神の温度の神学 断章

心に浮かんだことを書き留めるために書いています。

断章

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5世紀ごろの偽ディオニュシオスという神学者が、否定神学などという面白いものを教えてくれている。
彼に言わせれば、神さまは否定「〜ではない。」を通してでなければ表現できないのだという。
 
私はよく「そんなワケねーだろ!」と言う。
でも、これが私を詐欺や騙しから救ってきた。
 
イエスさまがそんなこと言うワケがないのに、平気で「聖書にこう書いてある。」「御心だ!」と語ってみせる人があまりにも多い。
あのね、イエスさまがそんな事を言うワケがないことくらい、判るでしょ?!
立派な牧師や偉い指導者が言ったからって、どうして信じるんだ???
イエスさまはそんな方じゃないよ。
 
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ポリュカルポスという使徒教父がいます。
彼は86歳の高齢で火あぶりとなって殉教しました。
皇帝から棄教すれば解放するという条件が出されたとき、ポリュカルポスは皇帝に言いました。
「これまでの間、キリストは何一つ私を裏切らず、良くしてくださった。
今、どうしてこの方を私が裏切ることができましょうか。」と。
 
私はこういう人物から福音メッセージを聞きたい。
口下手でいい。
勢いがなくて、片言でもいい。
本当にキリストに生きた人間から、生きた真実なる一言でいいから聞きたい。
 
キリスト教界は若いカリスマリーダーを求めたりもするけど、私はその逆です。
ある教団の牧師が[牧師は50歳を過ぎたら引退を考えねばならない]と語っていたときは、憤りすら覚えました。
牧師なんていうのは、60歳を過ぎて初めて本当の意味で人生を負って福音メッセージを語ることができる。
それまではガキです。
 
私たちは真実にキリストに生きた人物から、もっと話を聞く必要がある。
私も含めて、勢いで語っている奴はこの世界ではまだガキです。
 
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中世の単旋律の賛美、ラウダを歌うときに、
毎回注意されるのは、賛美の終わりの時です。
最後はフェードアウトしないで終わるのです。
トーンが下がらない。
むしろ、トーンが上がり、力を増すのです。
閉じないで、開くのです。
この賛美はそこで終わりなのだけど、そこで終わらず、そこから始まります。
人間の口から天使たちの口に引き継がれ、天の御国で鳴り響くのだそうです。
 
他の人のブログ記事を読んでいて、つまらないなあと思うのは、記事がその記事で完結してしまっているときです。
「神さま苦しいです。つらいです。でも神さまはにあって私は強い!生かされている恵みを感謝します!」となると、がっかりする。
反対に面白いなあと思うのは、その文章が解決をしないまま、叫びのままに終わっているときです。
「神さまは、どうしてだよ!何でこんな目にあわなくちゃならないんだよ!」と語るならば、
その文章は終わっていない、むしろそこから始まっている。
叫んでいる。
連続している。
神さまに閉じて完結してしまっているのではなく、神さまに向かって開かれて崩壊しているとき、
文章が人間らしくて、生きているように思える。
 
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断章25 空き家

マタイ12章42ー45節には、きれいに整理され片付いている空き家に、悪霊が仲間を連れて住みつく話がある。
あれはダメ、これはダメと正義や道徳でクリスチャンらしい立派な生活を歩もうとすると、
パリサイ人や律法学者たちのように内側が空き家になってしまう。
とかく、中身がない人間は外側を一生懸命に飾ろうとする。
そのようにして、何か立派になろうと自分自身を形作ろうとする。
 
しかし、私たちの内側は空き家となってはならない。
私たちの内側が聖霊の生きた現場となりますように。
御霊をお迎えすること、御霊に明け渡すこと、御霊が自由に働いて下さること。
そのとき天の御国が私たちの内にある。
私たちの人生は主への感謝と喜びが満たされなかで始めて形作られるものがある。
それが神の栄光。
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断章24 沈黙

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横浜家系ラーメンが美味しい。
でも、この美味しさを言葉で表現できたら味覚なんていらない。
そんなことできたら、言葉で表現すればいいという話になってしまう。
中学生の音楽の時間に、「美しきドナウ」の音楽鑑賞をして、感想を書かねばならなかったとき、本当に困った。
ドナウ川の流れを想像しようにも、目を閉じて「美しきドナウ」を聴くとバレリーナがその曲に合わせて踊っている姿しか思い浮かばない。
何とか文章にして提出すると、評価がB(真ん中)であったのを覚えている。

感性を言葉にしようとするとき、むしろ感性がとらえたものは壊されてしまう。
高校受験では面接試験があって、面接官の問いにちゃんと答えられるか否かが評価されます。
でも、それって口べたか否かの違いだけのようにも思える。

たとえば、「わたしはあなたを愛している。」と恋人に言うとき、「その根拠は?」と問われたから、あれこれと好意を持っている理由を述べたけど、説得力がないからといって「あなたの愛は不足している!」と判断されてしまったということにはならない。
言葉なんて要らない。
「愛している。」だけでいい。
もし「その根拠は?」と聞かれたら、「ボクが君を愛するのに理由なんているか?」とカッコよく言い返せればいい。

聖書を読むのに釈義だ解釈だとやり過ぎているから、反対に聖書が分からなくなってしまう。
私はビュン・ジェーチャン氏のもとでディボーションの学びを受けたのだけど、そこではディボーション雑誌で指示された聖書箇所で言葉を拾って行くのです。
神は何と言っているか? イエスは何と言っているか? 聖霊は何と言っているか?
それと反対のこと、つまり悪魔は何と言っているか? などを拾い出していく。
そのようにして意図的な視点を取ってみることで、聖書をよりさまざまな視点から見て発見を得ていくということなのだろう。
そして、その日に強く印象付けられた聖書箇所があれば、「適用」ということをする。
聖書を読んで終わりにするのではなく、日常で実践をするのだという。
 
私はこのディボーションの仕方に、最初からうんざりで、ひどい読み方をさせるものだと思っていました。
無理に「適用」なんてする必要もない。
もちろん、当時私は真面目だったから指導された通りにある程度まではやりました。
でも、聖書というのはそんな読み方をするものではありません。

じっくり読んだり、さっと読んだりで構わない。
悩みながら読んでも構わない。
その日、何も心に留まる箇所がなくても構わない。
導かれるままに読む。
牧師であるからとか、神学生であるからとか、メッセージを用意するからとか、関係ない。
御心を知りたいとおもって読めば、神さまは語りかけてくださるし、聖書の言葉が私自身を生かしていることに気づかされます。
その日読んだ箇所ではなく、一カ月前に読んだところが思い起こされることもある。
突然、今の通読箇所と関係ないところが示されることもある。
聖書の読み方はもっとダイナミックでいい。
むしろ、もっとインスピレーションを大切にして、心を解放して、本気で信じてまるごと受け取る。
 
むりに文章に起こす必要なんてないです。
み言葉を前に、ただ沈黙を要求されることだってあるのだから。
私もそうだけど、言葉にとらわれすぎてしまうと本質が見えなくなってしまうことがよくあるので、気をつけないといけない。

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