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「すごい大きい地震❗️会社は物も落下せず大丈夫」 「でも今まで一番大きい。余震ありそうだね」 「ひええ…余震あるかな?でもこのまえはすぐ停電したよね?」 「それと比べたら停電してないからこの前より被害すくないかな…?」 っていうようなLINEでの家族のやり取りを、出張先の仙台のホテルで それも夜中11時半ころ、ふと目覚めて確認して北海道の地震発生を知りました。 とりあえず、家と事務所の内部は特段の被害がないとのこと。 ですが、夜が明けてみてどうなのかと案じてはおります。 いままででいちばん大きいと感じたと言うことなので、
屋外などでなにか、異常がないかどうか気がかり。 また、スタッフは全員帰宅した後だったようなのですが、 無事の確認もこれからすることになります。 札幌の状況が夜間でもあり確認できないので、 対応についてはみんなに任せるしかないのですが、さて。 夜が明けて、LINEでの対話では「平常営業」が当然視されるとのこと。 今回は前回のように停電は事務所周辺ではなかったようです。 まだ情報は完全には確認できませんが、 ひたすら被害が大きくないことを願う次第です。 一昨日、月と地球の距離が近接する「スーパームーン」だったそうで、 ちょっと前には震度3程度の地震が発生もしていたという。 昨年の大地震の「一連の地震活動」という発表が気象庁からあったようです。 日本列島、どこにいてもこういう天変地異はいつ何時でも起こりうる。 つねに心のどこかで「油断大敵」と肝に銘じていなければなりませんね。 北海道のみなさんすべての無事を祈念していたいと思います。 |
日本社会・文化研究
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「王羲之を超えた名筆」という書が日本で公開されている。 顔真卿さんという一般の日本人には馴染みのない名前ですが、 中国の人たちにとっては、その漢字文化の究極を表しているようです。 以下インターネット上で見られた「美術手帳WEB」の案内の要旨。 「中国において、東晋時代(317–420)と唐時代(618–907)は、 書法が最高潮に到達したとされる時代。そして「書聖」とも呼ばれる 王羲之(おうぎし)が活躍した東晋時代に続いて、唐時代には虞世南(ぐせいなん)、 欧陽詢(おうようじゅん)、褚遂良(ちょすいりょう)ら 初唐の三大家が楷書の典型を完成させた。 そして顔真卿(がんしんけい)は三大家の伝統を継承しながら、 「顔法」と称される特異な筆法を創出。王羲之や初唐の三大家とは異なる 美意識にもとづく顔真卿の書は、後世に大きな影響を与えた。」 というように紹介されていました。 たまたま東京出張の機会に、ちょっと見てみるか、 というような軽い興味で東京博物館に行ったけれど、 顔真卿の《祭姪文稿(さいてつぶんこう)》という名書を見るには なんと、行列3時間ということだったので、 そこまでの強い思いがあるわけでは無論ないので、体感は諦めた。 しかしそこを起点にして、こういう中国史での「芸術」について 考えたりし始めています。 中国の山水画の類というのは、どうも日本人にはいま馴染みがない。 テーマが老荘の思想の極致を表現する、みたいな なまの人間の叫びを感じさせるテーマではないために、 人類的共感としてはどうも感受しにくい。 個人的にわたしはそう思い込んでいるようです。 ただ、この「顔真卿の《祭姪文稿》」の紹介エピソードからは この生きた個人、顔真卿さんという人物の個性とか息づかいというものが 立ち上ってくるように感じられました。 「乱によって従兄とその未子を亡くした顔真卿が亡骸を前に書いたという。 冒頭は平静に書かれているが、しだいに気分の高まりや激情が見られる筆致となり、 書き間違え、行そのものが曲がっている部分なども現れる、劇的な書」 というような紹介なのですが、実際にポスターなどでも そういう書き間違えの部分などもあって、 激した感情というものが強く感じられてくる。 書というものに馴染みがなかったのですが、そういう劇的シーンが 感情移入されてくると、ようやく見方のスジがみえる。 まぁ入門としては貴重な機会だったかなと、見ることはなかったけれど ふしぎに納得感が広がってきています(笑)。 しかしこの顔真卿の《祭姪文稿》は
国共内戦を経て、台湾に大量に貴重な文物が移転し、 「故宮博物館」が北京と台北にあり、そしてこの書は なかなか公開されることがなくて、海外に出たのは アメリカに次いで日本になったという経緯だと言うこと。 そういう経緯から中国本土のひとたちからは、 これが日本に行かなければ見られないことへの残念感が盛り上がったという。 しかし、旧正月休暇で実物に触れてきた人たちの口コミSNSなどで、 その素晴らしい「体験」への感動が多く語られているとのこと。 中国は繰り返し「易姓革命」が展開した。 それに対して日本は長く一体的国家意識が天皇制とともに継続した。 そういう社会の相違から、誤解も発生するけれど こういう文化面での思わぬ局面も生まれるのだと興味深かった。 |
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移動の途中で「国府多賀城」遺跡周辺に。 これまで不思議と一度もきちんと見たことがなかったことに気付く。 周辺は、たぶん史跡扱いになっているようなので、 ほぼ古代の状況を推し量れるような、そういう場の雰囲気が感じられる。 本日は東北とヤマト政権古代史への探究篇ブログであります。 古代の王権にとって、こういう「遠の朝廷」という一種の「都市」を建設するとき、 方位や位置の感覚はきわめて重要だっただろうと思われる。 中国的な風水思想を踏まえて建設地が選択されたに違いない、 とまでは容易に想定される、ということで立って見た。 写真は政庁建築の発掘位置がわかるように地面がマーキングされている。 2枚目の写真はその位置からほぼ真南と思われる方向を拡大した。 おおむね政庁は、鹽竈の湊の方向に対して正対している。 鹽竈は古名でいまは塩釜だろうけれど、 この湊、港は仙台湾で南に向かって開いている。 人的往来、畿内地域との交流においての海路の条件は重要ポイント。 鹽竈神社が古格な神社として重要な歴史的位置をもっていることがわかる。 先日、仙台市若林区にある「国分寺」遺跡をはじめて見たけれど、 その位置からはかなり離れているとされる。 古代国家は当初、政庁として「郡山官衙」を建設したとされ、 その位置は現在の仙台市太白区の長町地域だとされている。 その官衙「都市」との位置関係では国分寺の位置は妥当な距離感。 この多賀城は当初は、対蝦夷の軍事施設として建設されて その後、この写真のような政庁施設を持つ古代都市として造営された。 そういった経緯で国府と国分寺が10km以上離れている。 この多賀城に立ってみると、この地がやや高台にあって、
鹽竈の湊から、まっすぐに北上する位置にあることになる。 古代の王権関連の人物にとって、この地に派遣されると言うことは どんな心事だったのだろうかと推定してみる。 古歌によく謳われる「宮城野」とか、松島などの自然景観は詩心を刺激はしただろう。 そのようなフレーズを入れ込めば、畿内政権文化圏内で 「おお、やはり多賀城からの歌はこうでなければ」みたいな判じモノだったかも(笑)。 郡山官衙からこの多賀城に古代東北の政庁が移動したのには やはり黄金の採掘という大きなインパクトが働いた気がする。 いまも「涌谷」というような地名が残っているけれど、 多賀城の北方にはこういう産金地域が後背として存在している。 ・・・いっとき、古代の時間間隔、地域感覚に思いをはせてみた次第。 |
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わたしはクルマでの移動がたいへん多い人間です。 わたしから見ると、運転者のマナーって全国でとくに違いが大きいとも思えない。 たまたま気がせいていたり、個人として問題のあるケースもあるけれど、 おおむね日本人の運転教育は悪くないレベルではないか。 ただ、きのうは宮城県海岸地域某所で、 片側2車線の右側を走行中、前方車が急に右ウインカーを出し減速しはじめた。 そこで左側車線を確認したら後方車とはそこそこの距離があった。 そこで車線変更しようとして、左ウインカーを出したら その後続車が急に猛スピードを出して接近してきた。 「オラオラ〜、絶対入れてやんないからな!!」みたいな。 危険な距離になったので車線変更を諦め、減速しほとんど停止寸前に。 そうしたらその猛スピード車からすれ違いざまに「○×△▲」と 悪罵を投げつけられていました。 当方のウインカーの出し方に激昂してしまったのかも知れません。 とはいえ、車道にはそこそこの道幅はあったのですが、 ほとんどスレスレの距離で走り去っていった・・・。 当方としては危険回避のためにそういうドライバーとは関わらないように そのクルマとの距離を取るようにその後、運転しておりました。 こういった手合いに対応するとさらなる逆上の方が怖ろしい時代だと。 どうも最近、こういった「あおり」に近い運転をするひとはいるように思います。 そんな体験をしていたので、 ReplanWEBマガジンで、スタッフのブログで以下の記事を興味深く読んだ。 <a href="https://www.replan.ne.jp/articles/8416/?fbclid=IwAR1-QPqnRFnggwdpbcU7eMU7ssvjjvhBjOrFS7qpItG5q1W4RxLCggAhIHU" rel="noopener" target="_blank">北から目線の暮らしルポ2019.2.14 冬だけ親切? 東京から北海道に移住して10年のスタッフがお届けする北海道ならではの日常。</a> ことしの札幌、積雪深はほぼ平年並みですが、
寒さはかなりのレベルなので雪融けがあまりなくて、 道端での雪の堆雪量はかなりになっております。 当然道幅は狭くなっている。 北海道人なら、運転で雪にタイヤを取られて立ち往生という苦い経験は みんながそこそこには持っているので、 そういう「共存共苦」の気分というのは共通感情としてあります。 なかなかいいコラムだなと思ったので身内ですが ご紹介したいと思いました。 雪は危険ももたらしてくるけれど、一方でこういう機縁にもなる。 「なんもさ」「おたがいさま」という気分、大切にしたいですね。 |
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札幌から東京に出張してきたのですが、帰ってきたのは仙台。 東京でメシをいっしょに食った坊主に 「これからどこ行くの?」と問われてつい、 「仙台に帰るよ」と言ってしまっていました(笑)。 今回の出張はきのう触れた東北大学の「スマートエイジング」セミナーが 主目的でしたが、たまたま見た絵画展でも偶然「高齢化」がテーマ。 わたしは大体、日本画のほうにどんどん惹かれてきている人間で、 東京広尾にある「山種美術館」が定番鑑賞箇所。 そこでいま展示されているのが「奥村土牛」さんの作品展。 写真は、その展示の中で「写真撮影しても良いですよ」というプレゼントの 「吉野」であります。 日本画家らしく、日本を描くことに終生を費やした画家ということが 展示から明瞭に浮かび上がってくる。 日本画というのは床に置いて描くので西洋画のようにカンバスがない。 なので、まさに体力消耗が激しいと言われます。であるのに この作品を描いたのは、画家88歳のときだというのです。 こういう偶然というのはあるのだろうか、と不思議な気分。 スマートエイジングのセミナーの方でも、 人生100年時代をどのようにビジネス的にとらえ直すべきか、 という大きなテーマを与えられたわけですが、 もっと「感覚的に」すっぱりと見せてくれる芸術でそのテーマを わかりやすく感受性に訴えかけられてしまった。 どうもなにかの機縁が働いているのかも知れないと妄想が膨らんだ(笑)。 この土牛さんという方は、写真で見るとまさに名にふさわしい風貌。
絵は人格を表現している、というのが日本画コレクションに注力した 山種美術館創設者・山崎種二さんの持論だったそうですが、 この土牛さんは山崎さんと下積み時代以来の交友だったそうです。 まさに土牛というような真正直な画風が汲み取れる。 とくにかれは「写生」に徹底的にこだわっていたとされる。 この日本のさくらの名所、吉野を描くに当たって 画家は桜の季節以外の季節にも足を運んで写生を繰り返したと。 描かれた絵柄はもちろん桜が主役として描かれているけれど、 それ以外の季節への写生が、この絵を成立させているというのは 絵が端正なだけにさらに強くつたわってくるものがある。 そういう絵への姿勢を88歳になってもどんどん追究したという。 画家66歳の時の作品へのコトバとして、 「ようやく、描く自由を得た」というようなものがあったけれど、 高齢化というテーマにとって、刺激的な姿勢だと思われました。 |





