五街道を歩く(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)

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TS390855黒磯以来初めて会った太陽(4日目)
TS390856屋敷の庭に3本のシュロ
TS390857須賀川市森宿

若者の駅伝訓練の様子を眺めながら、無念のままに散った会津の青年のことを考えている。

会津の修理がもし生きていれば担当は海軍である。
軍艦を外国から購入し新潟港の守りを固めたはずだ。
そうすれば武器弾薬の供給も十分にやれただろう。

陸軍も修理の見立てた若者が西洋式軍事訓練を行ったはずだ。

会津藩首席家老の梶原が武器を調達したのはロシア武器商人スネルからだった。
スネルを紹介したのは英国公使館書記官のアーネスト・サトウである。

薩摩の大久保・西郷に長崎のシーボルトかグラバーを紹介し武器を仲介したのも英国のサトウである。

NHK坂の上の雲でアメリカ人の植民地政策の話が出ていた。
入植したアメリカ人は、先住民であるイロクワ族を使って、武器を与えインディアンの他部族を殺せば賞金を与えると言う方法をとった。
他のインディアンにも同じことをして、インディアン同士の殺し合いをさせた。

180万人いた先住民は20万人まで減ったという。
その上で、イロクワ族は限られた他の土地へと移住させられ、広大な土地を失った。
アメリカ人は、武器を先住民に渡しただけで、土地を手に入れている。

「オンタリオ」という州の名は、イロクワ族の「美しい水」(スカナダリオ)から由来したという。

駐米大使の小村寿太郎が秋山真之へこういった。
「次のイロクワ族は日本人になるかも知れない。」
それは明治20年代の話である。

戊辰戦争のときにすでに英国によって両陣営に武器がばら撒かれているのである。
薩摩へも会津へもサトウが斡旋している。

江戸城は西郷と勝、というよりも勝の代理で西郷の居る駿府まで駆けて行った山岡鉄舟により無血開城となった。

これは英国の思惑が外れた。
殺し合いをやって弱体化してもらわねばまずいのだ。

なんとしてでも奥州かどこかで大量殺戮をしてもらわねばならない。
戦争なしで革命を起こすなら、英国にも考えがあるとパークスは京都の公家を脅したのではないだろうか。


もうひとつ気になることがある。
サトウの傍で使い走りをしていた才気ありそうな武士がいる。
元会津藩士の野口富蔵(成光)である。

北海道に居て英語を勉強中に英国領事に雇われている。

『野口 富蔵
旧会津藩士。
箱館にきて英語を学んだ。

初めはイギリス領事ヴァイスについたが、慶応元年(1865)在日イギリス公使館の書記官アーネスト・サトウの秘書召使となった。

当時、東蝦夷地領有のため蝦夷地には200人ほどの藩士が派遣されており、若松城下から箱館へは比較的容易に勉学ということで出国することができた。
これも会津藩の東蝦夷地領有の結果であろう。』(抜粋終わり)
(「北海道に足跡を残したふくしまの人々」より)
http://www.pref.fukushima.jp/hokkaido/kouryu_sokuseki.html

また、会津人でありながら薩摩の西郷従道との繋がりが深い。
戊辰戦後の温情をかけたとも見えるが、戊辰戦争以前からサトウに従い薩摩要人たちと盛んに会っていることだろう。

役務の中に「用心棒」とあるから、英語の能力以上に剣術の腕を見込まれての登用のようだ。
薩摩が横浜の生麦事件で英国人を切った頃のことだから、サトウにとっても用心棒は必須だっただろう。

『野口富蔵 (1842〜1883.4.11) 
会津藩士野口九郎太夫成元の弟。
19歳のとき、箱館の英国領事館で英語を学び、1866年(慶応2年)英国公使館書記アーネスト・サトウに雇われ、用人兼用心棒になる。

1869年(明治2年)アーネストに従って渡英。
ロンドンの学校で西郷従道と会い、日本政府留学生になり、3年間機織業を学んで1873年(明治6年)帰国。
京都西陣織を指導した。

兵庫県庁に出仕後、死去。墓は神戸市営追谷墓地。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)』
(「野口九郎太夫」より)
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame11/jinmei-no.htm

野口九郎太夫は富蔵の兄で会津藩士である。
越後長岡の戦争で負傷し、会津城籠城戦に参加している。
最後は、会津城明け渡しの委員を務めた藩士である。

富蔵は明治6年に英国から帰国後、京都で西陣織を指導したとあるが、京都は西陣織の本場である。
英国で見聞してきた機械織、自動化を指導したものである。
西陣折の元締めと人脈があるようである・
元締めはおそらく公家であろう。

『野口富蔵成光は会津藩士野口九郎太夫の弟、英国大使館員アーネスト・サトウに仕え、戊辰後、 内務省出仕、陸軍省・工部省を経て京都府に出張勤務する。』
(「神戸追谷墓園(会津藩士のお墓)より」
http://www.geocities.jp/daitabou/koubeoitaniboenn.html

最後は京都府に勤務していることから、野口には京都に太い人脈があったことがわかる。
それは戊辰戦争前からだったのか、その後からだったのか。

1866年(慶応2年)24歳のときにサトウに雇われているから、サトウの付き人ととして京都要人と交わる機会を得たのだろう。
実際は1865年秋からサトウと同居しているようだ。

すると、戊辰戦争の2年前あたりからということになる。

英米人の植民地政策を思い出そう。
「Clearance of Indians(クリアランス オヴ インディアン)」つまり「インデアンの洗浄」作戦である。

ヨーロッパから北部アメリカに上陸した人々は、イロクワ族を味方につけた。
そして武器を与えて、他のインディアンと戦わせた。
一方で、他のインディアンにも武器を与えている。

インディアンの力を用いてインディアンを浄化殲滅するアイデアがClearance of Indians
なのである。

話は変わるが、先ほどの野口富蔵の記述があった人名事典「北海道に足跡を残したふくしまの人々」の中に、会津降伏のとき容保のお傍にいた首席家老梶原も載っていた。

『梶原 平馬景武

会津藩最後の筆頭家老。
平馬は28歳の若さで筆頭家老になり、東北・越後の諸藩31藩を説き、北の意志をまとめあげ、奥州越列藩同盟を樹立した。戊辰戦争後消息不明となった。

昭和63年(1988)根室市営の西浜町墓地で平馬の墓が発見された。

なぜ根室に来たかは不明であるが、根室では教職の水野貞子と結ばれて一女二男をもうけ、明治22年(1889)48歳で没した。

平成16年夏、平馬の曾孫2人が初めて根室の墓前に立ち、「詠歌・荒城の月」を捧げた。』
(抜粋終わり)

会津藩守備の最高責任者が生き延び、北海道に身を隠し、孫さえも音信不通となっていた。
墓が発見されて、孫がお参りできたのが平成16年のことである。

サトウが「Clearance of Indians」を日本でやるためには、用心棒の野口富蔵だけでは軍事戦略を左右することはできない。
西郷はほぼ制御可能な状態になっている。
倒幕をしたい薩長に武器を渡してある。

しかし会津藩は、梶原の行動をコントロールしなければ動かせない。
梶原と野口の間に、頻繁な音信がなかったかどうか、それが問題となってくる。

アメリカのインディアンたちは最後の最後まで「Clearance of Indians」戦略を読めなかった。

日本人は果たして読めているのだろうか。

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Clearance of Japanese戦略はいまでもつづいているようです。

Tbさせていただきました。

2010/1/9(土) 午後 3:38 うまやど

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オノコロさん、コメントありがとうございます。
Clearance of Japanese戦略はいまでもつづいているようです、に同感です。
これはうがった見方ではありますが、田中角栄が登場すると逮捕失脚、小沢一郎が頭角を表すと逮捕へ向けて盛んに知恵を絞っているようで、対米姿勢に背を向けるとすべてそうなっていくような気がします。それだけの知恵を検察が前政権時に絞っていれば、自民党国会議員の100人くらいは逮捕できていたのではないかとさえ思います。
それも従わない殖民に対する一種のClearanceなのかも知れません。
戦争に負けるということは何世紀にもわたって苦労を背負うことになるようです。

2010/1/10(日) 午後 4:06 [ rea*h*ar200* ]

ただ、いまいちど「Japanese」とは何か、ということを考えておかねばなりません。

果たして、田中角栄や小沢一郎は「Japanese」なのか。
自民党は「Japanese」なのか。

この国のコモンローを尊ぶものが「タミ」であり「トミ」です。

明治維新は、その「タミ」や「トミ」を滅ぼすものであったのかもしれません。


Clearance of Yamato

と表現すべきかもしれません。

2010/1/10(日) 午後 5:22 うまやど

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オノコロさん、コメントありがとう。でもすぐに理解できずに3回読みました。

なるほど。民族ルーツのことですね。
最初はコメントを読んでもよくわかりませんでした。
ある科学者の講演で聞いた話です。
日本人の血液のDNA分析をした結果、平均的に10%のユダヤ人由来の形が含まれていたそうです。
私はその話を聞いてから、渡来ユダヤ人の足跡を発見するたびに、90%は帰化した外人の話だと思い、また10%は私自身の先祖の足跡であると感じるようになりました。
科学とはそういう役立つものであってほしいですね。
宮内庁が血液提供に協力してくれれば、もっとこの国の歴史を明らかにできるとその講師は言っていました。協力を得られていないような口ぶりでした。

2010/1/10(日) 午後 10:53 [ rea*h*ar200* ]

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もうひとつ。
10%混血の私たち日本人は日本人全体を仲間だと思いますが、100%先祖由来だと信じる(ヒトの生殖行為から考えてそれはありえないことですが)人々にとっては、自分たちだけが人間であり、他は動物、たとえば「豚」や「犬」程度に考えるようでは、困った歴史が繰り返しますね。その意味でも血液分析でこの国の由来や歴史を明確にし、すべての日本人(戸籍上の意味で)が共通理解する必要がありますね。いろいろ考えさせられる深いコメントをいただきました。

2010/1/10(日) 午後 10:56 [ rea*h*ar200* ]

DNAですか?

そういう唯物的なものではありません。

「マコト」がわかるかどうかというだけです。
「マコト(誠)」がわからぬ人は「ヤマト」な人ではないのです。
そして、帰化人であろうが外国人であろうが、「マコト」がわかれば、
仲間です。

2010/1/10(日) 午後 11:13 うまやど

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唯物的ではないとすると唯心的なものとなりますが、私には難し過ぎますね。
もっとも吉田松陰を調べて歩いていると、彼は「心」に価値を抱いて行動していたように思われます。江戸時代の日本人の多くはそういう価値観を持っていたのでしょうね。物にこだわる私にはなかなか理解が追いつかないところです。

2010/1/13(水) 午後 8:57 [ rea*h*ar200* ]

吉田松陰的にいえば「至誠」ということです。

「誠」とは、「まこと」「まごころ」のことです。

がんばって下さい!

2010/1/14(木) 午後 7:14 うまやど


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