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厚岸・国泰寺
歴史探訪
[ 白フクロウの眼差し ]
2018/12/30(日) 午後 8:22
厚岸の歴史年表
•1643年(寛永20年):M.G.フリース率いるオランダ東インド会社の探検船「カストリクム号」が厚岸湾に入り、松前藩の臨検を受ける。薪や水を補給し、湾内などを測量後去る
•1701年(元禄14年):アッケシ場所分割し、「キイタップ場所」(現在の浜中町)開設
•1702年(元禄15年):飛騨屋久兵衛が厚岸などでエゾマツ山開発。
•1789年(寛政元年):「クナシリ・メナシの戦い」起こる
•1791年(寛政3年):松前藩が勤場所を設置し、最上徳内が神明宮(厚岸神社の前身)創建
•1799年(寛政11年):東蝦夷地が江戸幕府の直轄となり、官船「政徳丸」厚岸入港
•1800年(寛政12年):伊能忠敬が東蝦夷地測量のため厚岸滞在
•1804年(文化元年):幕府が「蝦夷三官寺」設置決定(国泰寺創建)
•1821年(文政4年):東蝦夷地が再び松前藩の支配となる
•1831年(天保2年):オーストラリアの捕鯨船「レディ・ロウエナ号」乗組員と詰合や足軽が交戦
•1843年(天保14年):大きな地震と津波発生
•1844年(天保15年):北方警備のため台場設置
[ 北海道にまた行きたいな ]
2018/12/30(日) 午後 8:08
オホーツク文化は土器の特徴にもとづいて初期、前期、中期、後期、終末期の5期に区分される。
オホーツク文化の発生地は樺太南西端と北海道北端で、初期は3世紀から4世紀までで、土器の形式からは先行する鈴谷文化を継承している。
そこから拡大して北海道ではオホーツク海沿岸を覆い、樺太の南半分を占めた。
この5世紀から6世紀を時期を十和田式土器に代表される前期とする。
中期は7世紀から8世紀で、活動領域はさらに広く、オホーツク文化の痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいる。
9世紀から10世紀の後期には、土器の様相が各地で異なる。終末期の11世紀から13世紀には土器の地域的な差違がさらに明確化する。
9世紀に北海道北部では擦文文化の影響が強まり、オホーツク文化は消滅した。
同じ頃、北海道東部ではオホーツク文化を継承しながら擦文文化の影響を受けたトビニタイ文化が成立した。
樺太ではオホーツク文化がなお続き、アイヌ文化の進出によって消えたと考えられるが、その様相ははっきりしていない。
[ 環境歴史観光防災カメラマン ]
2018/12/29(土) 午後 2:35
松岡武四郎は、文化15年(1818年)、現在の三重県松阪市小野江町に生まれる。
武四郎は13歳から3年間、平松楽斎のもとで学び猪飼敬所、梁川星巌らの知己を得るなど、後の探検家として役に立つ文化的な素養を身に付けたとされる。
山本亡羊に本草学を学び、16歳から日本国内の諸国をめぐった。
弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。
1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、その探査は北海道だけでは無く択捉島や樺太にまで及んだ。
蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった。
安政2年(1855年)に江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢されると再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」と命名した。
更にアイヌ語の地名を参考にして国名・郡名を選定している。
翌明治3年(1870年)に北海道の開拓の方針を巡って、従五位の官位を返上した。
この間、北海道へは私人として3度、公務で3度の合計6度赴き、およそ150冊の調査記録書を遺した。
地震の被害、津波の被害、・・・
状況・政治への発言
[ 地震・雷・火事・津波 ]
2018/12/16(日) 午前 9:07
水深の深い湾、次第に狭くなる湾や入り江の奥部、周囲を海に囲まれた岬の先端などでは、津波(到達高)が高くなる。
湾では減速しながら海岸に接近した先行波に後続波が重なりやすいため。(湾口で波高2 mのものが湾奥で5 m超になった例がある)
潮が引く「引き波」から始まる時も、盛り上がる「押し波」から始まる時もある。これは発生様式によって「海底地形の変化」が異なるためである。浸水後の引き波は、次第に速度を増していき、流速は浸水時よりも早い場合がある。重力による落下が水の勢いを加速させるため。
第1波が一番高いとは限らず、数十時間にわたり数波の来襲がある場合もある。これは反射・屈折・干渉した波や余震で発生した別の津波によって不規則に波が重なることがあるため。
一般的に海岸近くでの津波への警戒・対応として、強弱に関わらず揺れを感じた場合、「できれば内陸深くへ、難しそうなら近くの高台、建物の上層部へ速やかに避難すること」が推奨される。
日頃からの避難の心得として「津波てんでんこ」という標語もある。津波の襲来が目視できる前でも、海岸や河口付近の低地には留まることが危険である
オホーツク文化人の復元住居
古民家シリーズ
[ 北海道にまた行きたいな ]
2018/8/25(土) 午後 5:08
オホーツク文化は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。
海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたオホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。オホーツク人は『日本書紀』に現れる粛慎と考える見方が有力であったが、近年行われた人骨の遺伝子調査から、ニヴフ人やコリヤーク人との近似性が示されている。
同時期の日本の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。
なお、トビニタイ文化をオホーツク文化に含めるかどうかについては、現在のところ意見が分かれている。トビニタイ文化は9世紀から13世紀まで北海道東部にあり、擦文文化の影響を受け、海岸から離れた内陸部にも展開した。両者の継続性を認めてオホーツク文化の一部にする考えと、生活の違いを重視してオホーツク文化に含めない考えとがある。
【感激は現場感覚 甲子園にかかった虹】
日本社会・文化研究
[ 仮想通貨ニュースそうだったのか ]
2018/8/22(水) 午前 5:58
【函館赤松街道、大好きです】
住宅取材&ウラ話
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【地縁・血縁から「職縁・学縁」社会への移行】
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[ さかずきゆうと 尼のジャック ]
2017/9/3(日) 午前 11:21





