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わたしは料理は好きですが、材料についての知識が豊かなわけではない。 で、魚関係についてときどき料理で扱ってブログにアップすると 必ずチェックしてくれる貴重なお魚の「専門家」の友人がいます。 高校時代の友人Shigeru Narabeさんで、FBフレンズであります。 以下、先日の「サケ料理」などに関してのお魚の話題FB上でのやり取り要旨。 <三木 奎吾 (2万年前の列島古地図)を見ると 日本海というのは非常に面白い存在だと気付きますね。 対馬海峡しか太平洋と繋がっていない。想像を刺激される。 <Shigeru Narabe この時はほとんど淡水湖でシベリア系や揚子江系の淡水魚が 日本に分布を拡げることができたと考えられています。 <三木 奎吾 おお、ふたたびのお魚博士。 そういえば最近は中国人が日本食のおいしさに目覚めて日本的魚食習慣をはじめて 世界的に日本人好みの魚種の乱獲が見られると聞きました。 一説では中国の東シナ海というのは水深が浅くて、 従来はあんまり海産物への関心が薄いとされてきましたよね。 フカヒレは歴史年代を通じて日本の三陸産が珍重され続けたとも聞きます。 <Shigeru Narabe 中国全体の魚食文化としては、鮮魚は淡水魚、海産魚介は 乾物でというのが伝統だったのではないかと思います。 沿岸では新鮮な甲殻類の料理もありますが、上海ガニでさえ 淡水養殖されたものが主力だと思います。 そのような中で「俵三品」と呼ばれた煎海鼠・乾鮑・鱶鰭は、 日本産が最高とされました。その伝統があって乾燥ナマコの取引単位パレットは 60kgで一俵がもとになっていると聞いたことがあります。 もっとも今の単価では1パレット5,000〜7,000万円くらいになりますので、 実際はもっと小口の取引も多いようです。・・・ っていうような様子で、いろいろ教えてくれるのでありがたい。
で、このやりとりの中で中国ってなぜか歴史年代を通じて、 それこそ遣隋使・遣唐使の時代から、日本の三陸海岸で獲れる 海産珍味をずっと希求していた事実があることに強く興味を持つ。 俵三品といわれるアワビ・ナマコ・フカヒレのほか、 昆布もまた、中国はずっと日本からの輸入に頼ってきたとされる。 どうも漁業というのは、それほどに日本の大きな資源なのかと 疑問がドンドンと膨らんできているのであります。 司馬遼太郎さんの書いた文章の中でも、 「中国人はなぜ漁業資源は自力更生しないのか?」 みたいな疑問が呈されていた。 まぁ日本の三陸海岸から北方は寒流と暖流が大遭遇する地球規模の漁場メッカ。 プランクトンが大変豊富で食味に優れた魚種は獲れるのでしょう。 しかしひたすら1500-600年もの間、輸入に頼るのはどういうことなのか。 漁業資源について詳しくはないのでいまだに疑問を持ち続けています。 地球規模での漁業の資源分布を勉強し直したい気分。 またふたたび、多くの人からお教えいただければと思っています。ふ〜む。 |
歴史探訪
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先日訪問していた「陸奧国分寺」見学時に感銘を受けていたのは |
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写真は今回の旅ではじめて渡った瀬戸中央道から四国を望んだもの。 |
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訪れる人もなく、庫裡に呼びかけても応答のない山深い古刹。 寺の紹介をWEBで調べたら、なにやら「鬼踊り」という奇祭で有名なんだとか。 そういう案内には「大みそか」開催も、ということでしたが、 そのような雰囲気はみじんも感じられない。 写真は「奥の院」とされている本堂の様子ですが、 なかには人気〜ひとけ〜は感じられず、数脚の椅子が円形状に置かれていましたが、 人間が寄り集まっていたというよりは、 どうも「鬼」たちがどうやって人間を捕まえるかの相談で盛り上がっていたような(笑) という不思議な「蓮花寺」を播州・三木の山奥で訪ねておりました。 今回の自分のルーツにまつわる探訪の地として 播州、兵庫県のあちこちを巡っていたのですが、 大みそかには、ここを訪れておりました。 わたしの家系伝承では、現在の姫路市英賀保周辺がどうもポイント。 そういった関係からほぼ相互に交流のあったのが 秀吉の中国攻略の最初の起点にあたる「三木城攻防戦」の三木市です。 堺・南宗寺の「徳川家康墓」の一件で別所長治さんとの縁が浮かび上がったので、 三木市周辺を調べてみたところ、わたしの家系が広島県福山市近郊・今津で 生きていた江戸後期、縁が深かった寺の名が「蓮華寺」と同音だったのです。 蓮華と蓮花とひと文字の違いがあるのですが、 これは単なる偶然の一致なのかどうか、非常に興味をそそられた次第。 で、訪問してみたら、真言宗という宗旨も同じだと知れた。 秀吉の播州平定によってこの蓮花寺は一山が焼き討ちされて灰燼に帰した。 英賀城も同様に秀吉によって潰滅させられた。 よく似た境遇であって、人的な結びつきも強かった痕跡が認められる。 英賀で敗残となった一族がやがて広島県福山近辺で同名の蓮華寺を 菩提寺にしたのに、なんの脈絡も無かったという方が不自然ではないか。 WEBでいろいろ調査してみていますが、今のところ、明瞭な手掛かりはない。 しかしこちらの蓮花寺は訪問してビックリですが、
役行者にも似たいかにも超人伝説を持つ「法道仙人」という渡来系宗教人が この寺を開基し、そういうのが大好きな空海さんもここで修行したという。 で、宗教者として空海さんが都で大成功を収めてのことが関係してか、 この蓮花寺も954年に村上天皇の勅命として醍醐山の菩提上人が再興したという。 一時期は寺領16町4面、18院33坊の大伽藍を容し隆盛を極めていたが、 天正7年(1579)の三木合戦の戦火で消失した。 現在の本堂、多宝塔、鐘楼、仁王門などは江戸時代に再建されたという。 まさかの想像を超える大寺院であります。 江戸期に再興されるだけの格式の明瞭な大寺であり、そのことを 同宗派の真言の寺院、今津・蓮華寺が知らないわけもないだろうと思います。 古い交通路では三木というのは中国路の要衝だったともされているので、 いわば「情報」業の側面の濃厚な宗教の方で無関心であろうハズがない。 ・・・う〜む、であります。 ナゾはコンコンと湧き出て止まらない(笑)。 年末休暇歴史ディープ旅、最後に至るまで深まりこそすれ、 いっこうに解明されることにはならない。むしろ、あらたな混迷が横たわってきた。 これは奥深い播州で、行方不明になりそうであります。助けて欲しい(笑)・・・。 ということで、きのうようやく見慣れた雪景色の札幌に帰還。 落ち着きを取り戻しながら、情報の整理整頓に立ち向かいたいと思います。 |
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あけましておめでとうございます。 北海道というのは「国宝」というのはまだひとつしかありません。 それも「中空土偶」という縄文時代の作品であり、 建築的なものではまだ、なにひとつ国宝の基準を満たすものはありません(泣)。 あと数十年も経過したら北海道発祥の「高断熱高気密」技術というものが 歴史的に有為なものとして、顕彰される可能性はあると思うのですが、 たぶんわたしが生きている間には、そういう日本国家の承認はないでしょう(笑)。 その場合、それがなにに由来するかという点も論議を呼ぶでしょうね。 日本の権威的国宝級建築とは、おおむねアジア世界からの輸入技術がベース。 そういう意味では北米北欧という「違う世界」から同様に思想は輸入したけれど、 しかし軸組構造という南方起源と思われる隙間の多い構造建築を 高断熱高気密化させた技術は独自の「進化」といえるでしょう。 なにしろ、冬の寒さを技術で克服したということは、空前絶後のことでしょう。 しかしそれが「文化」であると認証されるには、相当に時間が掛かる。 たぶんこういう評価が将来、あり得ると思って日々を暮らしております。 もしそうなると、その国宝的技術の「始原建築」を保護する必要があると思います。 しかし当面はそういった建築的な評価はニッポン文科省・文化庁的にあり得ない。 そういうことなので、国宝建築などは「内地」に見学に来ることになる。 なにをもって「文化」とするかの評価軸、根拠も見学させていただく次第。 今回の見て歩きでひときわオモシロかったのが、この古建築。 大阪府堺市の郊外型ニュータウンのなかに忽然とある古社であります。 戦国の戦火で多くの古社建築が焼失したのですが、 この鎌倉期と推定されている「拝殿」建築が遺り、国宝になっている。 そうと聞かされなければパスしてしまいそうなさりげない中にありました。 カタチはいたってシンプル。最近の平屋住宅ともプロポーションは通底する。 構造が「二重虹梁蟇股」で平行する2本の梁材が屋根を受けている。 その屋根には神社建築には珍しい「瓦」が乗っけられている。 そして画面中央の土間通路を通って本殿に参拝する「割拝殿」という形式。 さらに正面左右の建具は「桟唐戸(さんからど)」という当時の最先端技術仕様。 こういう古建築としてながく存続してきた外装として丹塗りが施されている。 北海道でも北欧の木造住宅建築の塗装形式が取り入れられて こういう金属を含んだ塗料が塗られている建築が多数ありますが、 洋の東西を問わず、こういった技術には普遍性があると思いますね。 新年はじめての投稿ですので、この建築ではじめようと考えました。
本年もどうぞよろしくお願いします。 |







