五街道を歩く(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)

キーボードの「ctrl」を押しながら「+」キーを押せば拡大、「ctrl」を押しながら「−」なら縮小。ctrl+「0」で元に戻る

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

TS391247下を狙え!
TS391252別の階段
TS391253土井晩翠句碑

車道まで降りてきたところに別の階段があった。
ここからでも天守台へ通じているようだ。

土井晩翠の句碑が立っていた。
そこにはこう書いてあった。

『二本松市郭内 霞ケ城址            
花ふゞき 霞が城のしろあとに 仰ぐあたゝら 峯のしら雪  S.31.11.3』(抜粋終わり)
(「土井晩翠(1)」より)
http://www.yin.or.jp/user/sakaguch/190.TXT

長くなるが、二本松城での攻防を語るサイトがあったので抜粋する。

『戊辰戦争にて、奥羽越列藩同盟が結成されると、二本松藩は徹底抗戦を主張した。
いざ官軍が東北に進撃してくると、弱腰の藩が続出する中で、二本松藩は主力の藩兵を白河口に集結させ、積極的に官軍を迎撃する態勢を見せた。

しかし、この動きを察知した官軍は臨機応変に白河口を回避し、浜通りを通って霞ヶ城を攻撃した。

二本松藩の主力部隊を回避した官軍の進撃はまさに破竹の勢いであった。
官軍の思わぬ行軍で調子が狂った二本松藩軍に対し、さらなる訃報が届く。
味方と信じていた三春藩は勤王派へ鞍替えし、二本松藩軍に攻撃してきたのである。

三春藩にだまされた形となった二本松藩は、完全に戦線統制が取れなくなり、苦境に立たされた。

しかし、二本松藩老の丹羽一学(にわいちがく)は、「同盟に背き、周囲の信頼を失って敵に降るよりも、むしろ死して、信頼を守る方がまし」と述べ、あらためて藩内に徹底抗戦を厳命した。

意気盛んではあっても、二本松藩の留守部隊は老人と17歳までの少年ばかりである。
兵器の差も格段であり、総員玉砕は免れない状況であった。

本丸へと突入した政府軍は、丹羽一学ら七名の自刃した死骸しか見ることができなかった。

野戦にて決戦を挑む二本松藩軍は、一人一刺を実行した。
兵器による火力では断然負けるのだから、白兵戦にて、一撃必殺にて敵を討ち果たすことを目指したのだ。

14歳の少年藩士・成田才次郎は長州藩士で官軍部隊隊長を刺殺する成果を挙げている。
官軍も相手が少年であるため、にわかにためらうことが多かったという。

官軍指揮官・野津道貫(のづみちつら※のちに明治政府陸軍元帥)の述懐でも、幾多の激戦で唯一、必死に逃げたのは二本松藩軍との戦いの時だけだったと記している。

この激戦で二本松藩にどれだけの犠牲者が出たかは定かではないが、少数ではなかったことだけは確かである。』(抜粋終わり)
(「二本松藩」より)
http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kakuhan-page1/31.htm

二本松藩は城には7名を残し後は野戦に出かけてそこで死んだ。

二本松藩側の戦死者は337名だと言う。

『「二本松藩士自刃の地」の説明板が立っています。
戊辰戦争により慶応4年7月29日正午頃落城したこと、二本松藩の戦死者337名以上であることなどが書かれ、主戦論者であった家老・丹羽一学をはじめとする3名が責任をとり割腹をし、壮絶な最期を遂げたことが記されています。』

(「二本松城(2)−家老自刃の地」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/tm1520268/62661069.html

主戦論者だった丹羽一学の最後は次のようだった。

『<二本松藩士自刃の地碑>

霞ヶ城の本丸への中腹にある碑で、家老の丹羽一学・城代の服部久左衛門・小城代の丹羽新十郎の三人が自刃した土蔵奉行役宅であった場所。

丹羽一学の辞世の句は
  『風に散る 露の我が身は いとはねど 心にかかる 君が行く末』

介錯は大島成渡で、直後に大島は役宅に火を放って三名の骸を焼き尽した。』(抜粋終わり)
(「霞ヶ城址」より)
http://seuru.pupu.jp/sisekinihonnmatu.html

「心にかかる 君が行く末」か・・・。

切腹前に家老の一学が案じた『君』とは、第10代藩主・丹羽長国のことである。
その頃には米沢藩家老の自宅かどこかで、暖かい御飯と味噌汁をすすっていたであろう。

草々に退去した藩主は腰抜けであると私は断定した。

しかし、戦国時代であれば、大名が逃げに逃げて、次の戦に備えることは普通であったようだ。

越前の朝倉と近江の浅井に挟み撃ちにされて、青くなった織田信長は少数を連れて馬で逃げに逃げた。

撤退戦の殿(しんがり)を勤めたのは徳川家康と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)だった。

しかし戊辰戦争は江戸末期である。
戦国時代の風習を藩主が取ったとは考えられない。

やはり忠臣が君主を生き延びさせたのであろう。
赤穂浪士のような忠臣だと思えばわからないでもない。

閉じる コメント(3)

顔アイコン

江戸時代の大名は跡継ぎを決めずに亡くなると、お家お取りつぶしになっていました。
取り潰しになると、家臣一同家族を含め路頭に迷うことになります。
このため、お殿様は生き伸びる必要がありました。生きて子孫を残すことが唯一の仕事だったといっても過言ではないかもしれませんね。
その他の事は家臣の仕事だったのでしょう。

そう考えれば腰抜け殿様ではなかったのでしょう。
親藩や譜代大名のように殿様も将軍の家来だった場合、殿様も将軍に対して命を懸けて忠誠を誓うべきだったでしょうが、幕末にはそういった殿様はいなかったようですね。
殿様は将軍よりもお家や家臣のことを大切に思っていたからでしょうか? あるいは既に将軍家を見限っていたのでしょうか?
それとも自分が可愛かったからでしょうか?

後者のような殿様なら家臣はついてゆかなかったと思いますがね。

2010/1/29(金) 午前 10:45 [ ごんべい ]

顔アイコン

ごんべいさん、コメントありがとうございます。
世継つくりが最高の仕事だったことは、江戸城の大奥を見てもわかりますね。ただ家臣には命がけの忠誠を尽くさせ、自分は逃げるという論理は不公平さを感じます。おそらく主人と奴隷と言う、他民族に対するような感覚が大名連中にあったのでしょう。
大名が古代の渡来人の末裔であるという印象を私は街道歩きの中から直感しています。城にシュロの木を多く見ることもその理由の一つです。渡来人から見れば、日本人は異民族となりますね。

2010/1/31(日) 午後 8:06 [ rea*h*ar200* ]

最期まで戦う覚悟の病床の殿様を、家老たちが必死に嘆願して米沢に退避させたそうですよ。

2019/7/1(月) 午後 5:28 [ nie***** ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事