五街道を歩く(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)

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TS390720白河だるま製造所
TS390721金ヶ人(金貸し業の人の集落か)
TS390722泉田

私が安珍・清姫のシナリオ骨子として一番納得したのは、「嫁、時々店員、ところにより一時にわか主婦」という女性のブログ記事だった。

『途中略。
清姫は安珍の死を見届けると、自らも入水によって絶命します。
安珍の死そして清姫の自殺後、道成寺の住職は二人が蛇道に転生してしまったという夢を見ます。

仏教の世界では、人が人外のものとして生まれ変わることは、いわば“堕ちる”ことであり、これを不憫に思った住職は法華経供養を試みます。

住職の法華経の功徳により二人は成仏、天人の姿で住職の前に現れ、安珍は熊野権現の、清姫は観音菩薩の化身であったことを明かした・・・・・・というのが大筋です。』
(「およめ日記 安珍・清姫伝説」より)
http://blogs.dion.ne.jp/lovelybear_20030202/archives/8998148.html

安珍が山伏ではなく、「およめ日記」の説くように僧侶であると仮定すると、安珍は熊野権現(熊野神社)よりも観音菩薩の権化という設定の方が役柄にフィットするように思えるのだが。

僧院の道成寺は観音を奉っているので、観音のもとに安珍は救いを求めていったのであろう。

もし安珍が山伏だとすれば、それは山岳信仰なので熊野権現などの神道に近い修験僧になる。

どちらがどちらかは別として、縄文から古墳時代にかけてで紀ノ川流域に入植した渡来人たちは熊野権現を祀っていたのであろう。

ここで「渡来人」と限定したのは、縄文人やアイヌ人ではないだろうから、海から上陸したのであれば、アジア大陸から来た人々だと思われたからだ。

一方、仏教がこの国へ来たのは熊野権現よりズーッと遅れて6世紀頃である。

『「日本書紀」によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。

しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている』
(日本の仏教(Wikipedia)より)

しかし、中国ではすでに地方の土着信仰と仏教を習合させる知恵「本地垂迹」が後秦(こうしん、384年〜417年)の時代に発案されていた。

『本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。

究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。

また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。

本地という思想は、仏教が各地で布教されるに、その土地で様々な土着的な宗教を包摂する、という性格をもっていることに起因する。

それを表すように、仏教の天部の神々のほとんどはインドのヒンドゥー教を由来とする。またその思想概念は、後期大乗仏教で、本地仏大日如来の化身が、不動明王など加持身であるという概念を生むことになった。

これに対し、垂迹という思想は、中国の『荘子』天運における迹(教化の迹)や、所以迹(教化を成立させている道=どう)に由来し、西晋の郭象(かくしょう)がこれを註釈した『荘子注』で、これを聖王(内聖外王)の説明において展開させ、“迹”を王者としての統治・主導とし、“所以迹”を本質的な聖人として引用した。

そして、これを仏教に取り入れたのが後秦代の僧肇で、その始まりである。』
注)後秦(こうしん、384年〜417年)』本地垂迹(Wikipedia)

『熊野権現とは熊野三山の祭神である神々をいい、特に主祭神である家津美御子(けつみみこ)・速玉・牟須美(ふすび、むすび、または「結」とも表記)のみを指して熊野三所権現、熊野三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現ともいう。

熊野権現(くまのごんげん、または熊野神〈くまののかみ〉、熊野大神〈くまののおおかみ〉とも)は、熊野三山に祀られる神であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになった。
中略。

熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社からなるが、当初は別個の展開をたどり、本宮は崇神天皇代、速玉は景行天皇代(『扶桑略記』)、那智は考昭天皇代に裸行が開基した(『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』)したとするが定かではない。

正史において、神名が確実に確認できるのは大同元年(806年)の史料中にある記述で、天平神護2年(766年)付で速玉神と熊野牟須美神にそれぞれ4戸の神封を施入したとあるもので、これら2柱の神は今日の新宮に比定される熊野神邑(くまのしんそん)に一緒に祀られていたと見られる。』(熊野権現(Wikipedia)より)

仏教の伝来以前は「熊野神〈くまののかみ〉」または「熊野大神」だったようだ。

「福島県における熊野信仰」(福島県立安積高等学校教諭 小田賢二著)によれば、上記の正史より古い建立の熊野神社が会津地方にあるという。

また、福島県西部の会津地方のほとんどの市町村に熊野神社があり、伊達郡川俣町の東福沢にある熊野神社は,718(養老2)年に開かれたとの由緒を記しているという。

しかも、全国の熊野神社総数2,591社のうち、福島県には47都道府県の中で一番多い275社が存在している。

近畿の158社に対して中部666社、関東548社、東北644社、北海道3社であり、
西には中国・四国204社、九州367社、沖縄0社である。

本山は紀州にあるが、圧倒的に東へと普及し、しかも福島県で275社も広く展開しているという。

とくに会津には行政単位ごとに存在している。

白河の安珍が毎年熊野参詣に行っていた意味は、一般に想像する以上に深いものがある。

伝統芸能の文楽の世界では、安珍役は「流浪の親王」に入れ替わっている。
ある女性の観劇録ブログに出ている。

『日高川入相花王』 ひだかがわいりあいざくら
「真那古庄司館の段」 まなごのしょうじやかたのだん
「渡し場の段」 

これは有名な道成寺もの! 
聴くの初めてで楽しみにしていました。

通常の安珍清姫では安珍はただの僧侶だった気がする(調べていません)のですが、これは実は流浪の親王という設定で、白馬の王子様的な妄想がパワーアップしています。

早替わりのある「渡し場の段」だけ上演されることが多いそうですが、今回はその前フリとなる「真那古庄司館の段」も。

これ聴いたら恋に狂う清姫の行動が理解できるかなと思っていたのですが、無理でした。

去年都で見初めただけの名前も知らぬ男をずーっと思い続け、許嫁だと言う親の嘘を真に受けて(ちょっと考えればわかりそうなものじゃないか)、男にすげなくされたら逆上する。

ええと、現代だったら単なるストーカーです。
妄想乙女です(笑)。

でもこれが「道成寺」というひとつの様式になってしまうというのが、芸能ってすごいなと思います。

この演目では安珍の許嫁・おだ巻姫も登場しているので、清姫の嫉妬も見られます。
あーあ、知る前はあんなに仲良くしていい感じだったのに。

まさに狂っちゃったんですねー、蛇体になっていっそ幸せか。

ざんぶざんぶと川を追っていく場面ではクルクルと清姫のかしらが変わって、目が離せませんでした。ここで終わってるのも余韻があっていいよねー。

そんな感じの(文楽)五月公演でした。』
(「掌中の一羽」より)
http://mzh.jugem.jp/?day=20090528

文楽のシナリオでは「流浪の親王」が清姫に追われている。

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