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二本松藩戦死者337名〜奥州街道(3−225)
中山道を歩こう
[ nie***** ]
2019/7/1(月) 午後 5:28
大宮散歩(8)小栗忠政による再興(普門院)
中山道を歩こう
[ pkk***** ]
2018/4/18(水) 午後 5:16
大航海時代の潮流に翻弄される朱舜水と鄭成功
中山道を歩こう
[ マレーシアにまた行きたいな ]
2018/2/12(月) 午後 2:47
過酷な彦根藩側の処分〜桜田門外の変(5)
中山道を歩こう
[ imp*r*al_k*du* ]
2018/2/8(木) 午後 8:03
画狂老人、北斗星を書く
中山道を歩こう
2017/5/7(日) 午後 2:09
こんにちは。いきなりコメントすみません。
「水戸 北辰信仰」の検索で辿り着きました。
というのも茨城県出身の横綱稀勢の里の化粧まわしが北斗の拳ということでラオウのファンだからと聞いた時は「ふーん」って思ってたのですが、三つ揃いの化粧まわしの3つとも北斗七星が描かれているのをTVで見て、もしかしたら「北斗の拳」というより北斗七星をモチーフにしたかったのかな?などと思い至り検索してみました。確かに司馬遼太郎の本でこの地域と北辰信仰の関わりを書いていたなと思い出し、また隣県の千葉県では里見八犬伝と北辰信仰の関わりが30年程前に指摘されています。仰るように「妙見信仰、隠れキリシタン、北辰信仰は、一つの糸で繋がっているように思えてきた」は以前からなんか関わりがあるなあと思っていました(キリシタン、というか古代
ユダヤ教?な気も)。いきなり現れて長文で色々まくし立ててすみません。後、近々TVドラマで水戸黄門が復活するそうですが、光圀を演じるのが坂本龍馬ファンの武田鉄矢ってなんだか不思議な気がします。今の朝ドラ、まさに茨城県が舞台です…勤王思想は現代にも根付いてますね。
秀吉とキリシタン
中山道を歩こう
[ 歴史の真実を世紀ごと学ぶ ]
2017/3/19(日) 午後 2:58
フィリピンマニラの初代司教としてスペインから送りこまれたサラサールが、本能寺の変の翌年にあたる1583年にスペイン国王に送った書簡が残されている。
ここにはこう記されているという。
「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.85-88)
アイヌ侵略の歴史〜北海道(31)
中山道を歩こう
[ 歴史&環境&公徳心ツアー ]
2016/9/27(火) 午後 9:12
クナシリ メナシの戦い
1789年、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。
松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人71人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。
一方、幕府は、寛政3〜4年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。
事件から10年を経た1799年(寛政11年)東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年(文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)も公議御料となった。
シャクシャインの戦い〜北海道(29)
中山道を歩こう
[ 歴史&環境&公徳心ツアー ]
2016/9/27(火) 午後 9:05
クナシリ メシアの戦い
1789年、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。
松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人71人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。
一方、幕府は、寛政3〜4年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。
事件から10年を経た1799年(寛政11年)東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年(文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)も公議御料となった。





