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信仰と思い込み

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私の周囲にも、ほんの少数だが、深い信仰心をもっている人がいる。その人たちのなかには、その信仰心が単に思い込みに過ぎないのではと思えるようなことも…

信仰とは、神仏なりその教えなりを一心に崇敬し、帰依することといっていいのではないか。とすれば、それは単なる思い込みとどう違うのか、傍目には容易に見分けがつきにくくもなる。

信仰が単なる思い込みではないものになるためには、その信仰しているものを一度対象として外から見なおしてみることも必要ではないかと思っている。科学者が対象を外から何度も観察・観測し、その上で誰にも納得のいく結論を出すように…

むろん、それだけで終わるのであれば宗教学者にはなり得ても、深い信仰心をもつまでには至らないだろう。世には膨大な宗教書を渉猟し、その研究成果を発表しながら、この人の信仰心はどうなのだろうと疑問に思える学者も少なくない。

「イワシの頭も信心から」という里諺があるが、一度その信仰に凝り固まれば、イワシの頭のようなものさえ神仏に等しきものに見えるのだろう。そうならないためには、信仰心と科学的認識とは車の両輪のような関係であるべきだと思っている。

やっぱり、疑問が…

これまで3つ務めていた地域の役が、昨年度末でいずれも終わった。代わりに、お寺の世話役が廻わってきた。

年に2回、お正月とお盆の前に、御初穂料を檀徒から集めて廻わるのがその仕事だ。お盆前の今回は、夏初穂とも麦初穂とも呼ばれていて、2、3日前から各戸を廻わっていた。

お寺の暮らしを支えるために、かつてはお正月とお盆の前に、実際にお米や麦をお布施していた名残りなのだろうか。こうした私たち檀徒からのお布施を財施といい、それに対してお寺側から私たちに向けられるお布施を法施というそうだ。

ついさっき、その御初穂料を納めにいったとろだが、前後して各地域からもお布施をもった世話人が次々に集まってきた。住職さんさんを囲んでしばらく雑談の時間になったが、住職さんからの仏法に関するお話はついぞ聞くことができなかった。

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住職さんにしたら、後日各戸の仏壇前で読経することをもって法施と考えているのかもしれないが、法施とは単に読経だけではなく、私たち一般衆生に「法を説いて聞かせる」ことではないか。キリスト教における聖書のように、仏教の中心にお経が置かれていないことに、やはり疑問を感じないではいられない私である。

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この不思議さ!

仏教の各宗派には、それぞれ常用経典というのがある。葬儀や法要の際に、檀那寺の住職さんによって、唱えられているお経である。

私がいま真言宗や密教のお経の勉強に熱を入れているのは、自分の葬儀には必ず唱えられ、そしてそれによって見送られることになるお経くらいは知っておきたいためである。ところが、わが真言宗では、性の楽しさを讃えているために「秘密経典」とされる『理趣経』がこの常用経典に選ばれているのである。

常用経典といえば、たいていその宗派の尊んでいる経典や宗祖の主著などから採られるのが普通である。浄土真宗では、祖師親鸞の主著『教行信証』中の一節「正信偈」、日蓮宗では『法華経』中の「方便品」や「寿量品」が選ばれているように…

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それなのに、真言宗では、なぜ空海や密教の主要経典ではなく、性の経典『理趣経』が選ばれているのだろう。そしてさらに不思議なのは、大方の真言宗の信徒がこの事実を知らず、したがって何ら疑問にも不思議にも思っていないことである。

しかし、この不思議さは、実は他の宗派とも共通していて、その根っこには、まず耳で聞いただけではほとんどすべての人に何をいっているのかも理解できない漢訳仏典、あるいは「正信偈」のように漢文で書かれたお経がそのまま唱えられていることである。自分や家族の葬儀にどんなお経が唱えられているのかチンプンカンプンでよしとする日本人…返すがえすも不思議な国民であると思う。
藤原道長という、この世の栄華をきわめた人がいた。その道長も晩年に至っては、阿弥陀如来への念仏一筋に生き、たとえばある年ある月の日記には「○日11万辺、○日15万辺、○日14万辺、○日13万辺、○日17万辺」などとその日唱えた念仏の回数を記している。

臨終に際しては、自ら建立した阿弥陀堂内にこもりきり、北枕で西方浄土に向いて臥したままに息を引きとったという。それだけでは足りずに、そこに安置した阿弥陀如来の手に5色の糸を通し、そして自らもそれを握ったままに…

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これを聞いて、現代人なら、死の恐怖に駆られた道長の他愛のない幻想・妄想に過ぎないと一笑に付す人も少なくないのではないか。単に人が作った仏像に、そんな導きの力などあるはずがない、第一極楽浄土なるものもあるかどうか分からないとして…

しかし、当の道長にしてみれば、それこそ本腰本気で、阿弥陀如来からのその糸を握りしめていたのではないか。そして日に何万回も念仏を唱え、その糸引き如来に死後の一切を托した道長の信仰心には、一片の嘘いつわりもなかったのではないか。

極楽浄土への信仰に限らず、どんな宗教・宗派の信仰も、必ず神や仏の実在への自らの内感・内証を主体にするものだ。しかし、それを単なる思い込み、独りよがりのものとしないためには、外からの目・科学知による絶えざる見直しも必要だと思っている。

言葉では?

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仏教には、言語道断といって、その奥深い真理というのは言語をもってしては教えられない、伝えられないという考えがある。仏教に限らず、他の宗教でも、その究極の真理、そこに到達した境地というのは、言語を越えた世界であるとされているようだ。

禅宗では、それゆえに、経外別伝とか不立文字とかいって、お釈迦様の悟りの境地は言葉や文字によらずして、各自の体得によってしか得られないとしてきた。しかし、只管打坐を説いた道元自身は、その自らの悟りの世界を伝えるべく実に多くの著作を著わした。

空海もまた然りで、「法は言葉では言い表せないが、言葉によらずしては顕せない」とその著にはっきりと書いている。そしてその自らの悟りの境地を伝えるべく、私たちのために夥しい著作を残してくれている。

言葉というのは、確かに物ごとを分別し、色分けし、ある一面だけに光を与えることになるために、世界の全体、その絶対相を捉えるには不十分だ。しかしたとえ完全ではないにしても、そこに近づき、そしてそれを自分独りのものとせず、他の人たちとも共有し合うためには、最も有力な手立てといえるのではないか。言葉を読み、言葉を探し、そして言葉を綴る営みは、自分のみならず、すべての人の救いにつながる努力だと思っている。

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