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毎回のようにコメントをいただいてる金曜の寒梅さんから、いろんなことを教えてもらっている。今回は、吉野弘さんという詩人の、すばらしい詩を教えてもらった。 |
文学
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小説を読まなくなってから、随分久しくなる。バルガス・リョサの『緑の家』を50頁程を読んでそのままにしたのが最後だから、もう2年近くにもなるだろうか。 リタイアして程なく志したのが、読み残している内外の長編小説を読破することだった。トルストイの『戦争と平和』と『アンナ・カレーリナ』を皮きりに、シェークスピアの主要作品、フローベールの『ボヴァリー夫人』、フォークナーの『八月の光』『アブサロム、アブサロム!』、マルローの『希望』など… 日本の作家では島崎藤村の『夜明け前』と『家』、志賀直哉の『暗夜行路』、そして漱石の『行人』、三島由紀夫の『豊饒の海』…こうした作品を読みとおした後には、何事かをなし終えた気さえしたものだった。 しかし、その後は哲学や宗教書の方に関心が向かい、小説を読んでみる気など全くといってよい程なくなった。ただ一つ漱石の『明暗』だけは、いつか必ず…と期してはいるのだが、はたしてその時間があるだろうか。 とはいっても、言語表現の極地というのはやはり詩や物語にあるのではないかという気もしている。『法華経』にしても『華厳経』にしても、そして聖書にしても宗教書であると同時に文学作品として書かれているように、宗教世界、その永遠の生命そのものが詩人や作家によって書かれることを求めているように思われるのだが…
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きのうの新聞の書評欄で、700頁にも及ぶという大部な森鴎外の史伝が紹介されていた。これを読みながら、鴎外に熱中していた頃のことを思い出した。 鴎外に熱中したのは、吉野俊彦という人の、サラリーマンとしての鴎外研究に導かれてのことだった。吉野氏もまた日銀に勤めながら、本業と鴎外研究との二足わらじを生涯履きつづけた人だった。 なかでも鴎外の、小倉左遷にいたる経緯の究明には、当時の自分の職場での体験に重ね合わせて貪るように読みふけった。鴎外のような巨人でも、このように苦悩と失意を体験してきていたのだということに、幾たびも慰められ、そして励まされた。 むろん近代日本語の、もっとも典雅な達成といえるその作品群にも惹かれたが、それ以上に、人間鴎外に学ぶところが多かったことから、私はついに13万円もする鴎外全集を予約注文することを思い立った。ところが、その全38巻がほぼ揃うようになった頃から、私の読書への関心が他の方へ移ることになった。 今もその全集のうちの、ほんの1作か2作かしか読んでいないが、今後の目標を仏教の勉強においている私は、おそらくこれからもそれを手にすることなく終わるだろう。漱石に比べ鴎外を人生の苦悩にはあまり眼を向けない、単に芸術派の作家として評する人が少なくないが、私にはむしろ、自分を実人生の苦悩から救ってくれた人として今も心に残りつづけている。
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きのうは、宗教的な究極の世界は詩や物語の言葉でこそ表現できるのではないかということを書いた。詩人宗教家でもある空海自身がそれを実測しているが、何しろ漢文で書かれているために私たちには容易にその真髄を理解しがたい。 それを現代人の私たちにも、味読させてくれるのが、宮沢賢治の作品である。この現代日本語の色彩やリズムを縦横自在に引き出せる天才詩人は、宗教的究極世界、宇宙の真実相をもののみごとに開示してくれる。 そのために、よく暗唱しては心に安らぎをもらっているのが、これまでにも何度か引いてきた次の詩だ。 わたくしという現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です 風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です 私という現象、自分の日々の営みというのは仮に設けられた一つの青い電燈の証明であるというのである。つまり一つひとつの無数の小さな電燈は、目には見えぬ宇宙の永遠の大生命である電流によって灯されつづけていると賢治は詠っているのだ。 |
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先日の新聞の書評欄に、へえっ、とおどろく一文があった。作家で大学教授の小野正嗣という評者が文学部の授業で、安部公房の名前を挙げても、「(?)顔の学生ばかり」というのだ。 私たちの若い頃には、安部公房といえば、日本の前衛文学の最先端を走る作家として、一作ごとに文学ファンの注目を集めていた。私も熱心な読者として、『砂の女』を初め、大方の作品を購読している。 一時はノーベル賞の候補にもノミネートされていたと聞くが、三島由紀夫はこの作家をかつての横光利一のように将来は読まれなくなるだろうとの評を下していた。新聞の書評を読んだとき、この三島氏の評を思い出した。 確かに安部公房の作品は、戦後の日本の社会や人間の一断面に細い一直線のスポットライトを当て、それを描き出す文体はあくまで知的で、硬質だ。三島や大江健三郎氏のように豊麗なイメージや鮮烈な感覚には乏しいところがあり、それだけに今の若い人たちにはかつてのような熱い関心の的ではなくなっているのだろう。 とはいっても、安部作品の前衛性は、単に見かけの真新しさ、当時「カフカ張り」と呼ばれた表現法の新奇さに留まるものでない。そのスポットライトは、今も変わらぬこの国の社会や人間存在の深部にまで届いていると思うのだが…
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