新潟県北部の史跡巡り

新潟県北部の史跡を紹介しています。

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胎内市乙の乙宝寺は寺伝によれば天平8年(736)に聖武天皇の勅願により北陸一帯の安穏を祈願し、

婆羅門と行基の二高僧が建立したという。

本寺の創建に関連して「乙宝寺縁起絵巻」(重文)があり絵と詞で記録されており

貞和年間(南北朝時代)に書かれ、源武清が所蔵していたものを江戸時代の画家・谷文晁他が

文化7年(1810)模写したものであるという。

縁起の検討から天平8年創建、安元2年(1176)再建された事がわかるという。 (http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/31164994.html )

縁起には礎石から仏舎利が発見された事が記載されている(。

時の権力者越後守城資永とその伯父の宮禅師保護下の寺の歴史が読み取れる。

昭和12年大日如来、薬師如来(国宝)を安置する大日堂を火災で消失。

檀家を中心ににより再建の動きがあり、再建に伴い新潟県教委員会により調査が行われた。

乙宝寺は新潟県の北部、海岸砂丘が弧状に連なる東側斜面に立地している。

標高6m。江戸時代に飯豊山地を水源とする旧胎内川(現大日川)が砂丘後背地を

縫うように北流している。

旧大日堂は当時の仮本堂が建てられていた場所にあり、

かなり礎石などが露出していた。調査は露出していた礎石の実測、基壇の版築の有無に

焦点に調査が実施された。以下要点をかいつまんで紹介する。

出土遺物として江戸時代の寛永通宝3点、和釘4点、銅製仏具片3点、

木炭少量がある。何れも被熱痕があり、地表面に近い黒灰色から出土している。

旧大日堂の基壇は前面31m、側面29.1mを測る。市内で産出した羽黒石を前面、側面に半ば位まで

二段にわたり積まれている。

東側面は西側面より緩傾斜で周囲の地表面とさほどかわりない。

本来両側面、裏面の区画はもっとしっかりしていたと考えられているが

昭和12年の火災消失時の後始末等で不明確になったらしい。

旧大日堂裏面は砂丘崖に面している。旧地形は砂丘斜面が北西から南東に

傾斜した地形であったという。造営に際し背後の砂丘崖を切り崩し前面に土砂を搬出した

結果前面のみがある程度高くなったと思われるという。

基壇には版築は認められない。

礎石は基壇上に配置され桁行15間、梁行14間2尺を測る。礎石は花崗岩で礎石の上面は

平坦に加工されている。昭和12年の火災で被熱痕があり、中には割れているものがある。

旧本堂の建築年代を示す資料は検出されなかったが本堂については

延享2年(1744)修築と言われている。礎石の配置から内陣と外陣に区画され内陣の

奥に須弥壇が設けられ、その前面に鏡縁、鏡縁の奥の両側に余間が、そして廊下が巡る。

礎石の配置から中世よりも近世のものと考えられている。

写真上から(再建された大日堂)(大日堂跡礎石模式図・・・「おくやましょう」8号より)(旧胎内川・・・大日川)

引用参考文献
「おくやましょう」8号 中条町郷土研究会

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