新潟県北部の史跡巡り

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取上観音/阿賀町

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取上観音は、国道49号線沿いにあり、

阿賀野川右岸の同川を見下ろす小高い場所にある。

春は新緑、秋は紅葉が美しく、

本堂の彫刻が見事で交通の便も良い事から参拝者が多い。

丁度、近くを車で通過した時本堂前に由来記が書かれたパンフレットが置いて

あったので参考にしながら紹介する。

それには次のような由来記が記載されている。

「五十代桓武天皇の御子、葛原親王五世の孫=三浦大輔義明の七男に

佐原十郎義運がいる。

その家臣に小田切弾正忠義がおり、この忠義が「取上観音」を創立した。・・・(中略)

義運は数々の戦功を立て、文治元年(1189)奥州藤原泰衡を征服し

右大将源頼朝に従って義仲を誅し、

平氏を滅ぼし大蛇を退治したりしたので奥州三州を賜った。

義運は会津黒河に城を築き、当時の越後国蒲原郡山渡村(現取上村)は

軍事上の重要拠点であったので城を築き、

小田切忠義を守備につかせた。忠義は武運長久と子孫繁栄を祈願し、

観音像を日向山の上に安置した。

取上には次のような伝承がある。

「・・・建暦2年(1212)の頃、和田義盛の三男朝比奈三郎義秀が

身体の弱小なるを嘆き、この地に至り尊像を拝し37日の祈願を決意し籠った。

一心不乱でお経を読み21日目の夕方になり、

急に紫雲が四方を覆い、地響きと共に尊像が目前に現れ、

「汝、義秀よ誠心誠意を持って祈る義秀の気持ちを感じいったぞ。

今こそ天下無敵の勇気を授ける、

もし疑うのなら川の中の石を持ってみよ」と言われたと思ったところ

夢の中の話であったという。もしやと思い、

河原に下りて水中を眺めたところ1個の大きな石があり、

疑いながら持ち上げたところ、

その石の軽い事に驚き、義秀はその霊験あらたかさを感じ、

その石を取上げて近くの岩の上に置いたという・・・」

それから、「取上」とその場所を呼び今もそう呼んでいるという。


普通の石であれば急流で流される石であろうが、

この石は流される事もなくこの場所のとどまったという。

嘉吉2年(1442)、世の中が乱れ小田切氏は滅ぼされ一族、

親族みな滅びこの場所には誰もいなくなった。

次第に本堂は荒廃していった。
永禄元年(1558)河内国府に石川孫八、石川太郎左衛門という者がいて、

この地に巡業しながらやって来た。

二人は諸国を巡拝し旅をしていて、


この地にやって来たところ荒廃した本堂、菩薩を拝んだところ

本尊が悲嘆にくれた表情でいたので、

哀れさを感じ二人は本尊を背負い麓まで下りて里の者に相談した。

その結果、修復を加え奉納する事にし、


京都の仏工・一運という者に送り修理を依頼した。

一運はよくよく本尊を眺めると

「これは、行基菩薩により彫られたもので、権威あるものである。

我々のような仏工の手で修復するものではない。

速やかに清浄の地を探し堂宇を建立して安置さえすれば尊体は元のように

肉を生じ、自ら輝きをはなつだろう」という手紙を添えて返還した。

そこで、孫八は1棟の堂宇を建立して、

自分も永住の地と定めた。

宝永元年(1704)、あまりにも堂宇に行くまでの道が狭く、

急な登りであった為、参拝の便を図り本堂を麓に移した。

明治8年火災により堂宇焼失。

本堂中に「小田切日向守忠義戒名を記した位牌を安置している。

「慈獄院殿前取府藤原朝臣昇政向大居士」

祭礼、毎年1月17日、8月17日に行われる。

観音堂は明治8年から3年を費やして、

長嶺金次郎(阿賀野市・・旧笹神村)によって建築され、

建物はケヤキ作りである。

建物には50点以上の彫刻があり、此処に伝説の込められたものである。

正面の彫刻には
「母が病に倒れ冬のある日に、筍を食べたいと言ったので、

子供は雪の降る時蓑笠をかぶり

竹林に行くと筍が生えていたので、

それを母に食べさせたら病気が治った」という。




新編 会津風土記
此村何ノ頃ニカ小田切日向ト云フモノ懇発セシ所トイフ・・・

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ご由緒をありがとうございます。
切り立った崖の急な階段を登った所にある、ちいさな堂宇ですけど、いたるところに彫刻が施されていて、驚きました!
車を反対側に置いたので、交通量の多い道を渡るのがちょっと怖かったのを覚えています。傑作です。

2008/9/27(土) 午前 11:23 nobikit 返信する

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コメントありがとうございます。そうですね、横断歩道があれば、参拝する人も安全だと思います。
取上観音の近くに、この記事の中に出てくる「当時の越後国蒲原郡山渡村(現取上村)は、軍事上の重要拠点であったので城を築き、小田切忠義を守備につかせた」とある城と関係あるかわかりませんが、近くに城が文献に紹介されているので、いつか紹介したいと思います。

2008/9/29(月) 午前 9:41 ぽんぽこ 返信する

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