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謹賀新年

明けましておめでとうございます。
あれこれ用事を振られるばかり。年末年始はバタバタしご挨拶が遅くなってしまいました・・・。
今年もどうぞよろしくお願いします!(ペコリ)

ちなみに私のこのブログを知っているリアルな人は二人います。
一人は、本にもブログ自体にも興味がないような人なので、私のページも真面目にはあまり読んでくれてはいない様子なのですが、もう一人は「無理して書いてる感じがする。これでは続かないのでは」とのこと。
真実の私を知っている人の意見だけにカックン。
確かに言われてみれば、きっと皆さんに書き流しているように思われているような、大して長くもない私のこのへなちょこ感想文。(&エッセイ)
これでも実はああでもない、こうでもない・・・って試行錯誤してアップしているんです。
その人の言うように無理してるのかも。

今年はしばらく感想は短めに、「こんな本を読みました」的な短い紹介ブログになってしまうかもしれません。
もちろん時折、長い感想も書くつもりですが。。。あと私が昔読んだ古い文学中心って路線は変えません。
更新も去年よりは間が空くかもしれませんが細々と続けられたらと思っています。

そんなこんなですがよろしくお願いいたします。

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「戦争と平和」は言わずもがな、ロシア文学の超大作である。

タイトルを「戦争と平和」にせず、あえて外したのはとてもとても私ごときにあの大作のあらすじ、感想など書けそうもないからであり、あと致命的なことに手元に本がないので、とりとめのないこと以外書きようがないからである。

戦争と平和…について思う私の底浅い想いみたいなものを少し書いてみようかと思います。

トルストイはツルゲーネフと共にどこかドストエフスキーなどと比べ、日本では軽い扱いを受けている気がするのはなぜだろう。
村上春樹さんの小説によると「戦争と平和」には不毛さが欠如しているらしい。
これは春樹さんの意見なのだろうか。
そしてドストエフスキーに不毛はあるのだろうか。
あるような気がするがそれを文章に書く技量をわたしは持ち合わせてはいない。
混乱するだけで答えは出ないのだ。

この物語を知るには、まず19世紀ロシアの時代背景は言うまでもなく、フランスとの関係、キリストの問題・・・・ロシア正教、フリーメイソン、,ロシア的なもの・・・これらの者を前知識で踏まえた上で読まなければ、私なんかは迷宮に迷い込むことになる。(でも一切勉強しませんでした)

ロシア的なものについてはたとえばムインシュキン公爵の「白痴」。
ロシアに帰りたがっているとある婦人は「あなたがたのヨーロッパなんてものは幻想ですよ」という。
これが小説の結びの一文である。
また「戦争と平和」ではナターシャがロシア民謡を愛らしく踊るシーンに「僕の妹!彼女こそ実にロシアそのものだ・・」と兄ニコライは感激する。

ロシア的なものって果たして何なのだろう???。

このようにさまざまな疑問が頭をめぐるが、それを差し引いてもこの小説は壮大な一大ロマンである。

卑俗な貴族、虚栄の世界の夫人や娘たち、傷ついた兵士、荒んだ青年兵士、誇り高く冷酷な貴族の青年。
登場人物は多岐にわたる。
ピエールと決闘する実に不快な青年として描かれていたドーロホフが、せむしの母を天使と慕い、足の悪い妹を気遣う貧しい青年だったと知り、不覚にも決闘後のシーンには涙が出た。
ナポレオンと対比して描かれる人間味あふれるクトーゾフ将軍も情に熱く忘れ難い。・・・・細部に至るまで人間描写が素晴らしい。


そしてなんといってもピエールの人間としての心の豊かさ美しさ!
アンドレイとピエールは時に哲学的な会話も交わすが、並行線である。ただし本質に流れるものに同じものを感じる二人は互いに熱い友情で結ばれている。

この小説は、単なるロシア賛美に終わらない。一見、宮廷の金と欲。虚飾に満ちあふれた貴族のサロンの世界(ニヒリスト、アンドレイ公爵はそれを軽蔑し憎んでいる)と戦場を対比させて描いている。
といっても戦場の世界こそ醜く、フランス英雄ナポレオンの言葉は空虚であり、戦場も虚飾にまみれた宮廷サロンも人間の世界に変わりはないのである。


あの有名な「ねぇ、ソーニャなんてすばらしい夜なのかしら!」とバルコニーにたたずみ感動に涙ぐみながら夜のとばりに心震わせるナターシャは可憐で素晴らしい。
そしてアンドレイ公爵は1階でそれを盗み聞きしている。
恋の始まりである。
白夜のこのシーンは幻想的で好きだった。

そして宮廷世界から逃げるように戦場へ旅立ったアンドレイは負傷する。
その時、草地に横たわった彼が空を見上げながら「すべては無だ。すべては空虚だ、この青い空のほかは・・」と呟くシーンに心奪われた。
冷たくどこか諦念していながら、時折ふと青年らしい熱情も持ち合わせるアンドレイ公爵の魅力にに恋していた私は、彼のこの台詞にめぐりあえただだけでもこの本を読んでよかったと思ったものだ。


しかし最近さらっと再読し、蒼い時に読んだ印象とかなり感想は変わっている自分に気がついた。
それらのシーンは無論素晴らしいのであるが、私が立ち止まらされたのは、アンドレイ公爵の死のシーンだった。

映画とも比較してみた。

ナターシャの裏切りを、死を間際にしたアンドレイが「I LOVE YOU」の許しの言葉と共に旅立っていく。これがヘップバーンのハリウッド版である。ヘップバーンは美しくいかにもハリウッドらしい。

原作もアンドレイ侯爵はナターシャを許す。、愛。。平穏な日々が束の間おとづれる。
命の再起、生に期待をも持つ。
ただしある時アンドレイ公爵は、死の世界と完全に対峙し向き合ってしまう。
そうなると愛する女性より、死への扉にしか心が向かず彼女にもにわかに冷たくなる。純粋な彼女には意味がわからない・・

ハリウッド版では割愛されていたが、ロシア版では、このアンドレイの心象を幾層ものカーテン・・死への扉をアンドレイが開いていく・・という幻想的なシーンで表現されていた。

宗教をもたない私にはこのシーンは難解である。なのに何故私は、このシーンが印象に残るようになったのだろう。。

近年、わたしは近親者の死を経験した。
年齢を重ねたせいか、幼少期に経験した祖父母らの死とは違い、いまだにそれがうまく消化できてはいない。

ただ「死」というものは、それを間近にしたときは、その本人以外の他者には絶対にどうしても踏み込んで行けない一線があるーということだけはつぶさに感じている。

そして私はその思いをアンドレイ侯爵の死と重ねあわせたのかもしれない。




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三島由紀夫の「鏡子の家」を読みました。

恐ろしくももの哀しいフェリーニの「甘い生活」という映画があるけれど、三島由紀夫は「鏡子の家で僕の甘い生活を書きたかった」と語っていたらしい。

この本は鏡子という名門の女性の住む館に、新進日本画家、年若い美貌の役者、ボクサー、エリート商社マン・・・といった人間達が集うサロンを中心に物語は進む。

美しくも享楽的、退廃的なこの世界にこっそり忍び込み眺めていたいような、そんな気持ちに駆られる。

現代もどこかでこういったサロン的な集いは繰り広げられているのだろうけれど、それはこの鏡子の家の集いに比べ、はるかにもっと屈託のないものであるように思う。

戦後十年という時代背景もあいまってかこのセレブリティーの集いにはどこか陰鬱としたものを感じずにはいられなかった。

彼らは何を目的とし、集うことで何を求めていたのだろう・・・。

映画「甘い生活」を既に観ていたせいか、私にはこのサロンを支配している陰鬱なもの、それは「死」そのものであるーという気がした。

死の雰囲気に魅せられた人間達が集っていたのではないだろうか。

世界の滅亡を信じるエリート、体を鍛え上げた後心中する俳優、手を負傷するボクサー・・。

青年画家は絵が描けなくなり精神が破綻する。


そしてこの小説で三島由紀夫は「愛し合っていないということは何と幸福だろう。なんて温かみのある事態なんだろう」と書いている。

こう書くことでこの小説は完璧なものとなっている(ように思う)。

でも果たしてこれはこの作者の本質なのだろうか。

彼は男性らしさ、強さを具現化したような作家であるが、ある女優との対談では「僕はもし好きな人ができたら好きだ、好きだって言える人間だよ」と語っている。

そして小説よりは人間味が感じられる「不道徳教育講座」等の随筆。

このあたりに意外に彼の本音が多少隠れているのではないだろうか。


そのようなことを考える時、この「鏡子の家」に限らずどの作品を読んでいても、三島由紀夫とはいつも何か私の心を切なくさせる作家なのである。

三島由紀夫

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三島由紀夫の「沈める滝」が図書館にあった。
初めて聞くタイトルだけど借りてみることにした。

三島由紀夫・・というと今まで読んだものは、「仮面の告白」「金閣寺」「憂国」「鏡子の家」「潮騒」「美徳のよろめき」「永すぎた春」「音楽」「真夏の死」「女神」「ラディゲの死」「春の雪」・・・。

こう書き出してみると↑意外に、私にしては読んでいることがわかる。

私は一人の作家の作品を3作以上読んでいたらファンであるーと言う考えの持ち主。

小説ではないもの、随筆・・「小説家の休暇」「不道徳教育講座」「三島由紀夫のレター教室」、川端康成やドナルド・キーンとの往復書簡(キーンさんのはラストがチョット泣ける)なんかも入れると、これはもうれっきとしたファンといっていいのかもしれない。

ただし「豊饒の海」は「春の雪」しか読んでいない。(そして私に限らず豊饒の海は「春の雪」しか読んでいないという人は実は意外に多いんじゃないかと勝手に推察している。私の場合「奔馬」は数ページでダウン)
当然、有名な輪廻にはさっぱり触れてはいない。
三島を読めばカッコイイという見栄も手伝い、こんな私みたいな輩は「ナンチャッテ三島ファン」なのかもしれない。

好きな本は?と聞かれると「春の雪」と答えるのは確かにかっこいい気がする。
ただし感想を書くとなると難しい。好きな描写も多いけど、キスシーン一つとっても心情はかなりまわりくどく、その作品の美しさも含めどこまで理解してるのか自分が怪しい。

豊饒の海については、石原都知事が、あまりにも才能が疲弊しきっていて涙なしに読めなかった・・とどこかで言っていた気がする。
あの4部作ってそんな小説群なんだろうか。
「春の雪」しか読んでいない私にはわからない。

ちなみに私が気になる小説は「憂国」である。

こんなことを書くとアブナイ人と思われるか、「レオナさんてHな人ね」と言われそうだ。
私がHかそうでないかはともかく、三島由紀夫の原点はこの作品に帰する様な気が私はしている。
妻との描写がどうのこうのとかそういういう話ではなく、彼の言わんとしている男性の滅びの美学ってこういうことなのかなぁ・・・とか。

私が個人的に好きなのはデカダンな「鏡子の家」や「美徳のよろめき」ですが・・・。
先日借りた「沈めるは滝」は長編ではなく、「奔馬」などよりは読みやすそうなのでトライしてみることにしました。

雪国   -川端康成

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川端康成が好きです。
とくに「雪国」が好きで何回か読みました。

  国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

この有名な冒頭のシーンに続く「駅長さあん、駅長さあん」の声。
この葉子の哀しいくらい美しい声が、しんとした雪国に響いて、情感をたたえたこの後の物語を読者に予感させる。

この物語は妻子ある文筆家島村が、淋しい雪の国を時折訪れ、そこで出逢った芸子と夢幻ともつかぬ愛、そして別れを描いた、ただそれだけの物語である。

印象的なシーンが多すぎるので困るのですが・・・。
 
たとえば「人差し指、こいつが一番君を覚えていたよ・・」という台詞。こういう直接的ではない描写が艶めかしく官能的である。
 
  初めからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠回りしていたのだとはっきり知ると、自分  が厭になる一方女がよけい美しく見えて来た

こういった回り道は恋愛において実にありがちであるが、以外にこんな描写はこの小説以外にあまり見かけず新鮮であり、ほほえましい。
駒子の容貌の描写も微に入り細に入り、島村の駒子への並々ならぬ想いが伝わってくる。
駒子は芸子でありながら清らかな清潔さをも持ち合わせていて、島村は魅かれているのである。

しかし駒子はその内面に激しいものも持っている。
酔いに任せて「お友達でいようってあなたがおっしゃったんじゃないの。わたしはなんにも惜しいものはないのよ。だけど私はそういう女じゃないの。」「私が悪いんじゃない、あんたが悪いのよ」などと愚にもつかぬことを言いつつ島村に愛を求めるシーンは激しくも心に響きせつない。

また「あんた、私をいい女って言ったわね。わたしを馬鹿にしているのね」
島村は駒子のこういった鋭さを好まない。その激しさにたじろぐ心もあるのだ。

駒子を愛しながら、冒頭の駅舎に登場する少女葉子の一途で哀しいくらいまっすぐな少女特有の刺すような瞳にもまた魅かれているのである。
そもそもこの汽車での出会いのシーンから既にこの少女に魅かれているといっていい。

駒子と葉子。揺れ動く男心の描写。それは具体では示されない。

しかし駒子を愛しながら島村が本質的に魅かれてるのは葉子なのではないだろうか・・・・。

あるいは文筆家である島村にとって、女性とは一瞬のたゆとう揺らめく美なのであり、それ以上でもそれ以下でもない存在なのかもしれない。

他にも心情描写はかなり複雑である。

  得体のしれない娘(葉子)と駆け落ちのように(東京に)帰ってしまうことは、駒子への激しい謝罪  の方法であるかとも思われた。

このシーンは何回もも読み返したが難しい。。。

別れを予感させるこのシーンは島村の駒子への思いやりなのだとわたしは思いたい。
別れの言葉を告げたところで、性格柄、駒子は納得はしないだろう。
ぎりぎりまできた愛で彼を激しくなじり、島村を追い詰めてしまうかもしれない。
彼女のそのような姿を見たくはなく、またそのような終わりを迎えたくはない。
彼女を美しいままでおいておきたい。
そこで葉子をさらうように連れ去ることで、駒子への愛の証しとして言葉に尽くさぬ別れのメッセージにしたかったのではないだろうか。

降り積もる雪の中の火事のシーンは燃えさかる炎が駒子の情念さながらのようだ。
そして幻影のように葉子のからだが浮かび上がって落ちる。。
  

  駒子との歳月が照らしだされたようだった。
  葉子を駒子から抱きとろうとする男達におされよろめいた、
  踏みこたえて目を挙げた途端、さあと音を立てて天の河が島村の中へ流れ落ちるようであった。

別れの場面はなくとも読者はこのラストに、もう二度と島村がこの淋しい雪国を、そして駒子を訪れぬことを知る。
    
葉子の閉じた睫の美しさ。
雪の中に立ち上る煙。
天の河の想念。。。

そしてこれらの透きとおった美しすぎる抒情の調べのなかに、私たち読者はむせぶような寂寥感をおぼえずにはいられないのである。

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