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シバの女王と会談するダビデ王の子ソロモン(ソロモン(Wikipedia)より引用)
ソロモンのもとでイスラエル王国は繁栄をきわめ、ソロモンは初めてエルサレム神殿を築いた。
仏教のわが国伝来は「552年百済聖明王が欽明天皇に仏像・教典を贈呈、使者は西方姫氏」
であるという。
また中国蘇州周辺を紀元前585年頃〜紀元前473年に支配した呉 (春秋)の君主の姓は姫だという。
呉 (春秋)の姫氏が滅んだ年、紀元前473年に大宮氷川神社は創建されている。
仏教を中国から伝えてくれた西方姫氏と、その1000年ほど前の呉 (春秋)の姫氏に「同一民族」という可能性はないだろうか。
例えばイスラエルを追われ、中国で国を作ったアジア系ユダヤ人一族など。
主としてWikipediaの記事からイスラエルの失われた十部族に関する下りを引用する。
『ソロモンは紀元前1035年頃〜紀元前925年頃の旧約聖書『列王記』に登場する古代イスラエル(イスラエル王国)第3代の王である。
ソロモン王の死後、部族間の統制を失った統一イスラエル王国は北王国(イスラエル王国)と南王国(ユダ王国)に分裂した。
ユダヤ人12部族のうち、10部族が北王国、2部族が南王国を作った。
北王国の首都サマリアは紀元前722年にアッシリアのサルゴン2世の猛攻によって陥落した。
このとき、捕虜となった人々がアッシリアの首都に連行された。(第一次バビロン捕囚)
民は連れ去られたり、あるいは中東全域に離散した。
歴史の中に消えた彼らを「イスラエルの失われた十部族」という。』
「日本・ユダヤ封印の古代史」(ラビ・マーヴィン・トケイヤー著 久保有政訳、徳間書店定価1800円)に世界へ散っていったユダヤ人のことが紹介されている。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/tokehon.htm
『紀元七〇年のエルサレム滅亡後、世界に離散していったユダヤ人たちは、世界の各地で、イスラエルの失われた十部族の人々に出会うようになった。
あるいは、「ここに十部族が来ていた」という証拠をつかむようになった。
いまや、イスラエル十部族がここに来ていた、という報告は世界中の多くの所から届いている。
とくにそれはシルクロード付近に集中している。』
さらに中国へ移住したユダヤ人については、
『中国にチアン族(チアン・ミン族)と呼ばれる人々がいる。
彼らには、自分たちが西方のかなたからやって来たという伝説がある。
彼らは、かつて自分たちが話していた言語を失ってしまった。
また、かつて自分たちが持っていた羊皮紙に記された聖なる本も失ってしまった。
しかし、彼らは古来、唯一神教を信じてきた。
彼らの神観念は聖書の神と同じである。
彼らの言い伝えによれば、自分たちはアブラハムの子孫であり、また自分たちの先祖には十二人の息子がいた。これはヤコブのことである。
チアン族には、かつてイスラエル十部族の間で行なわれていたような動物犠牲の風習が今もある。
彼らの祭司の服装は、古代イスラエルの祭司のものによく似ている。
祭壇は、古代イスラエルと同じく、切り石ではなく、自然石を用いて作られる。
祭壇の周りには十二個の旗が立てられる。
これは自分たちの先祖に十二人の息子がいたことを覚えるためだという。
チアン族には、古代イスラエルと同じ汚れの観念、禊ぎの観念がある。
彼らには過越の祭、また「亡き夫の兄弟との結婚」の風習がある。
これは聖書に由来する古代イスラエルの風習である。』(抜粋終わり)
日本へ来たユダヤ人についてはこう紹介されている。
『中略。
ではシルクロードの終点はどこか。日本である。
イスラエルの失われた十部族は中国までやって来ていた。彼らの一部はアフガニスタンや、カシミール、インド、ミャンマー、中国などに、住み着いた。
しかし、それで終わりだろうか。その他の人々、あるいは本隊の人々はさらに東に向かい、日本にまで到達したということは考えられるだろうか。
ラビ・トケイヤーは、つぎに、日本には様々な古代イスラエルとの類似点が見られることを指摘する。その内容は、じつに豊富である。以下略。』(抜粋終わり)
著者ラビ・トケイヤーは、あらゆる角度から、古代日本と古代イスラエルとの接点について取り上げている。
・ 諏訪大社のイサク奉献伝承
・ イスラエルの契約の箱と神社の御神輿の類似
・ イスラエルの祭司の服と神社の神主の服の類似
・ 神主のお祓いの仕草と古代イスラエルの風習との類似
・ イスラエルの幕屋の構造と神社の構造の類似
・ 日本神道の汚れと禊ぎ(清めに水や塩)と古代イスラエルの水で体を清める風習
・ 古代イスラエルの礼拝所の近くに清らかな水がある(日本神道の神官の水浴による禊ぎ)
・ 日本の相撲の力士が土俵に塩をまいて清める儀式。
・ 日本の料亭入り口にある一握りの塩(盛り塩)。
「あなたの捧げ物には、いつでも塩を添えて捧げなければならない」(聖書レビ記二・一三)
・ 明治維新以前に赤児の産湯に少量の塩を入れる習慣があった。古代イスラエルにも、赤児を塩でこすり、水で洗い清める風習があった。(聖書エゼキエル書一六・四)。
これ以外にも沢山の習慣の類似性を指摘しているが、切りがないので詳しくは書籍で見ていただきたい。
そこで江戸時代、朝廷や大奥に献上していた塩は赤穂藩の塩だったようだ。
アッシリアにアッカー(アッコー)という港があるそうだ。
そこからやってきた人々が瀬戸内海で塩田を開き、後に赤穂藩となっていったという説がある。ジョセフ親子著「隠された十字架の国ニッポン」に書いていたことである。
おりしも私は通勤電車でいま「赤穂浪士」(大佛次郎著、新潮文庫)を読んでいるところである。
いずれ赤穂浪士とユダヤ人の接点についても報告することになろうが、赤穂浪士の討ち入り成功を支えた人物に松浦藩主がいる。
古代は倭寇として東アジア貿易で活躍し、戦国時代はザビエルをインドから鹿児島へ運んだ、松浦水軍の末裔である。
豊臣秀吉に海賊禁止令を出されて以降は、もっぱら陸で活躍していたようだ。
このブログのきっかけになった吉田松陰青年も、「山鹿流兵法」を平戸の松浦藩で山鹿素行の子孫(江戸時代は松浦藩家老)から直々学んでいる。
赤穂藩に山鹿素行が流されているときに、赤穂浪士たちの一部は素行から直接兵法を学んでいる。四十七士の中に素行の弟子が複数いる。
大石内蔵助も教えを受けたようだが、弟子というほど深い関係ではなかった。
日本の歴史を動かすポイントで、松浦藩が顔を出す。
「新アメリカ国日本」とペリー宛の親書の案に書いた佐久間象山は、尊攘派の河上彦斎(げんさい)らに暗殺されている。(元治元年(1864年)7月、京都三条木屋町にて)
暗殺者の出身と氏名は、肥後熊本藩士河上彦斎、因幡松平家の家中前田伊左衛門、平戸脱藩浪士松浦虎太郎と南次郎の4人である。
なぜか「兄弟らしい松浦姓の二人の武士」が平戸松浦藩から駆けつけている。
松浦藩士が紛れ込んでいるというよりは、むしろ松浦藩が主導して佐久間象山を暗殺させた可能性の方が大きいのだろう。
平戸松浦藩の平戸に、上陸後にザビエルは布教拠点を設けている。
長崎に拠点を移すまでは、大友宗麟の大分佐伯と平戸は西日本のイエズス会拠点だったのである。
赤穂浪士の47士の中には、不思議と兄弟や親子が多いことに驚かれる。
私は、親子兄弟で戦い殉死することを良しとする信仰があったのではないかと想像している。
おいおい赤穂浪士とユダヤ人の関係にも触れていくことになるだろう。
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