リタイアライフ満喫中

リタイアライフは、毎日が黄金の時間。その満喫感をありのままに綴ってみます。

文学

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少女の優しさ

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毎回のようにコメントをいただいてる金曜の寒梅さんから、いろんなことを教えてもらっている。今回は、吉野弘さんという詩人の、すばらしい詩を教えてもらった。

その「夕焼け」という詩を知らなかったなどというのは恥ずかしいくらいの、よく知られている作品のようだ。詩の改行を勝手にするのは許されないことだが、あえてそうして下に全行を紹介させていただこう。

いつものことだが 電車は満員だった。
そして いつものことだが 若者と娘が腰をおろし としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って としよりに席をゆずった。そそくさととしよりが座った。礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は座った。別のとしよりが娘の前に横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。しかし 又立って 席を そのとしよりにゆずった。としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は座った。二度あることは と言う通り 別のとしよりが娘の前に 押し出された。 
可哀想に 娘はうつむいて そして今度は席を立たなかった。次の駅も 次の駅も 下唇をギュッと噛んで 身体をこわばらせて――。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて 娘はどこまで行っただろう。
やさしい心の持主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる。何故って やさしい心の持主は 他人のつらさを自分のつらさのように 感じるから。やさしい心に責められながら 娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで つらい気持ちで 美しい夕焼けも見ないで。

やさしい詩で、どの行にも現代詩に見られるような難解の語は一語たりともない。しかし、全行を読み終えた後には、「下唇をギュッと噛んで 身体をこわばらせて」いる少女の姿が周囲の一切から屹立して、思い浮かんでくる。

少女の思いは、まるで今にも崩れそうなガラス細工の小さな建物のようだ。あるいは、今にも流れ落ちそうな、瞼にからまった大粒の涙のような…

電車のなかでのこんな少女の姿は、誰もが一度や二度は見かけた光景ではないか。そして大方の人によって見過される一少女の姿が、この詩に書かれることによって、いつまでも人の心に残りつづける、永遠の少女となった。

小説を読まなくなってから、随分久しくなる。バルガス・リョサの『緑の家』を50頁程を読んでそのままにしたのが最後だから、もう2年近くにもなるだろうか。

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リタイアして程なく志したのが、読み残している内外の長編小説を読破することだった。トルストイの『戦争と平和』と『アンナ・カレーリナ』を皮きりに、シェークスピアの主要作品、フローベールの『ボヴァリー夫人』、フォークナーの『八月の光』『アブサロム、アブサロム!』、マルローの『希望』など…

日本の作家では島崎藤村の『夜明け前』と『家』、志賀直哉の『暗夜行路』、そして漱石の『行人』、三島由紀夫の『豊饒の海』…こうした作品を読みとおした後には、何事かをなし終えた気さえしたものだった。

しかし、その後は哲学や宗教書の方に関心が向かい、小説を読んでみる気など全くといってよい程なくなった。ただ一つ漱石の『明暗』だけは、いつか必ず…と期してはいるのだが、はたしてその時間があるだろうか。

とはいっても、言語表現の極地というのはやはり詩や物語にあるのではないかという気もしている。『法華経』にしても『華厳経』にしても、そして聖書にしても宗教書であると同時に文学作品として書かれているように、宗教世界、その永遠の生命そのものが詩人や作家によって書かれることを求めているように思われるのだが…

苦悩の底で…

きのうの新聞の書評欄で、700頁にも及ぶという大部な森鴎外の史伝が紹介されていた。これを読みながら、鴎外に熱中していた頃のことを思い出した。

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鴎外に熱中したのは、吉野俊彦という人の、サラリーマンとしての鴎外研究に導かれてのことだった。吉野氏もまた日銀に勤めながら、本業と鴎外研究との二足わらじを生涯履きつづけた人だった。

なかでも鴎外の、小倉左遷にいたる経緯の究明には、当時の自分の職場での体験に重ね合わせて貪るように読みふけった。鴎外のような巨人でも、このように苦悩と失意を体験してきていたのだということに、幾たびも慰められ、そして励まされた。

むろん近代日本語の、もっとも典雅な達成といえるその作品群にも惹かれたが、それ以上に、人間鴎外に学ぶところが多かったことから、私はついに13万円もする鴎外全集を予約注文することを思い立った。ところが、その全38巻がほぼ揃うようになった頃から、私の読書への関心が他の方へ移ることになった。

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今もその全集のうちの、ほんの1作か2作かしか読んでいないが、今後の目標を仏教の勉強においている私は、おそらくこれからもそれを手にすることなく終わるだろう。漱石に比べ鴎外を人生の苦悩にはあまり眼を向けない、単に芸術派の作家として評する人が少なくないが、私にはむしろ、自分を実人生の苦悩から救ってくれた人として今も心に残りつづけている。

詩のすばらしさ!

きのうは、宗教的な究極の世界は詩や物語の言葉でこそ表現できるのではないかということを書いた。詩人宗教家でもある空海自身がそれを実測しているが、何しろ漢文で書かれているために私たちには容易にその真髄を理解しがたい。

それを現代人の私たちにも、味読させてくれるのが、宮沢賢治の作品である。この現代日本語の色彩やリズムを縦横自在に引き出せる天才詩人は、宗教的究極世界、宇宙の真実相をもののみごとに開示してくれる。

そのために、よく暗唱しては心に安らぎをもらっているのが、これまでにも何度か引いてきた次の詩だ。

わたくしという現象は                         
仮定された有機交流電燈の                       
ひとつの青い照明です     
風景やみんなといっしょに 
せはしくせはしく明滅しながら 
いかにもたしかにともりつづける  
因果交流電燈の 
ひとつの青い照明です                        

私という現象、自分の日々の営みというのは仮に設けられた一つの青い電燈の証明であるというのである。つまり一つひとつの無数の小さな電燈は、目には見えぬ宇宙の永遠の大生命である電流によって灯されつづけていると賢治は詠っているのだ。

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先日の新聞の書評欄に、へえっ、とおどろく一文があった。作家で大学教授の小野正嗣という評者が文学部の授業で、安部公房の名前を挙げても、「(?)顔の学生ばかり」というのだ。

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私たちの若い頃には、安部公房といえば、日本の前衛文学の最先端を走る作家として、一作ごとに文学ファンの注目を集めていた。私も熱心な読者として、『砂の女』を初め、大方の作品を購読している。

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一時はノーベル賞の候補にもノミネートされていたと聞くが、三島由紀夫はこの作家をかつての横光利一のように将来は読まれなくなるだろうとの評を下していた。新聞の書評を読んだとき、この三島氏の評を思い出した。

確かに安部公房の作品は、戦後の日本の社会や人間の一断面に細い一直線のスポットライトを当て、それを描き出す文体はあくまで知的で、硬質だ。三島や大江健三郎氏のように豊麗なイメージや鮮烈な感覚には乏しいところがあり、それだけに今の若い人たちにはかつてのような熱い関心の的ではなくなっているのだろう。

とはいっても、安部作品の前衛性は、単に見かけの真新しさ、当時「カフカ張り」と呼ばれた表現法の新奇さに留まるものでない。そのスポットライトは、今も変わらぬこの国の社会や人間存在の深部にまで届いていると思うのだが…

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