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先日セミナー参加で東京に出張しましたが、 |
都市の快適・研究
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そろそろお酒は切り上げて帰ろうかと思ってトイレへ。 慣れない街なので、案内看板の類もしっかり確認しようと・・・。 おいおい、であります(笑)。 さすがであります。コテコテ感が充満している。 キタはナンバよりも気取っているとされるのに、これかよ、というところ。 しかしこういうメンタリティにはホンマ、圧倒される。 この場所は一応は「公共的」な空間のハズであります。 正確にはどうなのか、このあたりはハッキリしない。 なにしろ梅田の地下鉄駅にすぐという地下街で、どこのビルの地下になるのかも よくわからない場所ではある。 公共という概念と私企業の公共へのブリッジの淡い境目ということか。 しかし公共性が高い場所であることは間違いない。 まぁ東京であれば、こういうのは通用しそうもない。 街全体に「許さない」感が充溢している。 まちがいなく「許せない誰か」さんからの「タレコミ」などですぐに修正勧告が来そう。 なにしろ、南青山にはなになにがふさわしくないと言い切る輩がいるくらいなのだ。 また東北一円ではこういったギャグはまったく通用しないだろうし、 北海道だったら「なんも、いいべさ」・・・とはならない。 「なに書いてるのさ?ハンカくさいんでないかい」という反応かなぁと。 っていうより、酔っ払いすぎたらこの時期、凍死・行き倒れの可能性もある。 いずれにせよ、公衆トイレはあくまでパブリックな場所で そういう場所に、落書きならいざ知らず、正規のPOPとして こういう表現はなかなか他の地方では存在しにくい。 しかしそこが関西らしいというように感動する部分も大きい。 鉄道でもJRを圧倒するほど私鉄が充実しているし、公共交通機関というのが 私企業が担っているケースが圧倒的に大きい。 そういった私企業が生み出す公共意識には、こういうのを許容する文化がある。 北海道の田舎の純朴人間には抵抗しようもありませんね、もちろん。
しょがない、もう1軒は行くか、となってしまった・・・(笑)。 |
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人間は現代に置いては、都市に住む人が多い。 都市というのは人類が獲得してきたさまざまな生きるカタチを表現している。 利便性、情報性、居住性、景観性など あらゆる人間感覚の根源に関わるように思っています。 いろいろな経緯、ポイントでひとは都市を選択して生きている。 そういった都市を巡り歩いていて いつも感じることは、建築という物が果たしている役割。 その機能もさることながら、景観としての建築はやはり決定的。 札幌で言えば、札幌駅舎ビル、道庁旧本庁舎赤レンガ、時計台など その都市らしさのランドマークとしてあり続けていると思う。 そういった存在が各地方都市では、商業施設が担っているケースも多い。 下の写真はある都市の中心街の商業施設なのですが、 看板サインのすぐ下の外壁コンクリート面、あるいはモルタル被覆面が 著しい耐候性劣化を見せている。 サインという存在は「見える」ことを前提としてあるので、 この街並みの中で、ひとの印象に占める割合はけっして低くはない。 そういった建築において、毎日こういう劣化を見続けているというのは 多くの人の印象に対してどうなのだろうかと気になってしまう。 たしかに店舗内部を訪れても活気が感じられず、 いかにも中心市街地の残念感は満載になっている。 売上の減少の結果、再投資修繕のコスト負担に耐えられない現実は理解出来る。 こういう景観は原因ではなく、結果ではあると思うのですが、 とくに寒冷地都市の場合、このような耐候性劣化について見るのは 建築に関わるものとして、なんとも無力感を感じてしまう。 素材選択、仕上げ方法など、こうならない選択があったのではないか、 どうしてもそんな部分に思いが至ってしまうのですね。 一方ですぐ隣接した場所には上の写真のような建築。
こちらは市が管理する施設のようでみごとにスケスケのガラス建築。 下の写真建築のように手入れされずに放置されて 街の印象が暗くなっていく危機感から、街が中心市街地の景観について 行政的に関与している様子が見て取れた。 たしかに「明るさ」という要素は、寒さという要素に優先するとは言われるし、 表層的な部分でこのように街の印象劣化を食い止めたい思いはわかるけれど、 しかしエネルギー無駄遣い感がどうしても強く迫ってくる。 このふたつの建築を見ていて、 建築が果たしている「街の印象」というものの責任意識について 否応なく考えさせられていました。 外観というのはコケ脅かしを伝達する手段ではなく、 その街の暮らしようがサスティナブルであるかどうかを表現するもの。 そんな思いが強くしてきます。 |
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さて札幌も一進一退の冬将軍。 |
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写真はたまたま仙台で適当に探して「じゃらん」で見つけたホテル。 前々から気にはなっていた「大観音」さんの目の前ホテル(笑)。 こういう感覚はどうも北海道人には縁が遠く感じる。 北海道と東北での住宅雑誌出版がわが社のメイン事業。 ここのところ原点回帰で身の置き所を半分ずつで過ごしております。 とはいっても自宅は札幌なので、本拠地感覚は北海道。 一方東北は、必ずしも仙台が中心というようには言えない。 国のくくり方で言えば東北は仙台が「中心」と言えるのでしょうが、 実際の東北の市場感覚でいえば仙台は並立的都市のなかのひとつ。 引き比べて北海道の場合には、札幌はほかの旭川、函館、帯広といった 地方中心都市との関連性がきわめて高い。 この感覚というのが、なかなかに無視できず大きい。 札幌人が「北海道は・・・」としゃべるのと、 仙台の人が「東北は・・」と語るのにはやや違いがある。 そうすると仙台という街はいろいろな感覚を持った街だと気付く。 ある意味では東京の一地方中心街区、たとえば町田とか八王子といった 東京との強い関連性があり、一方で地方都市の大きなモノという ふたつの相反するような表情がみえてくるのだと思う。 札幌もリトル東京とよく言われてきた。 わたし自身は札幌育ちなのでそういった客観的印象をわからないのですが、 たしかに支店経済であり「なになには本社で」という会話は よく聞き育ってきた感覚は持っている。 そういった部分は仙台でも同様ではあるけれど、 その皮相のちょっと下には東北の一地方である本質は覗き込める。 石巻などにはそういった「在地性」が強く感じられる。 それと共通する感覚が根本に強く感じられる。 札幌はそういった在地性が出来上がる前にすでに東京が支配していて そういう在地性があるとすれば、それは北海道一円的なもの。 北海道であれば旭川だろうが帯広だろうが、違いがないというのが札幌。 仙台も表面側では東京のリトルタウンという表情が支配的だけれど、 基底部でそういった違いがあるといえるのでしょうね。 こういった街の雰囲気の違いが、はたしてどんなふうに家づくりに
反映されていくのか、きわめて興味深いモノがある。 そして世代別にもこのことはきわめて面白さをもっている部分。 北海道・札幌は無条件に近く「世界標準」が共通性になるけれど、 仙台を代表とする東北の各中心市街区がどのような表情の住宅に 馴染んでいくのか、これはいま現実に、 ユーザーが選択し続けているのだと思います。 |





