神の温度の神学 断章

心に浮かんだことを書き留めるために書いています。

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断章24 沈黙

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横浜家系ラーメンが美味しい。
でも、この美味しさを言葉で表現できたら味覚なんていらない。
そんなことできたら、言葉で表現すればいいという話になってしまう。
中学生の音楽の時間に、「美しきドナウ」の音楽鑑賞をして、感想を書かねばならなかったとき、本当に困った。
ドナウ川の流れを想像しようにも、目を閉じて「美しきドナウ」を聴くとバレリーナがその曲に合わせて踊っている姿しか思い浮かばない。
何とか文章にして提出すると、評価がB(真ん中)であったのを覚えている。

感性を言葉にしようとするとき、むしろ感性がとらえたものは壊されてしまう。
高校受験では面接試験があって、面接官の問いにちゃんと答えられるか否かが評価されます。
でも、それって口べたか否かの違いだけのようにも思える。

たとえば、「わたしはあなたを愛している。」と恋人に言うとき、「その根拠は?」と問われたから、あれこれと好意を持っている理由を述べたけど、説得力がないからといって「あなたの愛は不足している!」と判断されてしまったということにはならない。
言葉なんて要らない。
「愛している。」だけでいい。
もし「その根拠は?」と聞かれたら、「ボクが君を愛するのに理由なんているか?」とカッコよく言い返せればいい。

聖書を読むのに釈義だ解釈だとやり過ぎているから、反対に聖書が分からなくなってしまう。
私はビュン・ジェーチャン氏のもとでディボーションの学びを受けたのだけど、そこではディボーション雑誌で指示された聖書箇所で言葉を拾って行くのです。
神は何と言っているか? イエスは何と言っているか? 聖霊は何と言っているか?
それと反対のこと、つまり悪魔は何と言っているか? などを拾い出していく。
そのようにして意図的な視点を取ってみることで、聖書をよりさまざまな視点から見て発見を得ていくということなのだろう。
そして、その日に強く印象付けられた聖書箇所があれば、「適用」ということをする。
聖書を読んで終わりにするのではなく、日常で実践をするのだという。
 
私はこのディボーションの仕方に、最初からうんざりで、ひどい読み方をさせるものだと思っていました。
無理に「適用」なんてする必要もない。
もちろん、当時私は真面目だったから指導された通りにある程度まではやりました。
でも、聖書というのはそんな読み方をするものではありません。

じっくり読んだり、さっと読んだりで構わない。
悩みながら読んでも構わない。
その日、何も心に留まる箇所がなくても構わない。
導かれるままに読む。
牧師であるからとか、神学生であるからとか、メッセージを用意するからとか、関係ない。
御心を知りたいとおもって読めば、神さまは語りかけてくださるし、聖書の言葉が私自身を生かしていることに気づかされます。
その日読んだ箇所ではなく、一カ月前に読んだところが思い起こされることもある。
突然、今の通読箇所と関係ないところが示されることもある。
聖書の読み方はもっとダイナミックでいい。
むしろ、もっとインスピレーションを大切にして、心を解放して、本気で信じてまるごと受け取る。
 
むりに文章に起こす必要なんてないです。
み言葉を前に、ただ沈黙を要求されることだってあるのだから。
私もそうだけど、言葉にとらわれすぎてしまうと本質が見えなくなってしまうことがよくあるので、気をつけないといけない。

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