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縮退

 メモ。積極的な政策目標として経済「縮退」を考えることについて。

……経済の縮退というのは「成長を算術的に逆転させるということとはまったく違う」わけだが、経済と環境の二重の危機に地球が揺れているなかで、経済成長を問い直すことは当然の帰結のようにも思える。こうして、縮退論者たちの言葉がにわかに傾聴されるようになった。(略)
 「縮退」という言葉自体、ラジカルなエコロジストだけにとどまらず、広範に使われるようになっている。反成長派から「エコぺてん師」呼ばわりされてきたテレビ司会者のニコラ・ユロでさえ、欧州議会選の際、「縮退派の主張に現実という追い風が吹くようになっているが、現在の景気後退のような制御されざる縮退と、制御された縮退とは、はたして二者択一の関係なのか」という問いを立ててみせた。 政治連合ヨーロッパ・エコロジーへの支持を表明するユロは、「グリーン成長」への疑問を公言し、「選別的な成長と選択された縮退との結合」を提唱した。「地球を救えるのは縮退だけである」と、写真家のヤン・アルテュス=ベルトランすら言い放った。今春の欧州議会選でのエコロジストの躍進には、ピノー・プランタン・ルドゥト(PPR)などの高級ブランド企業から大半の資金を得た彼の映画、『HOME〜空から見た地球〜』がどうやら一役かったように思われる。
(略)
 ……コシェもまた、地球生物圏という限界にぶつかった人類は、分別をわきまえるようにならざるを得ないと考えている。「政治に携わる地質学者で、骨の髄まで唯物論者だ」と自認するコシェは、「客観的に明白な根拠によって推進される経済成長など、もはやあり得ない。縮退は、私たちにとって避けることができない運命だ」と警告する。ここまで来た以上はもはや、危機が速やかに人々の自覚を促してくれることを願い、「民主的で公正な縮退に向けて算段する」しかないのだ、と。
 しかし、こうした楽天的な見解が、共有されているとは言いがたい。それとは一線を画し、「破局の教育効果だなんて、まったく違う」と語るのは、ラ・デクロワッサンス紙の編集長のヴァンサン・シェネだ。「危機は自問や見直しの好機でもあるが、萎縮や広範な恐怖を生み出すおそれもある」と彼は言う。「大きな危機は、最悪の状況になりかねない」というのがシェネの考えだ。反成長派運動(MOC)の世話人のジャン=リュック・パスキネは、「危機は、経済成長がもはや無理だということを思い起こさせる機会だが、そうした時期には、人々が個人的な利益の外にまで目を向けなくなる傾向もある」と言う。またアリエスも、危機の両義性を指摘する。「一方では、エコロジー的な切迫感が先送りにされる。今は購買力と雇用を守らなければいけない、というわけだ。(・・・)その一方で、我々が何世紀にもわたって虚偽の上に生きてきたことが明らかになってもいる」。景気後退によって縮退への道が開けるとは思えない人々の間では、不安と希望がせめぎ合っている。

エリック・デュパン(Eric Dupin)「経済成長からの脱皮を思考する人々」 ─ ル・モンド・ディプロマティーク 2009年8月

 法律をごく素朴なイメージで捉えると、「○○しなさい」や「○○してはいけません」という、命令や禁止(否定的命令)を言い表す単純命令の集合体として捉えられがちになると思います。恐らく日常レベルでの法律実務においては、そのような理解でもさほど問題は生じないのでしょうし、裁判などを通じた特段の法律判断が必要とならないレベルでは、法律自体も単純命令として切り出されて読まれ利用されてもなるべく支障がないように組み立てられているようです。そのために法文の表現は誤解や多義性の生じる余地をなるべく減らすべく、あんなに持って回った言い方になったりもするのですが。
 でも、法律は「○○しなさい」「○○してはいけません」という単純命令の束だけに還元できるものではなく、法体系が全体として一つの合理的体系を形作ることを目指して構成されるものでもあります。
 私の理解している限りにおいては、“体系としての”近代的な法律とは、その社会が目指すべき究極目標としての「あるべき理想像」を、「もし完全な法則的秩序を人間社会が確立したらどうなるか」という形で書き表した理論的仮構物として提示してみせたものなのだろうと捉えています。恐らくこの発想はもともと、超越的な神だけがもたらし得る完全な秩序がこの地上に具現したら果たしてどうなるかを、合理的な体系的秩序たる「法」として構想しシミュレートすることで、不完全な被造物たる人間がそれでもなお可能な限り神の秩序の域へと近づいていこうとする、キリスト教的な(セム系一神教的な?)発想に端を発しているのではないでしょうか。
 法律は「○○しなさい」「○○してはいけない」を規定する一方で、その規定を逸脱する行為があった場合についても「○年以下の懲役または○円以下の罰金」みたいな感じで、やはり罰則規定を記しています。法は「○○しなさい」からはみ出した者を別に法の“外部”へと放逐・永久追放するわけではなく、「もし『○○しなさい』という規定を逸脱する者がいたら、その者には△△という罰則が適用される」という記述によって、逸脱状態をも含めた有り得る全状況をなるべく法の視野の中に収めようとするわけです(法実証主義を提唱したハンス・ケルゼンは実定法の基本形式を「AならばB」という仮言命法の形式であるとしています)。
 そして、このような包括的規定の体系によって、もしこの法に定められた「○○しなさい」という命令(または「○○してはならない」という否定的命令)が完全に満たされるとしたら、人間は神のもたらす完全な秩序にも等しい、いかなる軋轢も存在しない完全なる調和的・法則的な秩序を手にすることができるだろう……という究極の理想像を、体系としての法の全体は自らの追求すべき究極目標として含意しているのだろう(例えそれが現実的には決して完全な形で実現されることのない“永遠の夢”であったとしても)、と私は思います。

 法に照らした行為判断とは、法体系として表現された上記のような究極目標たる理想世界モデルに照らして、個々の行為主体の行為がどのようなものとして位置づけられるか(実務的には「どのように逸脱しているか」という形で位置づけられることが多いですが)を判断する行為であり、以前に書いた「標準モデル」の話とも共通します。冒頭のリンク先の話で言うなら、最高裁が行ったことは、法務省の行政処分「行為」を法体系という「標準モデル」の中で“位置づける”というものであり、しかもこの法体系(標準モデル)そのものに法務大臣の裁量権による特別許可があらかじめ内包されています。
 ただ、法律は極めて規範性が高く権力的な強制性をも伴った「標準モデル」であるため、モデルの構築や改定や実務的な運用を巡る問題が極めて公共的な重要性を帯びてきます。また、この「究極の理想像」が具体的にどのようなものであるべきかのビジョンは人によってまちまちでしょうし、また理想像を巡る大まかなコンセンサスも時代により場所により様々に変わってくるでしょう。法を巡る議論が、ある行為が適法か違法か、言いかえれば「○○してはいけない」という決まり事に即しているか否かという単純な行為判断の話に収まりきらないのは、「あるべき理想と現実」を巡る不特定多数の人間(しかもその場にいる人間だけでなくしばしば過去や未来をも含む)の様々な思想や価値判断や行為に、法体系が多面的な形で関わっているからです。

まち



 ブックマークコメントも結構いろんな意見が出ていて面白いので並べてみました。

 下北沢の話題については以前に私もちょっと紹介したことがありますが、こういう都市景観云々に関する私の考え方には、基本的に「こうあるべき」みたいなモノがないんですよね。消えゆくかもしれない“古き良き街並み”に対する哀惜の念が生じるのは当然だろうし、それは私自身にもあるのですが、でもそれって根本的には私一人の感じ方だし、他の人は同じ景観でもまた別のように感じるでしょう。間接的に紹介した東浩紀氏の言い方を借りるなら、「新しい世代は、もしかしてその高層建築物のある下北沢を「自分たちの街」と思うかもしれ」ないわけです。

ゆうべの東京タワー

イメージ 1 ゆうべたまたま見かけたので写メで撮った、低画質な東京タワー。
 同日のIOC総会で2016年の夏季オリンピック開催地が決定するということで、景気づけにオリンピック用のライトアップをしていたそうですが、どうやら五色タワーの御利益はなかったようです。

2016年五輪、リオデジャネイロで 東京、2回目投票で落選(2009/10/2)

 国際オリンピック委員会(IOC)は2日、コペンハーゲン市内で開いた総会で、2016年夏季五輪の開催地にリオデジャネイロ(ブラジル)を選出した。南米での開催は五輪史上初めてとなる。「環境五輪」を前面に押し出し、52年ぶり2回目の開催を目指した東京は1回目で22票と3位だったが、2回目の投票で20票で落選。1988年五輪に立候補した名古屋、08年五輪の大阪に続き誘致はならなかった。
 昨夏の1次選考を通過した立候補都市は東京、リオのほか、オバマ大統領の地元シカゴ(米国)、4年前に続いて名乗りを上げたマドリード(スペイン)。(07:09)

http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20091002AS1G0204X02102009.html

The Wyoming Incident

 ちょいと前にウラゲツブログさんが紹介していたこの映像。



「The Wyoming Incident」と呼ばれているこの電波ジャックっぽい映像、結論から言えば電波ジャックのように見せかけたフェイク映像らしいのですが、「一般放送の中にいきなりこんな映像が飛び出してきたらどうなる?」という、“異物の侵犯”チックなコンセプトは非常に面白いと思います。昔あった「GADGET」という映像ソフト(ゲーム?)を思い出しました。

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