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ことしはなかなか東京を散歩する機会がなかった。 やはり建築とか住宅とかの仕事をしていて、 ときどきはそういう機会を持つべきだと思っています。 人間食わずきらいではいけない。 って、べつにわたしは関東・東京のデザイン感覚がきらいではありません。 マザー的な感覚とは違うけれど、多くのニッポン人のデザイン感覚DNAが 重層的に積層しているので、やっぱりいつもオモシロい。 今回は東京在住の息子の状況視察で東北からクルマで足を伸ばした。 仙台からの出発で行き土曜日は仙台東部道路〜常磐道を南下。 約370kmほどだそうです。 で、用件は顔を見れば大体3分間で済む(笑)。 帰りは、一転して東北道を北上するルート選択であります。 とても仙台までは体力的にムリそうだったので、福島県二本松周辺で宿泊。 ということでしたが、坊主は事前に知らせていたので
日曜日もスケジュールが空いているよ、ということで、 神奈川〜東京の美術と住宅建築探訪に付き合わせた。 まぁそのうちなんかの役には立つかも(笑)。 一応、吉田五十八建築が軸で葉山の山口蓬春記念館と東京世田谷の 猪俣庭園建築見学であります。 って、前日に坊主が行く、となったので急遽決めた次第。 まぁどっちもそんなに観光スポットではないし、 クルマで行くのがいちばん行きやすいという場所であります。 この2箇所とも以前に探訪していたことがあり、 そのときの「場所の印象」がどちらも克明だったのです。 で、今回は坊主とも意見が一致した猪俣邸の居間からの庭の切り取り方。 建築的意志がもっとも明確にあらわれる「開口」です。 コンピュータがパーソナルになって、人間のDNA的「視認」が 共通言語化され製品化されるようになって、 この画面の切り取り方って、たいへん大きなテーマに浮上した。 こういう人間感受性の「進化」ということについて、 Appleという会社は大きな寄与があったと思います。 Windowsを生んだMicrosoftも技術発展に果たした役割は大きいけれど しかし、毎日使うという意味での人間DNA解析では、 やはりMacintoshは先端的に多くのことに取り組んで成果を挙げた。 そのなかでもこの左右寸法という領域での仕事はすごかったと思う。 人間がなにかをみるときに、どういう画角がもっとも人間的か、 こういった解析では建築の領域も歴史的に大きな関与をしてきた。 わたし的にこの猪俣邸の居間のフレーム感は好きであります。 建築というのはまずはたぶん人間のカラダのサイズが基本になったのだろうと そういうふうに感じています。それが建材のサイズ、規格に反映し、 一定の「共通言語化」が成立している。 そのなかである種の「様式」が生まれても来るのでしょうが、 そういった制約を持ちながら、ある寸法感覚は偶発的個人意志的に生起する。 で、この猪俣邸のグリッドの感覚に、父子で共感を持てた。 画面としては左手にやや夾雑物がきのうはあったので、 そっち方向は少しカットしています。 みなさんはどうお感じになるでしょうか? |
古民家シリーズ
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写真は6年前に探訪する機会があった、草戸千軒遺跡の復元住宅。 広島県福山市にある博物館に展示されている。 住宅取材を基本的な行動様式として見続けてくると、 必然的に人間の暮らしようとか、感受性の推移とかを知りたくなり、 古建築、古民家というようなものに興味が向かっていく。 普段から空間を取材してくると、時間を超えて「聞き取り」たくなってくる。 この草戸千軒、というのは、鎌倉から室町にかけて栄えた集落。 瀬戸内海の芦田川河口の港町として栄えた。遺跡の発掘調査から、 時期によって町の規模は変遷しているが草戸千軒町は近隣にあった 長和荘などの荘園や地頭、杉原氏や備後国人で一帯の領主であった 渡辺氏の保護の元、他の地方との物流の交流拠点として繁栄しており、 数多くの商工業者がいたと見られ、遠くは朝鮮半島や 中国大陸とも交易していたとみられている。〜以上、Wikipediaの記述。 瀬戸内海に面した河口で、周辺地域から物資が集まってきて 海からは他地域、遠くアジア地域からの物資も届く。 交易ということにほぼ専業化した人々の暮らしようがあったのだと思う。 なんとか千軒という呼称はこの瀬戸内海地域ではよく付けられる地名。 たくさん家があるというような意味合いなのだろうと思われる。 今日の都市のように多くの家々が立ち並び、人口が膾炙した。 復元された住宅群には、商家・小工業者・職人などの暮らし痕跡が刻印されている。 こういった職業階層から、有力資本家や交易業者が出現し、 江戸期には大阪を中心とした資本蓄積に至り、 やがて明治の革命のスポンサーになっていく。 住宅を見ていて気付くのは、構造材には曲がり材が随所に使われていること。
ほとんどまっすぐな材は見掛けない。 土台くらいしか、まっすぐなままという木材はほとんどなかった。 常識的に考えれば、こういう曲がり材は、価格的に合理性があったに違いないと そんな理由がアタマに浮かんでくる。 木舞と土塗り壁という技術は、こういう曲がり材でも家が作れるようにするために その補強的な意味合いから発達したようにも思う。 復元の工事にあたって、現代の職人さんたちは苦労したに違いない。 出来上がっている空間には、まことに融通無碍という印象が漂っていて、 なんとも独特の自由な空気感が流れている。 素材に合わせていくタイプの技術が育っていっただろうと想像も膨らむ。 わが家のご先祖さまもこういう都市の空気のなかから 生き延びてきたと伝承されています。こういう空気、なんか楽しい(笑)。 |
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北海道では開拓がある程度進んだ時期、各地で経済的に成功した 人士たちによって、豪邸が営まれたようです。 この愛別でも、米穀雑貨、味噌麹製造業で財を成した「上西」さんが、 現在「粋人館」として生まれ変わったお屋敷を大正11年・1922年に建てた。 ちなみに愛別町の人口は当時がおおむね6,000人で現在は3,000人弱。 北海道全域では人口250万前後から現在は550万前後。 右肩上がりに人口が増えていく時代で、札幌集中のような傾向はなく、 いわば拡散的に日本の総人口も右肩上がりだと思われていた時代。 生めや増やせや、というような「国民国家」成長の時代だったのでしょう。 上川百万石というような言葉が人口に膾炙された。 折から1918年には「米騒動」という全国的な騒擾が歴史的に確認できる。 〜肉や魚などの摂取が少なかった当時、 日本人の食生活は穀物類が主体だった。特に肉体労働者は 激務のため1日に1升(1.8リットル)もの米を消費したといい、 米価の高騰は家計を圧迫し人々の生活を困窮させていた。 〜 というような記述がWikipediaに確認できる。 北海道はとくに開拓の余地がまだまだあり、基本食料としてのコメを 主要扱い商品とした上西さんは、現代の農協のような役割を果たしながら、 経済的富を集中的に実現しただろうことが容易に推測されます。 北海道に残る「古民家」では、こういった成功者の住宅事例が多い。 北海道西海岸や函館地方では、漁業による収奪型経済成功者が たくさんの「豪邸」を建てている事実がある。 内陸、上川盆地の愛別では、こういった成功の形があったのでしょうね。 今回のこの建築再生事例については、
まだきちんと「取材」出来ているわけではありませんが、非常に興味深く、 写真撮影などの基礎的な記録はいくつか収めてきた。 断片的な口述情報をふまえて気付いたことを何回か書き残したい。 写真は、この上西邸の旧宅部分の様子です。 玄関はやや角度が振られて造作されていた。 この「間取り」が原設計通りであるかどうかは未確認です。 今回のリノベ工事では、未確認ですが店舗の方は永田正彦さんという 京都の設計者が関わっているようにパンフに表記されています。 写真左手には木骨レンガ造とおぼしき「蔵」があって、どうも構造としては やや分離的な建て方をしているようです。 2枚目の写真はその蔵の内部の様子。白くペイントされて 展示室的な使用を考慮した空間に仕上げられています。 きのうご紹介した2階の座敷2室を持つ開放的な和風建築空間と 階段を挟んで、この煉瓦蔵が混構造のように連結されています。 この煉瓦蔵と玄関ホール・廊下を介して対面側には 洋間がしつらえられている。出窓風の造作原型から想像してみると、 廊下を挟んだ反対側の和風建築とは対照的な洋風の意図がうかがえる。 開口部に対して壁の面積が大きく、大壁デザインが意識されている。 一方の和風空間の方は、丹精された庭に対して縁側を介して開放的。 ひとつの建築の中でこの両方のデザインを両立させている。 この時代の旧家で特徴的な和洋折衷的内装デザインだと思います。 多くの庶民が田舎では茅葺き、都市では木造賃貸の長屋住まいであった時代、 「見たこともない豪邸」として、わかりやすい「成功者の邸宅」だったのでしょう。 こうした建築が街の駅前に存在し、富でもって睥睨するかのようだった。 建築が権力とか経済とかと短距離的に結びついて存在していたことが知れる。 そうした残照がはるかに香り立つかのようで、興味を強く掻き立てられます。 〜この項、明日以降にも続きます。 |
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さてきのう、仙台に寄って数箇所訪問後、札幌まで帰還しました。 訪問先は岩手県中部、宮城県北部だったので、 わたしの考古趣味から平泉の「柳の御所」遺跡のその後の様子を見学。 一度、この遺跡からの発掘が話題になったときに 訪問見学しましたが、それからでも相当時間が経っている。 発掘調査は歴年の予算範囲ですこしづつ進展するので ほおっておくと、進み具合が急だったりして油断できないのですね。 ただ、記憶が鮮明でもなかったので、再度チェックしておりました。 この「柳の御所」遺跡は頼朝の奥州制圧の津波のような軍事行動で ほぼ灰燼に帰した奥州藤原氏の中心的統治機構、建築群史跡。 前回見学したときには、威信財建築として「四面庇建築」痕跡が発見された、 という段階で見学していたのですが、 今回見学では、その「四面庇」建築のCGによる復元模型、動画が作成されていて その説明には、「復元設計趣旨」が明示されていました。 以下、その部分の抜き書きであります。 〜●建物復元の考え方 2棟の建物の内部で行われていた「儀式」を想定しながら検討を進めた。 1 中心施設は儀式をする場所であること。 2 平泉館では貴族的、武家的な儀式の両方が行われていたと想定できる。 3 遺構からの分析や類似建築との比較の結果をふまえつつ、設計を進めた。 ●建物の性格の想定 ・東の建物 広場に面して南北に長い建物なので、多くの人が対面できる作りであることから、 武家的な儀式に使われたと想定。 ・西の建物 池と西庭に接している建物であることから、接客空間として使われた建物と想定。〜 というようなことで、たぶん歴史関係の知見と、古建築的知見が それぞれの立場から推量を持ち寄って、こうした復元設計になったのでしょう。 わたしが見学していなかった間にこの平泉は世界遺産になったので、 より多くの学術的知見が集約されたものと推測します。 こうした研究成果の一端は印刷資料にもまとめられていて きのう訪問したら、ことし1月に行われた文化フォーラムの資料をいただけました。 また、こうした設計趣旨に基づいて模型が作られ、それをさらにビジュアル化した CG映像も連続的に上映されていました。 ふ〜む、確かに池に面した建物で貴族たちを応接するというのは、
まことに合理的な分析だと思わされるし、 また、平安末期の「政治」というものが「儀式」のやり方、それ自体での ショー的な性格を持っていただろうというのも、膝を打たされました。 考古資料の蓄積、その分析から平泉権力機構の総体に迫る、 現代の想像力の展開をたいへん面白く見学させていただきました。 |
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町家を所有して住んでいたのは、基本的には都市商工民たち。 日本の基本的な経済は、こうした人々によって担われてきた。 150年前の明治維新でも、大阪の大商人たちが巨額の革命資金を提供して はじめて政権の転覆が達成したとされている。 日本的な合理主義とか、計数管理というような基本的経済運営思想は、 こうした階層の知恵によってもたらされたものだったのでしょう。 明治の革命は、そういった階層が政治に介在しうる根拠を与えた。 商ビジネスというものは、古くから、というか人間が社会的存在であることと 不即不離の関係性を持って存在し続けてきたもの。 歴史の中で、そのようなありようの痕跡の断片が見えると、 一気に人間的な匂いがそこに漂ってくる瞬間があります。 日本に本格的な中央政権が奈良に樹立されて最初に行われたのが 「交通網」の整備、道路の建設であったという事実からは、そこを通る荷物、 具体的にはコメなどの税・貢納品というような想像力が湧いてくる。 そしてそれを「運ぶ」というビジネスのありようも立ち上ってくる。 手形、という価値の流動化の歴史はかなり古いというようなことからも、 そういった税・貢納品の物流を巡って人々が生きてきた実質が見えてくる。 そういった日本の商、という仕事に携わってきた人々の 生活感・倫理観、道徳観というようなものが、 写真のような「町家」空間には、空気感として遺されていると思います。 江戸期権力からの強制だといわれる街並みの1.5階ぶり。 その強制はむしろ一種のデザインコードとして、豊かな精神文化を生んだ可能性が高い。 また間口の広さを税の収奪根拠としたことから、 それへの対応として間口が狭く奥行きの長い間取り文化が形成された。 そういう都市住宅文化は、緑の希少性を高め、 中庭、坪庭との対話という日本人の基本的精神性にも与った。 茶の湯文化の初期は、この写真のような坪庭に対して 簡易な造作の「茶室」を建てて遊んでいたのだといわれる。 こういった町家のたたずまい、ありようから
精神文化性を抽出させるというのは、科学的には難しいかも知れないけれど、 現代日本のなにごとかの「揺りかご」になったのは間違いないのでは。 |








