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豊臣秀吉が、太政大臣に就任して豊臣政権を確立したのは、天正14年(1586年)12月25日である。
キリスト生誕日と重なっている。
キリシタン大名である蒲生氏郷や高山右近などの実力を知る秀吉は、天下統一に彼らを利用していたため、キリシタンに好意的であった。
天正15(1587)年、秀吉は20万の大軍を率いて、九州に侵攻し、島津義久らを降伏させた。九州征伐を完了した後で、博多滞在中にバテレン追放令を発布している。
伴天連追放令が出されたのは1587年7月24日(陰暦天正十五年六月十九日)である。
政権奪取から1年も経たないうちに、秀吉はキリシタン政策を180度転換することになった。
宣教師による信仰の強制やキリシタンによる寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食を理由に、伴天連追放令を出したと言われる。
実際に秀吉自身がで九州征伐に出向いており、九州のキリシタン大名達の軍事技術や装備の充実、それにキリシタン大名同士の結束の強さを肌で感じたために伴天連追放を思い立ったのであろう。
陰暦天正十五年六月十八日付けで出された朱印状は、
「伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事」
「キリシタン信者になるかどうかは、その者の心次第である。」とソフトタッチである。
かつ、「キリシタンの神社仏閣への破壊活動や、巡回布教を取り締まる」としていた。
このことから、鉄砲や火薬が大量にポルトガル商人から輸入されていた「信長、秀吉の時代」には、各地でキリシタンによる神社仏閣の破壊活動が続いていたことを示唆している。
それはキリスト布教の躍進を意味する。
このあと、秀吉は高山右近に改易(大名廃止)か棄教か、いずれを選択するか問うたが、右近が「棄教はできないので、大名を辞める」と意思表示した。
秀吉は、キリシタン大名の信仰の強さに言い知れぬ恐れを抱いたであろう。
翌、陰暦六月十九日付けの「伴天連追放令」では、禁止内容が過激に変貌していく。
『二十日以内の外国人宣教師、日本人修道士の国外退去、布教禁止』
之に対して、宣教師は外国行きの船が20日以内には調達できないと主張すると、船が来るまでは国内にいてもよいと妥協をしている。
しかも、追放令を出した秀吉自身が当時ロザリオを身につけていたというから、あいまいさを有する命令だったようである。
ポルトガル交易の魅力と、キリシタン大名間の結束の怖さとが、混ざり合ったような秀吉の心境だったのであろう。
このために、宣教師たちは命がけとなっても日本(九州)潜伏を継続する決意をしていたようだ。
秀吉の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の動機は、当時のスペインやポルトガルが支那征服を目論んでいたことへの対抗策であったという説があるという。
宣教師らは、信長への軍事支援の取引材料として「天下統一後に中国出兵」を促していた形跡があるが、信長は一蹴している。
秀吉は、一蹴することはせずに、まるで増長してしまったかのように自ら支那征服を試みたのであろう。
秀吉自身の朝鮮進出の動機は「日本による支那征服」であっただろうが、スペインやポルトガルから見れば、動機は如何であれ、日本兵が中国と戦争することは好ましい展開であっただろう。
鉄砲や火薬はますます多く消費され、スペインやポルトガルの国益は増すのである。
織田信長が日本王になってしまっては、西洋諸国のその野心は充足されなかったであろう。
秀吉は伴天連を追放しながらも、伴天連にうまく利用されていただけではなかっただろうか。
家康は鎖国をしたことから、伴天連と敵対する道を選んだことになる。
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フィリピンマニラの初代司教としてスペインから送りこまれたサラサールが、本能寺の変の翌年にあたる1583年にスペイン国王に送った書簡が残されている。
ここにはこう記されているという。
「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.85-88)
2017/3/19(日) 午後 2:58 [ 歴史の真実を世紀ごと学ぶ ]