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 メモ。

……ケイティブのアーレント論の面白いところは、その結論部でケイティブが、アーレントの診断を認めながら、そのあまりに政治主導の処方箋を拒んでいる点である。批判のポイントは二つ。ひとつは、古代的な公共圏における政治的行為で「安心立命 being at home」なんていうけど、それムリ。オレ政治苦手だし。二つ目は、完全な「安心立命」なんて「神の死」以後はムリ。むしろ「安心立命なんてムリだっていう近代人の状況の中で、それでもそれなりの安心立命を保っていられる心の強さ the ablility to be at home in not being at home」を涵養すべきではないだろうか。そう、ちょっと強めの個人主義。アーレントは個人主義はだめだっていうけど、「ほどほどの疎外 moderate alienation」をむしろある種の可能性と捉え、公共精神なんていう安倍晋三とかヤンキー先生が喜びそうなものぢゃなく、もっと個人的な「道徳」のレベルでのポジティヴな個人主義ってないだろうか。共同体の一員としてそれなりに責任と義務を背負いつつも、共同体から外れて再帰的――判断の根拠を専ら自分自身の内側に求めるという意味で――に振るまってみるとか。――そしてケイティブは、この「内にありながら、外にいる」("Both in and out of the game"――ホイットマン「ぼく自身の歌」)というエマーソニアン的 "doubleness"(訳すとすれば「二重性」?)をもとに「民主的個人性」理論の構築を試みる。既にアーレント本の段階で、ケイティブは次のようなことをいっている。

近代のあらゆる混乱と不確実性から真に利益を得ているのは、ほどほどの疎外の文化の中で生活し、そうした疎外を共有している民主的な個人たちである。アーレント(や他の思想家たち)は個人主義という一般的な現象こそが疎外の兆候であり現れであると考えているが、これはおそらく正しい。しかしながら、民主的個人性の理論は(そのように自覚されているかどうかはともかく)こうした苦悩や喪失を極めて善いものへと変換したものである。ひとりひとりの個人が個人となれたのは、ほどほどの疎外という一般的な条件によって、その余地が与えられたからである。その様子を、誰よりもはっきりと示したのが、エマーソン、ソロー、ホイットマンであった。……ほどほどの疎外の正しさを語る際の道徳的な単位は、集団としての人類や大衆ではなく、あくまでも個人である。ここでいう個人は、民主的個人のことであって、他の、何の条件も背負っておらず、位置づけももたない幽霊のような個人のことではない。鍵となる点は、エマーソンが『超越主義者』や『運命』において、複雑な感情を込めて、「二重意識」と呼んだ状態、あるいはソローが『ウォルデン』で「二重性」と呼んだ状態にまで高められた自己意識であり、その本質は、ある種の疎外を自ら実践することに存する。(Kateb 1984: 178-179)

社会思想史学会@神戸大学国際文化学部20091031_1101 ─ D's BLOG 2009/11/2

閉じる コメント(2)

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ほどほどの疎外、っていうのはなんかいいですね。
密着性や同調圧力の高い集団が苦手なわたしには、馴染みやすい考え方です。

2009/11/6(金) 午後 11:45 [ MoranAoki ]

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相即的にくっつきすぎず、さりとて孤立しすぎもせず、適当な距離を置きながらつながることで初めて成立するような人間関係というのもあるでしょうね。
上記の文章で、『ウォールデン/森の生活』のソローがその一例に挙げられているのはちょっと面白いと思いました。

2009/11/11(水) 午前 0:22 [ ReCTOL ]


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