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ことしは「北海道」命名150年の節目の年だそうです。 この命名は松浦武四郎が考案したとされています。 地名というのはあまりにも原初すぎて日常で深く考えることはない。 しかし北海道は日本史のなかでも特異な経緯をたどって 歴史的にはごく最近日本国に編入されたので、 こういった経緯を人間ドラマとしてもたどることができる。 先日、そんなことから東京世田谷の静嘉堂文庫美術館で開催中の 「松浦武四郎展」を見学して来た。 幕末から明治初年に掛けての時代に「探検家、浮世絵師、著述家、好古家」 として活躍した、というように書かれるけれど、 本職は何かといえば、よくわからない不明な生き方をした人物のようです。 雅号は「北海道人」ということで、わたしも一般名称としてよく使う。 Wikipediaの記述を見ると三重県の松阪市近郊で 幕末の社会で比較的に裕福な家庭(郷士とも庄屋ともいわれる)に生まれた。 どうも誕生日もわたしと1日違いです(笑)。 少年時から後の探検家として役に立つ文化的な素養を身に付けたとされる。 この時代、こういった階層出身者として伊能忠敬などが類推される。 16才で家を出て諸国を遊学し、その途次九州平戸で一時は出家したけれど、 26才の時に還俗し、同時に北海道探検に深く関わることになる。 この経緯には「故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり 天涯孤独になったのを契機に」と書かれているけれど、 裕福な生家の資産を相続したというような経緯が想像できる。 身分制固定化社会の中で「自由人」的な生き方ができる階層もあったのだと こうしたいろいろな消息から知れる。 で、今回展示を見学していて一番ビックリしたのが、 生家の地理を考察しての説明書きでした。 写真撮影禁止と言うことだったので記憶ですが、 生家は伊勢参りの参道に面している建物だったそうで、 幕末の「伊勢参りブーム」の結果、年間数百万人(記憶では400万人)もの 大量の「旅行客」が家のまえの道を往来している様を見て育ったとのこと。 単純に言えば、1日10,000人以上が通っていた計算になる。 ・・・最近の調査研究というのはすごいと実感する。 こういう「消息」までわかってくるものなのですね。 こういった「環境要因」が個人の生き方や思想に深く影響したと。 この時代にいったんは出家するような精神生活を持った人物で 比較的裕福な経済環境にあって、身分固定的な環境にあれば とくに生きていくためというようなしがらみから自由に 職業を持たない個人的な興味からの人生選択が可能だったのでしょう。 そういう人物が折からのロシア南下侵略危機という国難状況を見て 北海道探検を志すに至ったということなのでしょうか。 歴史のはざまの中で、一時期は明治政府に出仕したりもしたし官位も得たけれど 早々にそういった堅苦しい立場は返上したとされる。 さらに個人的な考古趣味などに没頭していったということ。 「北海道」という地名にこうした個人の足跡が
いわばDNA的に影響を持ったのかどうか(笑)。面白さが募ってくる。 |
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松岡武四郎は、文化15年(1818年)、現在の三重県松阪市小野江町に生まれる。
武四郎は13歳から3年間、平松楽斎のもとで学び猪飼敬所、梁川星巌らの知己を得るなど、後の探検家として役に立つ文化的な素養を身に付けたとされる。
山本亡羊に本草学を学び、16歳から日本国内の諸国をめぐった。
弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。
1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、その探査は北海道だけでは無く択捉島や樺太にまで及んだ。
蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった。
安政2年(1855年)に江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢されると再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」と命名した。
更にアイヌ語の地名を参考にして国名・郡名を選定している。
翌明治3年(1870年)に北海道の開拓の方針を巡って、従五位の官位を返上した。
この間、北海道へは私人として3度、公務で3度の合計6度赴き、およそ150冊の調査記録書を遺した。
2018/12/29(土) 午後 2:35 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]