜粋終わり)
日本では石器時代からいきなり鉄器時代へと移ったようだ。
これは陸続きではないために、徐々に技術が伝播すると言うことがなかったのであろう。
あるとき、なんらかの大陸側の理由によって、いきなり製鉄技術を持つ集団が海を越えて北九州や中国地方に辿りついたことを想像させてくれる。
6世紀頃すなわち西暦500年代当時の日本を考えてみよう。
聖徳太子(574年2月7日〜622年4月8日)は、まさに鉄器製造技術が大陸から日本へ伝えられた飛鳥時代の皇族の一人である。
北海道(蝦夷島)で江戸時代にあった「コシャマインの戦い」によく似た事件が飛鳥時代に起きていた可能性が高いのである。
理由はいずれの事件も「鉄器技術の渡来」を原因として共通しているからである。
前述のコシャマインの戦いの抜粋の中に、
『当時和人は既に渡島半島から道南に進出しており、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などを交易していた。アイヌ少年が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。』という下りがある。
これを仮に志濃里を中国地方に、和人を渡来人に置き換えて考えてみよう。
『当時渡来人は既に北九州から出雲地方に進出しており、製鉄技術を持たなかった古代日本人と鉄製品などを交易していた。
古代日本人が渡来人の鍛冶屋に小刀(或いは鍬)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。』
そういう事件が必ず起きていたものと思われる。
渡来人は安来の山の木々を切って燃やし、夜間も連続でたたら吹きを行い、溶けた鋼を山肌に沿って流して冷やし、鉄の粗い延べ板を製造していたと思われる。
日立金属のホームページにたたら吹きの操業状況を動画で紹介している。
http://www.film.hitachi.jp/movie/movie739.html
この動画では炉の底部から輝度の明るい黄色の高温溶鋼(1600℃以上)が、まるで水のようにうねりながら流れてくる映像を見ることができる。
日が暮れて里からその山を見上げる古代日本人には、山肌を真っ赤な大蛇がうねるがごときシーンが目に映ったことであろう。
溶けた鋼が赤くうねりながら流れ出る様子を「やまたのおろち伝説」として言い伝えたのである。
「やまたのおろち」は、製鉄技術を朝鮮半島から持ってきた渡来人であり、ヒッタイト族の鉄器製造技術のを身に付けたユダヤ人部族である可能性が高い。
朝鮮半島の秦氏であるとの言い伝えもあるが、秦氏自身がイスラエル北部から土地を追われたユダヤ人なのである。
ここで、蘇我入鹿(生年不詳〜645年7月10日)の乱のシーンが私の脳裏に浮かんできた。
蘇我蝦夷と入鹿親子は大和朝廷の有力者である。
奇しくも北海道(蝦夷島)のアイヌ人と、大和朝廷の一勢力家が蘇我蝦夷で、漢字二文字が一致するというのも不思議な気がする。
蝦夷は外国人を蔑んで称する言葉であり、古代日本人側が渡来人や未開人(実はこちらが日本の先住民なのであるが)の別称として時の権力者が用いた名称である。
もし遠く中国或いはイスラエルから中国大陸経由での日本侵略の様子を眺めていれば、攻める側が味方で、攻められる側が「蝦夷」になるのではないだろうか。
蘇我蝦夷(586年〜645年7月11日)の生きた期間が、聖徳太子(574年2月7日〜622年4月8日)のそれとかなり一致しており、二人は同一人物である可能性がある。
検索してみると「聖徳太子は蘇我入鹿である(関裕二著)」という書籍がすぐ見つかった。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~BIJIN-8/fsyohyo/staiirka.html
『蘇我馬子の長子に、蘇我善徳という名前の人物がいて、彼がどうやら聖徳太子のモデルとなった可能性がある』という解説がでていた。
「徳」の文字だけは一致している。
つまりこれは蘇我馬子の長男蝦夷が聖徳太子である可能性を指摘している本である。
仮にそうだと仮定すれば、聖徳太子はある勢力側から見れば蝦夷(未開の地の外国人)と見られていたのであろう。
この本には『蘇我氏につらなる聖徳太子もまた、大和王朝よりも出雲王朝のほうに属する立場にあった。』と書いてあるそうだが、大和朝廷から見れば大陸から渡来した製鉄技術を有する出雲王朝は「蝦夷」に見えたということかもしれない。
神無月には出雲に全部の神様を無償レンタルで貸し出すと言う出血サービスを大和朝廷にさせたスサオウノミコトは結構の荒ぶれものであった可能性が高い。
関東での初の神社であるという意味の名称「武蔵一ノ宮」を持つ大宮氷川神社はスサノウノミコトを祭り神としたものである。
ここ北海道のコシャマインの戦いでは、蝦夷側は「鉄器を作る技術を持たないアイヌ人」ということになる。
製鉄技術の保有と言う意味では聖徳太子とアイヌの少年が逆転してしまっているので、少し混乱してしまうところである。
蘇我蝦夷は、息子の入鹿に紫冠を授け大臣と擬し、弟を物部大臣と呼び、屋敷を宮上の門(みかど)とよばせるなど、自らを大王に擬する行為があったと言われている。
蝦夷=聖徳太子は推古天皇そのものであるという異説もあるくらいなので、確かにおよそ天皇そのものという行動や態度を取っていたのであろう。
推古天皇であるとすれば、天皇らしく振舞っていてもおかしくはないが、別の天皇を推挙していた側からみれば、天皇らしく振舞うほどに憎らしく思ったのかもしれない。
反聖徳太子組としては、蝦夷の振る舞いは朝廷を朝廷とも思わない横暴ぶりと映る。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の感情が、蝦夷を説明する歴史書の文意にも過剰に流れ込んでいるような気がするが、蘇我蝦夷側に立ってみれば、逆に蝦夷は賢者であったのかもしれない。
少なくとも聖徳太子はそう言われている。
蝦夷の子の蘇我入鹿は山背大兄王を襲い、上宮王家一家を自殺に追いこんだ。
645年に天皇の御前で入鹿が殺されると、翌日、入鹿の屍を前に蝦夷は邸宅に火をかけ「天皇記」・「国記」もろとも自殺したという。
聖徳太子はというと、中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂らのいわゆる乙巳の変で自殺した政治家と言われているが、直系子孫もろともに虐殺されたという説もある。
蝦夷=聖徳太子=出雲王朝側という仮説を置くと、飛鳥時代の蘇我蝦夷(出雲側)は権力保有に必須の製鉄技術を持っており、コシャマインの戦いでの鍛冶屋の立場になる。
飛鳥を統治する大和朝廷としては、農耕生産性を向上させて国力を増強し、また鉄製武器を増産させて全国を武力平定するという欲望を持っていたであろう。
つまり、コシャマインの戦いでは、強くなりたい、或いは狩猟での成果を挙げたいと思っていたアイヌの少年の立場が、飛鳥時代では大和朝廷の立場である。
アイヌの少年は、自分が発注した鉄器の仕様と価格について鍛冶屋に疑義を申し立てた。
怒った鍛冶屋は少年を殺した。
それがアイヌ人武力蜂起のきっかけになったのである。
松前の鍛冶屋は多分にメソポタミア経由でシルクロードを東征してきたユダヤ人の末裔である可能性がある。
鉄作りの技術は、古来より秘伝にするという風習が残存していたと言われるし、実際に鉄を溶かしてみるとわかるが、カレー料理を作るかのごとく誰にでもできるものではない。
ユダヤ人が性格的にカッとなりやすいかどうかは知らないが、イスラエルのパレスチナへの復讐などを見ていると、鉄と同じく熱くなりやすいのかも知れない。
出雲の鍛冶屋の親戚であったと思われる聖徳太子は、大和朝廷から派遣された使用人の執拗な仕様満足やコスト削減要求に堪えきれずに、かっとなってその使用人を殺してしまったため、鍛冶屋がアイヌの部族長コシャマインの逆襲を受けたように、聖徳大使(=蘇我蝦夷)は大和朝廷の逆襲を受けて一族皆殺しにされてしまったのだろう。
おちついて考えてみたいテーマではある。
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初めまして。コシャマインの戦いは僕も記事にしようと思ってますが、たった一つだけ疑問に思うことがあります。
通説では少年とありますが、新羅之記録を読む限り、乙孩(オッカイ、アイヌの男とは書かれてますが、少年(若い男)を意味する
(オッカイポ)の記載はないのです。なんでまた新羅之記録は
男とか少年と書かなかったのでしょうね^^;
2008/8/31(日) 午後 5:20
銀狐さん、コメントありがとうございます。
返事が随分おくれてしまいました。
少年でしたか。まあ18歳の青年も少年法なので、そのくらいの立派な体はしてたのでしょうね。乙孩というのですか。知りませんでした。
新羅之記録とは、奥尻町にある1643年に編さんされた、初期の松前家の事績の記録で、北海道最古の歴史文献だそうですが、読んだのですか。すごいですね。開拓側の松前藩の記録と言うことは、アメリカ大陸で言えば、騎兵隊の書いた記録というのと同じですね。アイヌはインデアンと同じく排斥され駆逐される側になります。
民族の蔑視感情が恨みとともに作用すれば、例えば「俺は昨日インデアン一匹やっつけたよ!」 などと乱暴な言い方になりますね。だから少年も大人も一緒くたにしてカウントしたのではないでしょうか。
松前藩の重臣のことを記録するときは、少年剣士某(なにがし)などと書くのでしょうけど。
2008/11/1(土) 午前 11:24 [ rea*h*ar200* ]