五街道を歩く(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)

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TS391443古代砂鉄採掘業者の住む八反田川上流を眺める
TS391442八反田川下流で稲作をする人々を想像する
絵図 龍宮城で百足を射る藤原秀郷(藤原秀郷(Wikipedia)より)

八反田川(はったんだがわ)の川面を流れる風に汗を乾かしている。
八反田川は、福島市の一級河川阿武隈川水系の河川である。

砂金や砂鉄に豊富な水。
山の中の森の木々。

これらがあれば、俵の藤太には金や鉄が作れるはずである。

上図は藤原秀郷のWikipedia記事に出ていた秀郷(=俵藤太)のムカデ退治である。

『「百足は死んでも倒れぬ」という言葉があって、<万一の場合に親類知己が多いと助かることもある>ことの比喩です。

宝船絵の百足は、たくさんの脚で、福徳を掻き集めるという意味のように思えます。
(ま、漕ぎ手の多い船をムカデ船ともいいますが。)

そもそも、百足は<毘沙門天>の使いとされていて、毘沙門天を祀る寺では、百足小判と称する金属の小判(?)を参詣者に授けていたところがあったそうです。

たくさんの脚で福徳を集めるという縁起のようです。

中略。

たわらとうた(藤原秀郷)の百足退治は、御伽草子、浄瑠璃、謡曲などの俵藤太物に出てきますが、たとえば、謡曲の「百足」では、近江国勢田で、俵藤太が霊夢で龍神に頼まれて、三上山(近江)の百足の精を退治するという筋です。

大百足の怪物ですが、のちに三上山をむかで山と呼ぶようになりました。

どうも、百足がたくさんの手(足)で、福(米俵)を掻き集めるということと、俵藤太の俵(米俵)との連想が働いているような気がします。

初期の宝船、あるいは古くから宝船絵を刊行している神社版の絵の宝船に俵はつきものですし。

毘沙門天の兜頭と百足の頭部とは、似ているように思います。
百足は毒で人を殺すよなこともあるので、畏怖される存在なのでせう。

お伽草子のほうでは、勢多の橋に横たわっていた大蛇を藤太が踏んで通ったので、その勇気に感心した大蛇が、三上山の百足の退治を頼む、というよになっています。

藤太(秀郷)は唾を塗った矢で百足を退治し、お礼にと大蛇から、使っても尽きない巻絹、米の尽きない俵(!)、思うままに食べ物の出る鍋を貰い、さらに(!)、竜宮に招かれて、鎧、太刀、赤銅の釣鐘を貰ったといいます。

釣鐘は園城寺へ寄進したといいますから、この話の出所もおそらくその辺りでせう。
(参考『神話伝説辞典』)

[百足退治]の類話が今昔物語(26-9)にあるそうですが、ちと覚えてませんでした。

福をもたらす、竜宮からの使い(竜宮童子、竜宮姫、等)や竜神としての[大蛇]、蛇と鐘、[唾]のまじない、などなど、百足と[福徳][海]の関連が隠されているようです。

となりますと、百足船による渡来系海人たちの伝承が深層にあるのかもしれません。』
(「俵藤太(オリエント幻想(6)」より)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ipsenon/kk6.html#S57

俵藤太は京都から流されてこの地に達したのではなく、金や鉄の鉱脈を調べつつ、製鉄ユーティリティである「水と燃料の薪」を求めてここまでやってきたのであろう。

「八反田」の地名は青森と島根にもある。

青森県は南津軽郡田舎館村大字八反田である。
弘南鉄道弘南線の田舎館駅の西側にある地名である。

北側には河が東西に流れている。
南部藩も『南部鉄』で有名なように古代製鉄技術で優れている土地である。

もう一つは出雲の近く、島根の松江市にある。

『鉄砂稼方之儀ニ付熟談定書之事(渡家文書より)

天保3年閏11月に、石見国迩摩郡大家本郷(大田市大代町大家)で、砂鉄採取者と村人との間で取り決められた議定書。

鉄穴流し(山肌を切り崩し、土砂を小川に流して、砂鉄を選別する作業)によって生じる濁水による被害を避けるために様々な処置を施し、そのための費用も負担することを、「鉄砂稼人」である直兵衛が約束している。

大家本郷は、大森代官所支配下で大家組に属する一つの村であったが、さらに川上組、柿田組、七日市組、八反田組、四日市組の五つの組(分郷)に分かれ、それぞれに庄屋以下の村役人が設けられていた(各庄屋のうえには年寄が一人設けられていたようである)。

このうち、直接、鉄穴流しをめぐる利害の対立関係にあったのは、八反田川の上流に位置する柿田組に属していた砂鉄採取者の直兵衛と、七日市組(一部町場化.牛馬市が年2回立つなどした)に属した酒造家や、八反田郷に田をもっていた村人だった。

川上組と四日市組の村役人も、組(分郷)間での出入り作があるということで、連印したようである。

たたら製鉄に用いる砂鉄を採取するための鉄穴流しは、下流域の洪水の原因ともなり、しばしば砂鉄採取者と農民との対立を招いたが、この史料が示すのもその一例である。

稼ぎ人である直兵衛が、幕府への運上とともに、掛樋の維持や、堀溝の浚いなど、さまざまな負担を求められている点が興味深い。』(抜粋終わり)
(「1998年度古文書をよむ会」より)
http://www.hist.shimane-u.ac.jp/Nihonshi/Kobayashi/komonjo.html

島根では、『直接、鉄穴流しをめぐる利害の対立関係にあったのは、八反田川の上流に位置する柿田組に属していた砂鉄採取者の直兵衛』とあるように、八反田川の上流にある砂鉄採取者とその水を水田に使う農民との間に河川汚染のトラブルがあったようだ。

天保年間にあった「たたら製鉄」による公害問題を話し合いで解決しようとしていたのである。

おそらくこの福島の八反田川の名前も、島根からやってきた砂鉄採取者の子孫たちが付けたものであろう。

私は、製鉄技術は渡来ユダヤ人一族の「秘伝の技」だったと推測している。
空海(佐伯真魚)の祖先である佐伯氏も製鉄技術を持っていた氏族である。
讃岐の開墾が進んだのも、鉄製農具の存在が大きかったであろう。

藤原秀郷の稲荷信仰について述べた資料があった。

『秀郷の関連神社が総て「倉稲魂(ウカノミタマ)」であることに注目すると、やはり京都伏見稲荷に注目せざるをえない。

勧請元である京都伏見稲荷は、<ある有名な渡来人>が造った神社でなのである。そして一説では<イナリ>が外来語からきているという。

キリストの処刑図に「INRI」または「JNRI」の文字が見られ、これは

「Jesus Nazarenus,Rex Iudaeorum」(ナザレのイエス、ユダヤ人の王)

という意味であるという。

これが「伊奈利」(いなり)となり現在の稲荷となったという説である(詳細は2001年6月号の学研「ムー」)。』(「中央・椙森神社」より)
http://dhistory.hp.infoseek.co.jp/tko_1_10.htm

京都伏見稲荷を造った「ある有名な渡来人」とは秦氏である。
有名な人物としては、聖徳太子のブレイン(頭脳)だった秦河勝の名前が伏見稲荷神社を建立した人としてよく挙げられている。

「ウカノミタマ」という神は次のように2通りの漢字の当て方があるそうだ。

京都伏見稲荷では「倉稲魂」、三重伊勢神宮では「宇賀能御魂命」と書く。

北河内(地元)の人々は、秦川勝と書くようだ。
同じ地域の河内源氏といえば、義経の先祖でもある。
河内源氏と藤原秀郷(俵藤太)の末裔との間柄の強さは地縁でもあるようだ。

『我が国古代における渡来集団のうち、大勢力を誇った集団が二つある。東漢(やまとのあや)氏と秦(はた)氏である。

「秦」は一般には「はた」と読まれているが、正しくは「はだ」と読む。

秦氏は秦の始皇帝の五世の孫融通王(我が国では夕月君(づきのきみ)と呼ばれた)が、応神天皇の頃、百二十七県の民を率いて渡来したのに始まると云う。

最近では、その出身地は新羅の北辺、蔚珍(うるじん)郡の波旦(ぱだん)であり、ハダは波旦、ウズマサは蔚珍に由来すると見られている。

五世紀後半この地方は新羅と高句麗の係争地であり、このため、戦火を避けて集団的に亡命した。

秦の文字を用いたのは、ライバル関係にあった東漢氏が漢帝室の末裔と称していたので、それに対抗して、漢よりも前の中国の王朝である秦の末裔と称し、文字も「秦」の字を用いたものであると考えられている。

日本書紀は雄略天皇の十五年の条に、天皇は、秦の民が分散して諸豪族の配下になっているので、それらを集めて秦酒公(はだのさけのきみ)に与えたところ、彼はそのお礼のために、大量の絹織物を宮廷にうず高く積み上げて献上した。

そこで天皇は、彼に「うずまさ」の姓を与えたとある。太秦と書いて「うずまさ」と読むのも、このためと云う。』(抜粋終わり)
(「北河内古代人物誌 秦川勝」より)
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch/hatakawakatu.htm


稲荷が「ユダヤの王イエス・キリスト」の罪状文字から由来しているから、秦氏は渡来ユダヤ人の末裔だとする説に私は賛同している。
それはこの国の古い街道に多くのシュロの木が並ぶ姿と繋がってくるからである。

しかし、少し疑問がある。
イエス生誕以降の出来事そう説明することはできるが、それ以前に渡来してきたユダヤ人がいるとすれば、彼らの植えたシュロの木は必ずしもイエスとは関係しないのではないかということである。

イエス生誕前には新約聖書はなく、旧約聖書だけしかない。
旧約聖書だけで成立する宗教はユダヤ教だけである。
それはモーセの教えにより紀元前13世紀から口伝されてきたものである。

私は、紀元前473年建立とされる武蔵一ノ宮の境内右手の森の中にシュロの木を見つけた。現在はフェンスで仕切られていて、大宮氷川神社境内とは異なる土地(森)の中であったが、古代の神社の壮大さから見ればあのシュロは神殿の向かって右手に植えて神を祝って植えられていたものであろう。

時代が変り権力者が移り代わっても、シュロの種子は現代においても古代におけるその存在位置を示している。

紀元前にはINRIという罪名は存在しないから、稲荷信仰も無かっただろうが、そういう古い時代でさえシュロの信仰と三位一体説はあったようだ。

大宮氷川神社を北側にして、間に中氷川神社(現在は中山神社に改名)、南に氷川女体神社があった。

目立ったシュロがあるのは氷川女体神社であった。

藤原秀郷、その子孫佐藤氏は渡来ユダヤ人の末裔であり、製鉄技術を所有していた。
そして稲荷信仰をもち、おそらくこの八反田の地名も島根松江の地名を用いてつけたのではないだろうか。

八反田川上流には古代に発掘された砂鉄鉱脈が今でもあるはずである。
砂金も古代は豊富で合ったのかもしれない。

なぜならば、俵藤太の子供が『金売りの吉次』であり、ゴールド相場で儲けた人物であるからだ。

私は、八反田川上流で砂遊びをしてみたい気持ちになってきた。
もちろんついでに砂金を探してみたい。


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