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最近、休日も必ず外出せねばならず、日々忙殺されていますがその合間を縫ってジェーン・オースティンの「高慢と偏見」を読み始めました。
これが面白く久々トキメキ感を味わっています。
ロマンティックの予感。
映画化もされており、ブログでもよく話題になっているのに今まで手に取らなかったのはまず「高慢〜」がベースと噂されている「ブリジッド・ジョーンズの日記」を映画で観ていて、おそらくその18世紀バージョンだと勝手に思い込んでいたこと。(単純ですみません)
後、もうひとつの理由として、夏目漱石の孫マックレインさんの「孫娘からみた漱石」を数年前に読んだのですが、漱石は英国文学の学者時代ジェイン・オースティンに深く注目していたらしく、そのエピソードがこの本に頻出されており、大雑把な小説の雰囲気をを既に掌握してしまっていたーということもあります。
私が注目したのは、学者時代の漱石は「高慢〜」について「文体は自然だが熱情に欠いている」との評価なのに対し、作家になってからは彼女を天才と評している点。
その例として彼は冒頭のベネット夫妻の会話を挙げ
「ショッキングな事件がなければ小説が書けないというのは嘘である。笑の中に涙がある。このような笑いの方が奥深い。それがわかればオースティンの平坦な写実に含む奥深さがわかるはず」と賞賛している。
明治時代を生きた漱石は「高慢〜」を原文で読み
「あなた!自分の娘によくそんなことが言えますわね!」
「いや娘たちよりお前の方が美人だからピングリーさんがお前に惚れたら大変だ。」
(ここは笑いました^^)
といった夫妻の会話や
「僕は他人の愚行や悪行をいつまでも覚えているし自分が受けた侮辱は絶対に忘れません。執念深い性格なんでしょうね」
「それは確かに欠点だわ!でもいい欠点をお選びになったわ。そんな欠点は笑えませんもの。」
といった男女の会話、親子の関係、当時の日本とは全く違うその自由さに少なからず衝撃を受けたはずである。
ベネット夫妻の会話は「吾輩は猫である」の苦沙弥夫妻の会話あたりを彷彿させるし、またこの小説の主人公エリザベスから何らかのインスピレーションを得て、「三四郎」の美禰子や「虞美人草」の藤尾ーといった当時としては時代を先取りしたような女性を生み出したのかもしれない。
そう思うと「三四郎」ファンの私としてはオースティンに感謝しないわけにはいかないわけで、面白いからと言って一気読みしたりはせず、大切に読もうと思っています。
(この記事は昨年書いて訂正のため違うところに保存したままになっていました。折角なのでアップしました。「高慢と偏見」はもう既に読了しています!感想もまたいつか書けたら・・・と思います)
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