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「戦争と平和」は言わずもがな、ロシア文学の超大作である。
タイトルを「戦争と平和」にせず、あえて外したのはとてもとても私ごときにあの大作のあらすじ、感想など書けそうもないからであり、あと致命的なことに手元に本がないので、とりとめのないこと以外書きようがないからである。
戦争と平和…について思う私の底浅い想いみたいなものを少し書いてみようかと思います。
トルストイはツルゲーネフと共にどこかドストエフスキーなどと比べ、日本では軽い扱いを受けている気がするのはなぜだろう。
村上春樹さんの小説によると「戦争と平和」には不毛さが欠如しているらしい。
これは春樹さんの意見なのだろうか。
そしてドストエフスキーに不毛はあるのだろうか。
あるような気がするがそれを文章に書く技量をわたしは持ち合わせてはいない。
混乱するだけで答えは出ないのだ。
この物語を知るには、まず19世紀ロシアの時代背景は言うまでもなく、フランスとの関係、キリストの問題・・・・ロシア正教、フリーメイソン、,ロシア的なもの・・・これらの者を前知識で踏まえた上で読まなければ、私なんかは迷宮に迷い込むことになる。(でも一切勉強しませんでした)
ロシア的なものについてはたとえばムインシュキン公爵の「白痴」。
ロシアに帰りたがっているとある婦人は「あなたがたのヨーロッパなんてものは幻想ですよ」という。
これが小説の結びの一文である。
また「戦争と平和」ではナターシャがロシア民謡を愛らしく踊るシーンに「僕の妹!彼女こそ実にロシアそのものだ・・」と兄ニコライは感激する。
ロシア的なものって果たして何なのだろう???。
このようにさまざまな疑問が頭をめぐるが、それを差し引いてもこの小説は壮大な一大ロマンである。
卑俗な貴族、虚栄の世界の夫人や娘たち、傷ついた兵士、荒んだ青年兵士、誇り高く冷酷な貴族の青年。
登場人物は多岐にわたる。
ピエールと決闘する実に不快な青年として描かれていたドーロホフが、せむしの母を天使と慕い、足の悪い妹を気遣う貧しい青年だったと知り、不覚にも決闘後のシーンには涙が出た。
ナポレオンと対比して描かれる人間味あふれるクトーゾフ将軍も情に熱く忘れ難い。・・・・細部に至るまで人間描写が素晴らしい。
そしてなんといってもピエールの人間としての心の豊かさ美しさ!
アンドレイとピエールは時に哲学的な会話も交わすが、並行線である。ただし本質に流れるものに同じものを感じる二人は互いに熱い友情で結ばれている。
この小説は、単なるロシア賛美に終わらない。一見、宮廷の金と欲。虚飾に満ちあふれた貴族のサロンの世界(ニヒリスト、アンドレイ公爵はそれを軽蔑し憎んでいる)と戦場を対比させて描いている。
といっても戦場の世界こそ醜く、フランス英雄ナポレオンの言葉は空虚であり、戦場も虚飾にまみれた宮廷サロンも人間の世界に変わりはないのである。
あの有名な「ねぇ、ソーニャなんてすばらしい夜なのかしら!」とバルコニーにたたずみ感動に涙ぐみながら夜のとばりに心震わせるナターシャは可憐で素晴らしい。
そしてアンドレイ公爵は1階でそれを盗み聞きしている。
恋の始まりである。
白夜のこのシーンは幻想的で好きだった。
そして宮廷世界から逃げるように戦場へ旅立ったアンドレイは負傷する。
その時、草地に横たわった彼が空を見上げながら「すべては無だ。すべては空虚だ、この青い空のほかは・・」と呟くシーンに心奪われた。
冷たくどこか諦念していながら、時折ふと青年らしい熱情も持ち合わせるアンドレイ公爵の魅力にに恋していた私は、彼のこの台詞にめぐりあえただだけでもこの本を読んでよかったと思ったものだ。
しかし最近さらっと再読し、蒼い時に読んだ印象とかなり感想は変わっている自分に気がついた。
それらのシーンは無論素晴らしいのであるが、私が立ち止まらされたのは、アンドレイ公爵の死のシーンだった。
映画とも比較してみた。
ナターシャの裏切りを、死を間際にしたアンドレイが「I LOVE YOU」の許しの言葉と共に旅立っていく。これがヘップバーンのハリウッド版である。ヘップバーンは美しくいかにもハリウッドらしい。
原作もアンドレイ侯爵はナターシャを許す。、愛。。平穏な日々が束の間おとづれる。
命の再起、生に期待をも持つ。
ただしある時アンドレイ公爵は、死の世界と完全に対峙し向き合ってしまう。
そうなると愛する女性より、死への扉にしか心が向かず彼女にもにわかに冷たくなる。純粋な彼女には意味がわからない・・
ハリウッド版では割愛されていたが、ロシア版では、このアンドレイの心象を幾層ものカーテン・・死への扉をアンドレイが開いていく・・という幻想的なシーンで表現されていた。
宗教をもたない私にはこのシーンは難解である。なのに何故私は、このシーンが印象に残るようになったのだろう。。
近年、わたしは近親者の死を経験した。
年齢を重ねたせいか、幼少期に経験した祖父母らの死とは違い、いまだにそれがうまく消化できてはいない。
ただ「死」というものは、それを間近にしたときは、その本人以外の他者には絶対にどうしても踏み込んで行けない一線があるーということだけはつぶさに感じている。
そして私はその思いをアンドレイ侯爵の死と重ねあわせたのかもしれない。
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