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長野県・諏訪大社の「御柱(おんばしら)祭」での転落死事故を受け、祭りの事実上の中止を命ずる仮処分の申し立てに対し、最高裁は「特別抗告の事由に該当しない」として棄却した。決定は7月15日付で、申し立てた箱山由実子弁護士=東京都北区=は「国民が国家に対して生命尊重を求める権利があるのかないのかを、最高裁として判断を出してもらいたかっただけに、棄却理由に明記がないのは残念だ」と話している。
6年ごとに開催される祭りではほぼ毎回事故死者が出ており、今年も5月5日に大木を垂直に立てる「建て御柱」で、高さ15メートルの木の上部から氏子の男性(当時41歳)が転落死した。箱山弁護士は、祭りの度にけが人や死者が出るのは人命軽視に当たるとして、安全対策が講じられるまで境内の使用を禁じる仮処分を長野地裁諏訪支部に申し立てた。
諏訪支部は「申立人(箱山弁護士)には仮処分で守られるべき権利はない」などとして却下、即時抗告を受けた東京高裁も棄却した。このため、「生命や自由、幸福追求に対する国民の権利を尊重するとする憲法13条から導かれる『国家に対して生命尊重を求める権利』が国民にあり、犠牲者が相次ぐ祭りの中止を求める」−−などとして、5月16日に最高裁に特別抗告していた。
最高裁決定は、棄却理由について「違憲を言うが、実質は単なる法令違反を主張するもので特別抗告の事由に該当しない」とした。転落死事故を巡っては、箱山弁護士らが諏訪大社宮司を業務上過失致死容疑で告発、県警諏訪署が捜査している。
御柱祭は、氏子らを乗せた大木が急な坂を下る「木落(きおと)し」や、人が乗ったまま木を垂直に立てる「建て御柱」が人気で、今年は4月2日から5月16日までの間の12日間で約186万人が見物している。ただ、この半世紀近くでも1968、74、80、86、92、2010年に死亡事故が起きている。【照山哲史/デジタル報道センター】
これ「<諏訪大社「御柱祭」>特別抗告該当せず 中止申し立て棄却」と題した毎日新聞 7月23日(土)7時0分の配信記事である。
こんなの当たり前の話である。この弁護士少しおかしいのじゃないのかと思う。それだけじゃない。最近の弁護士、質が落ちたんじゃないか。確かに弁護士と言う職、裁かれる人間の利益を最大に考える事に依存は無い。がその前に法の下潔癖であるのも弁護士である。法に従う職である弁護士であるならばまず初めに人間であるべきである。先日の舛添前東京都知事の政治資金規正法違反か否かを第三者として検証した弁護士のように、第三者としての見解の前に、依頼人の受益優先する、第三者としての本分を捨てた者もいる現在である。この場合のこの箱山由実子弁護士は特別抗告する前に、お祭りとしての氏子参加は自己責任で行っている事を忘れた結果であり、どうしても意義があるなら、神社にすべきで、矛先がまるで逆であり、うがった見方をすれば、全ての責任は国にある事を印象付け、自己責任において事故に遭った者への補償闘争を有利にしようとの下心が丸見えである。日本のお祭りの風物詩である余興等は参加する者の自由であり、危険と思ったら参加しなければ良いだけである。それをあたかも間接的にでも他人のせいにするような訴えはむしろ常識に欠けるものと思わねばならない筈である。こんなの言語道断である。但し報道では解らない部分もあろうかと思われるが、それは勘弁して頂きたいと思っている。時には当事者でなければ知り得ない事である事を承知しての事である。
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裁判
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取り調べの可視化による録音・録画の存在と裁判員の日常感覚と常識が導いた判断といえる。
栃木県今市市(現日光市)で平成17年に起きた小1女児殺害事件で、殺人罪に問われた被告に、宇都宮地裁の裁判員裁判は、検察側の求刑通り無期懲役の有罪判決を言い渡した。
被告は捜査段階で殺害を自白したが、公判では無罪を主張していた。事件から殺人容疑での逮捕まで9年の歳月を要し、凶器が発見されないなど物的証拠に乏しく、裁判員らは極めて難しい評議を強いられた。
検察側は、犯行時の自動車ナンバー読み取り装置(Nシステム)の記録や、遺体に付着した猫の毛の鑑定結果などの物的証拠を積み上げたが、これらは判決でも「客観的事実のみから被告人の犯人性を認定することはできない」との評価にとどまった。
法廷では、検察、弁護側双方が同意した計7時間を超える録音・録画が再生された。
被告が殺害を自白し、犯行を再現する場面もあった。検事が声を荒らげるシーンもあり、弁護側は「自由意思に反した自白である」と主張していた。
裁判員らは供述内容の真実性、信用性を読み取るべく、長時間にわたる録画の生々しいやりとりを見続けた。そして詳細に検討し、「自白内容は犯人でないと語れない具体性と迫真性があり、十分信用できる」と結論づけた。
取り調べの可視化については当初、検察、警察の抵抗が強かったが、さまざまな試行により、供述の信用性の補強や過度の調書依存からの脱却に有効であるとするメリットも指摘されていた。
また裁判員制度は、国民の司法参加により、その日常感覚や常識を判決に反映させることなどを目的に導入されたものだ。
疑わしきは被告人の利益とする無罪推定の原則は職業裁判官と同様に厳守すべきだが、一方でこの説明を受けた上でなお、公判や評議を通じて有罪と信じるに足ると判断すれば、社会正義の実現に寄与しなくてはならない。
公判は判決まで16回を数え、予定された判決日も延期された。それだけ裁判員らが事件と真摯(しんし)に向き合い、苦しみ抜いて結論を導き出したということだろう。新証拠の発見などの事情を除き、裁判員の判断は尊重すべきである。
これ「女児殺害に無期 裁判員の判断尊重したい」と題した産経ニュース4月9日5:02の報道記事である。
本当にこれは重大事件の国民参加による判決であり画期的であり評価したい。「疑わしきは罰せず」で行けば冤罪を防ぐ意味でもこれ等は通常裁判では無罪だったと思われる。がしかしである。物理的証拠でのみ有罪ならしめる現行法は至極当たり前の事ではあるが、検察側の過度の思い込みや功名心がそれらを妨げ冤罪を生んできた事も事実である。被疑者の捜査や取り調べの可視化は、時の真を裁判員が生で見る必要性が生んだ判決である。
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認知症男性の家族に対する賠償責任が争われた裁判で、最高裁判所は1日、JR東海の訴えを退ける判決を言い渡した。男性の死亡事故による振り替え輸送にかかった費用などは、JR東海の持ち出しとなる。
認知症の老親を持つサラリーマンにとっては、他人事と思えない裁判だった。午後の判決言い渡しが気になって、仕事が手につかなかった人も多かったのではないか。
認知症やその疑いがあり、徘徊などで行方不明になる高齢者は年間1万人を超える。警察庁によると、2014年には、不明者の429人が死亡していた。今回のケースのように、線路に立ち入り人身事故を起こしたケースも、この10年で130件以上発生している。家族がちょっと目を離したスキにいなくなり、列車を止めてしまうケースは、決して珍しくないのだ。
家族側代理人の弁護士は、同じように認知症患者を抱える人たちにとって、「判決は救いになった」と強調した。むろん、「責任あり」となっていれば、在宅看護をバンザイせざるを得ない人たちが続出したかもしれない。「画期的な判決」(代理人弁護士)と評するのも分かる。
だが、実際に今回の判決で救われたのは、この家族だけだ。認知症患者を抱える人たち全員が救われたわけではない。
■人を殺した場合も責任はない?
全国介護者支援協議会の理事長・上原喜光氏が言う。
「判決は、“認知症の人が起こす全事故について家族は責任を問われない”としたわけではありません。今回に限って例外が認められたに過ぎないのです。一般に認知症の人は、体に障害を抱えているわけではありません。カギが掛かったドアを自分で開けて外出できます。肉体はピンピンしているから、自転車にも乗れるし、歩行者と接触事故を起こす危険性もある。それでケガをさせたり、死亡させたりしたときも、今回のように“責任なし”が許されるのか。企業ではなく個人が相手でも同じなのか。今回の判決は、それらの問題についても、何ら示していないのです」
認知症患者の中には、夜間譫妄を起こす人もいる。これも家族にとっては深刻な問題だ。
「幻覚や妄想などの精神障害です。私の身内も、夜中に目を覚ましたときに包丁を持ち出して、“変な人がいる”と暴れたりしました。場合によっては、刃傷沙汰に発展する危険性だってあるのです」(上原氏)
列車事故などの場合、自動車保険や火災保険の特約である「個人賠償責任保険」で対応できる可能性もある。だが、殺人の賠償金をカバーする保険などない。
「今回の判決をきっかけに、国も自治体も国民も、認知症対策の在り方について真摯に考えるべきです。たとえば現在は、ひとりでお風呂に入れる認知症の人も、脳梗塞などで歩くのも食べるのも難しいような後遺症が残る人も、同じ介護の枠組みの中でごた混ぜになっています。本来は、五体満足の認知症の人は“精神介護”、体が不自由な人は“身体介護”と分けるべきなのです。その上で、それぞれでどんな介護が必要なのか、マニュアルを作り直す。不幸な事故や事件に対しても、社会全体で支えられるような取り組みを考えなければダメです」(上原氏)
判決は出た。だが、認知症の老親を抱えるサラリーマンの苦悩は、まったく解消されていないのだ。
これ「JR事故訴訟 「賠償責任なし」でも救われぬ認知症患者の家族」と題した日刊ゲンダイ3月3日の記事である。
もし私がこのような認知症患者の家族だったら、本当に喜んだろうが、もしこのような列車事故じゃなく殺人を犯してしまったのなら、おとがめなしでは終わらないだろう。見方を変えた加害者被害者が逆転してしまう。我々人間はズルイ。当事者から第三者では見方考え方が180度違ってしまう。これらと関連し、法律の不公正と不合理いつも思う事しばしばである。この場合のJR東海等被害者なのに泣き寝入りだ。また同じ債権者でありながら民法で言う個人の自己破産の場合も同じである。善意で貸した者も泣き寝入りである。しかもこの自己破産、裁判所も物件が数あり、忙しく深考しないのか、破産の経過までは考慮してないように見受ける。何故なら同じ破産でも、苦労して苦労してやったにも拘らず出来ない事柄や、仕事もせず女にうつつをぬかして借金した負債も同列に扱っているからである。これら等本当に法の不公正・不合理と言わざるを得ないからである。私はこう言う事に非常に欺瞞を感じる性質(たち)である。ああイヤダ!
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