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TS392829街道の夕暮れ
明恵上人(『集古十種』)(明恵(Wikipedia)より引用)
私と街道の関係を表す、いい言葉を見つけた。
それは鎌倉時代の華厳宗の明恵上人の書いたラブレターである。
まず明恵上人について紹介する。
『明恵(みょうえ)は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。
明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。
父は平重国。母は湯浅宗重の四女。
現在の和歌山県有田川町出身。
生涯
承安3年(1173年)1月8日、平重国と湯浅宗重の四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。
治承4年(1180年)、8歳にして両親を失い、高雄山神護寺に文覚の弟子上覚を師として出家。法諱は成弁(後、高弁に改名)。
仁和寺・東大寺で真言密教や華厳を学び、将来を嘱望されたが俗縁を絶ち紀伊国有田郡白上や同国筏立に遁世した。
釈迦への思慕の念が深く2度天竺(インド)へ渡ることを企画したが、春日明神の神託が在り断念した。
建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から山城国栂尾(とがのお)を下賜されて高山寺を開山し、観行と学問にはげんだ。
戒律を重んじ、念仏の信徒の進出に対抗し、顕密諸宗の復興に尽力した。
法然の浄土宗を批判した『摧邪輪(ざいじゃりん)』『四座講式』の著作や、40年にも及ぶ観行での夢想を記録した『夢記』などがあり、弟子の筆記による『却廃忘記』など数多くの著書がある。
和歌もよくし家集『明恵上人和歌集』がある。
山本七平氏によれば、承久の乱の後、鎌倉方の総司令官で後の三代執権となる北条泰時と出会ってその尊敬を得、泰時のその後の政治思想、特に、関東御成敗式目の制定の基礎となった「道理」の思想に大きな影響を与えたとされる(山本七平 『日本的革命の哲学―日本人を動かす原理 』(PHP文庫)ISBN-13: 978-4569564630)。
寛喜4年(1232年)1月19日、死去。享年60(満58歳没)。』(明恵(Wikipedia)より)
明恵の解説になぜ山本書店店主の山本七平(やまもと しちへい)氏が登場するのかと思ったが、明恵が真言密教を学んでいたことからなるほどと得心した。
真言密教は佐伯真魚(まお)が唐から持ち帰ったもので、お経の中には漢字で書かれた旧約聖書も含まれる。
新約聖書は比叡山の栄西が持ち帰っている。
空海の真言密教は旧約聖書だけを奉じると解釈すれば、それはユダヤ教と同じことになるだろう。
高野山では、僧侶が朝のお経を読むときに袈裟の前で十字架を切る。
隠れてこっそり切るのではない。
観光客が見ている前で堂々と切るという。
秀吉によってマカオに追放された切支丹大名高山右近の十字架のついた兜が高野山に保存されている。
山本七平氏は、1970年にイザヤ・ベンダサンのペンネームで『日本人とユダヤ人』を出版している。
だから、真言密教を学んだ明恵の解説文に七平氏の名が登場したことは私なりに納得できたのである。
明恵が法然の浄土宗を批判し、戒律を重んじたということを読み、私はユダヤ人預言者モーセの十戒を思い出さずにはいられなかった。
また明恵は釈迦への思慕の念が深かったというから、彼の頭の中ではいくつかのよき教えが習合していたのではないか。
平均的な日本人の血液のDNAの10%はユダヤ人由来のものであるとある大学教授の講演で聞いた。
だから、ユダヤ人の思想を知ることは私のルーツの一部に近づくことでもある。
明恵上人の紹介が長くなったが、「私と街道の関係を表現する」のに最適な文章を
井沢元彦著「逆説の日本史5(中世動乱編)」(小学館文庫)のp351に見つけた。
実際は、その中にある一つの名詞を「街道」に置き換えることになる。
井沢氏の原文を一部変えて掲載することを、予め著者にお断りしておきたい。
『いまこの部分(「街道」へのラブレター)を平泉洸氏の訳によって、次に引用させていただこう。
そうすれば明恵上人が、「国土とその上の衆生(社会)なるものをどう考えていたか、現代人にもある程度は理解把握できると思われるからである。
「その後、お変わりございませんか。
お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶もいたさずにおります。
いったい「街道」そのものを考えますならば、これは欲界(よくかい)に繁属(けいぞく)する法であり、姿を顕(あらわ)し形を持つという二色(にしき)を具(そな)え、六根(ろっこん)の一つである眼根(げんこん)、六識(ろくしき)の一つである眼識(げんしき)のゆかりがあり、八事倶生(ぐしょう)の姿であります。
五感によって認識されるとは智(ち)の働きでありますから悟らない事柄はなく、智(ち)が働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはありません。
理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理(ほうり)そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生の世界というのと何ら相違はありません。
それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切(いっさい)の生物と区別して考えてはなりません。
ましてや国土とは実は「華厳経(けごんきょう)」に説く仏の十身中の最も大切な国土身に当たっており、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)のお体の一部であります。
六相まったく一つとなって障(さわ)りなき法門を語りますならば、「街道」そのものが国土身で、別相門からいえば衆生身(しゅじょうしん)・業報身(ごうほうしん)・声聞身(しょうもんしん)・菩薩身(ぼさつしん)・如来身(にょらいしん)・法身(ほっしん)・智身(ちしん)・虚空身(こくうしん)であります。
「街道」そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網一杯(ほうもういっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。
それ故に「華厳経」の十仏の悟りによって、「街道」の理(ことわり)ということを考えますならば、毘盧舎那如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち「街道」そのものの外(ほか)にどうして求められましょう。
このように申しますだけでも涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、「街道」と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕(した)っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます。』
私の街道歩きに対する思いを、ここまで深く言い尽くせる文章はない。
原文は「街道」の部分が「島」となっており、海に浮かぶ島に対して書いた明恵上人のラブレターである。
『「街道」そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網一杯(ほうもういっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。』
この下りは、およそ800kmに及ぶ奥州街道そのものの形容に相応(ふさわ)しいと思う。
これは明恵上人の言葉を借用した「私から奥州街道へのラブレター」である。
四国お遍路の人々が四国の山野に対して持つ憧憬も、これと同じようなものであろう。
四国お遍路のシステムは佐伯真魚が作ったものである。
製鉄技術をこの国へ持ちこんだ佐伯氏もおそらく渡来ユダヤ人の末裔であろう。
とにかく山野や国土を愛し、歩くことに長けている。
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