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マイブームの坂の上の雲 にちなんで紹介させていただくのは戦艦「三笠」です。 日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った有名な船です。 現在は、横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されています。 船の概要総トン数:15,140トン
全長:131.7m 幅: 23.2m 馬力:15,000馬力 速力:18ノット 所属:大日本帝国海軍連合艦隊 船の歴史日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍拡をすすめる。その中で『六六艦隊計画』(戦艦を6隻、装甲巡洋艦を6隻配備する計画)の一環として三笠は、敷島型戦艦の四番艦として建造されました。艦名は奈良県の三笠山にちなんで名づけられました。 戦歴1903年(明治36年)12月28日、三笠は連合艦隊旗艦となりました。1904年(明治37年)2月6日から日露戦争に加わり、8月10日には黄海海戦に参加した後、12月28日、呉に入港、修理の後、1905年(明治38年)2月14日呉を出港、江田島・佐世保経由で21日朝鮮半島の鎮海湾に進出しました。以後同地を拠点に対馬海峡で訓練を行いました。日本海海戦http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b8/MIKASAPAINTING.jpg/300px-MIKASAPAINTING.jpg1905年(明治38年)5月27日・28日には日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦し、三笠は113名の死傷者を出しました。 艦内には銅版により上の図の位置を表示 東郷平八郎の立ち位置に立つとこんな感じです。 ちなみにこの海戦は「トウゴウ・ターン」と後の歴史に名を残す敵前大回頭による「丁字戦法」によりロシアのバルチック艦隊に集中砲火を浴びせ見事に日露戦争を勝利に終わらせた結果となりました。 その後の歴史謎の爆発事故日露戦争終結直後の1905年(明治38年)9月11日に、佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没しました。弾薬庫前で、当時水兵間で流行っていた「信号用アルコールに火をつけた後、吹き消して臭いを飛ばして飲む」悪戯の最中に、誤って火のついた洗面器を引っくり返したのが原因とする説や下瀬火薬の変質が原因という説もあります。この事故により秋山真之(作戦参謀)が宗教研究に没頭するきっかけとなったされています。廃艦ワシントン軍縮条約によって三笠は廃艦が決定されました。。1923年(大正12年)9月1日には関東大震災により岸壁に衝突、浸水し、9月20日に帝国海軍を除籍させられました。軍縮条約により廃艦後は解体される予定だったところ、国民から愛された三笠に対する保存運動が勃興し、現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められ、1925年(大正14年)1月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定された。同年6月18日に保存のための工事が開始され、舳先を皇居に向け固定されることになり、11月10日に工事は完了し、12日に保存式が行われました。 ↑皇居を向いている舳先 意外な歴史太平洋戦争の敗戦後、日本が連合国軍に占領されていた時期にはソ連からの要求で撤去されそうになったり、アメリカ軍人のための娯楽施設が設置され、「キャバレー・トーゴー」が艦上に開かれるという状態にありました。さらに兵装や上部構造物は全て撤去され、取り外せそうな金属類はほとんどがガス切断により持ち去られ、チーク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされているという荒廃ぶりであったとされています。この荒廃ぶりをみたイギリス人がジャパンタイムスに投書したのがきっかけとなり、アメリカ軍人 チェスター・ニミッツが本を書き現在の姿に復元されたとされています。かつての敵国軍人によりその歴史が現在につながっていることは数奇な運命であるとともに海軍軍人の海を越えた友情を感じてなりませんね。 参考文献坂の上の雲『日本海海戦 海ゆかば』(1983年) そのほか「戦艦 三笠」についてはこちらをどうぞ。 |
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2009年10月26日
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