気ままにエッセイ

2012年、混沌から新しい時代へ...

生活・文化・人生

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夕立

日課のように午前中は畑に行く。このところの日照続きで地面はからから。20坪の畑に1時間かけて水を撒いたら雲行きが怪しくなり雷鳴とともに夕立がやってきた。確かに天気予報は10時ころ「雨」になっていたが、不安定な天気でどうなるか分からなかったので取りあえず水だけは撒いておこうと思った。折角の労働?が無にはなったが、それでも雨はありがたい。雨あがりを待つまで小屋で計算してみた。10mmの雨が降ると20坪(66m2)で何と660kgの雨が降るのだ。最近局所的な豪雨で100mmなんて話をきくようになったが、これをわが畑に当てはめると6600kg、6.6tである。もし、水の逃げ場がなければ、畑ののトマト、ナス、キュウリ、ピーマン、オクラ、ゴーヤ、カボチャそれに夏場の葉物として作っているツルムラサキ、モロヘイヤ、オカワカメ、スイスチャードさらにはまだ残っている小玉スイカがみんな圧死してしまう。幸い水のはけ口があったとしても、それは所詮自分のところが助かるだけで、必ずどこかにしわ寄せが生じる。100mmというのは、そう考えれば、とてつもなく異常だ。生きることを拒否されたも同然だ。そして、その雨を降らせているのが人間の所業の結果だとすれば(仮にそうではなくても)やはり我々は自然の前に跪いて、この地上で生きる許しを請う必要があるのかもしれない。

お金なんて

今日、帰途の電車のなかでふと見上げたら本の広告が目に入った。いわく「金持ちになる人、貧乏になる人...13万部突破」。いまどき日々の生活のために必死に働かねばならない人は従来にも増して多くなっているのだろうとは思う。だから、貧乏であるよりはよりオカネを稼ぎたいと思うのはこれまた道理で、そのことについてとやかくいうつもりは毛頭ない。が、広告を見た瞬間、なんと時代遅れな事を言っているのだろうと思った。本の内容はもちろん知らない。勝手な想像が頭のなかをぐるぐると回り、ガラガラポンと出てきたのだ。要はひとつの側面に囚われた価値観の貧しさを哀れに思った、ということなのだろう。オカネを稼ぐ上で失うもの、貧乏であるが故に得るものは必ずあるはずである。が、両者ともそれぞれに失うものと得るものに心が行き届いていないところに現代の不幸の原因の一つがある...そのバランスの欠如が社会の歪みを生み出している、のだと。「貧しきものは幸いである。」
ブログを休眠状態にしてから、はや1年以上経ってしまった。何かを書きたい衝動は、その後、ツイッターへ向かったのだが、それもまたイライラ感がつのり最近ちょっと距離を置き始めた。ということでフラフラとここへ舞い戻ってきたのだが...これまた長続きするのやら...
ツイッターは確かにスピード感がある。フィルターはない。だから何か一般のマスゴミが報道しない情報をキャッチするには格好のツールであることは認めざるを得ないだろう。が、何かを伝えたい、訴えたいと思う人たちにとっては、帯に短し、の世界であり消化不良を常に起こしてしまう。さらに言えば、140字ほどの短さ故に、そこが感情の吐き捨て場所に陥りやすいということもあるだろう。日頃の不平不満をぶちまけ賛同者を得ることに快感を覚える。そして、そこで思考は停止する。というか、そもそも思考が働いていないから感情の発散しかできない。あるいは、深読みすれば、この極端に短い字数制限は、一般大衆に悟られずに、思考能力を殺ぐ巧妙なツールになっているのではないかという危惧すらある。世の中にはアタマのよいヤツはゴマンといるのである。ネットの世界が不可避であればむしろ積極的に使う、という発想は為政者側から必ず出てくる結論である。ツイッターの利便性を吹聴しながら一方で一般大衆の思考能力を弱めることができれば、支配者にとってはネットが敵対的な存在からむしろ有効な支配ツールに大化けしてしまう。
そんなことを妄想しているうちにツイッターへの興味も色褪せ路頭に迷いフラフラとここへ立ち寄ってしまった。が、これからどうなるのやら自分でも分からない。

本当の便利さ

 パソコンを立ち上げワードを開けば直ぐに文章が書ける。入力ミスをしようが書き間違いをしようが紙を無駄にすることなく簡単にできる。夕食のメニューに困ったらネットで何でも紹介してくれる。その時の好みにあったものを難なく探せる。楽になったものである。
 しかし便利さと引き換えにしているものに我々は案外無頓着である。手で書くことを止めてから人は漢字が書けなくなった。漢字が書けなければ書き直しができなければ手紙も億劫になる。個性あふれる字体から伝わってくる雰囲気で相手の様子を想像する言外のコミュニケーションに浸ることもなくなった。認知症の原因かどうか不明だが手で書くことによる悩の活性化も捨てた。冷蔵庫の余り野菜を上手く使って一品作ろうとか素材の特徴を研究しながらオリジナルレシピを創造しようなどという気力も遠のいてしまう。
 考えてみれば今巷にあふれている便利さには常にリスクが付き纏う。それは社会的なものであったり身体的機能を損なうものであったりする。手足に代わる便利さで肉体的機能が鈍化するなかで反射的笑いを誘う番組ばかりを観ていると脳みその働きまで単純化してしまいそうで怖い。
 もちろん便利なものを100%否定する気はさらさらないが、たとえリスクを弁えていたとしても負の面を補うことなく結局は表面の便利さに押し流されてしまうのが人間の性(さが)でもある。結果、人間らしさを求めていつの間にか人間らしさを失っているとしたらこれほどの滑稽はない。ではリスクのない本物の便利さがあるかといえばこれまた容易くは見つかりそうにない。いっそのこと人間らしさを取り戻すために便利さを捨てたらと思ってもやはりできない相談である。人間どこまでいっても雁字搦めである。

農BODY 悩S

 養分もないかわりに病害虫もいない真っ新な土壌に教科書どおりに堆肥を施し化学肥料を入れて始めた家庭菜園も二年目の夏を迎えた。最初の年は何でもよく出来た。追肥に化学肥料を入れれば2〜3日後には作物が目に見えて元気になる。大きく育った野菜を収穫できて素直に嬉しかった。
 が、一方で有機栽培が心の片隅に引っかかっていた。農薬も化学肥料も使わない。確かに農薬に対する不安、不信感が関心を集めるひとつの理由であろう。しかし何故化学肥料を使わないのだろう。TVや新聞などのマスコミからは本当の理由らしきものは聞こえてこない。そんな折、一冊の本にめぐり会った。以来、化学肥料は極力使わずに、が我が菜園の方針となった。
 家庭生ゴミで堆肥を作る。発酵、熟成が不十分であれば虫が湧く。供給量と熟成時間の関係で十分な肥料が畑に行き渡らない。畝により出来不出来が違う。隣の畑と比べると生長が遅い。化学肥料の誘惑に駆られる。病害虫は化学肥料を使おうが使うまいが関係なくやってくる。除草剤などは当然使わないから雑草は取っても取っても切りがない。有機栽培ですべてが片付くわけではない。どこまで行っても農に悩みはつきもののようである。
 それでもこの悩みはストレスとは無縁のものだ。もちろんプロとしてやっているわけではないから生活を賭けねばならないプレッシャーはない。悩みとは自然と向き合わされる悩みである。ひとが忘れていた悩みである。ひとが自然の一員になれていないことを思い知らされる悩みでもある。たとえば、アブラナ科の葉物は放っておけば100%アオムシに食いつくされる。野菜が生長できないとすれば自然の摂理に反することになる。これは一体どういうことだろうか。少なくても何かが間違っていることだけは確かである。品種改良された野菜が自然に適合するものではなくなったのか、土壌が悪いのか、肥料が悪いのか。アオムシを農薬で殺すのは対処療法の西洋医学と同じで根本の原因に向き合っていない。
 農に悩みはつきものだがゴールがないわけではない。自然にある野菜や果物には肥料がない。それでも十分に育つのである。それが自然の摂理である。自然のなかで取れた野菜は腐らずに発酵する。いかにも健康に良さそうではないか。本当の農でできた身体に悩みなし、である。
 今、社会は積み重ねて来た歪みに苦しんでいる。だが、今さら後戻りはできないと人はいう。新たにルールを作りシステムを作れば乗り越えることができるはずだと人はいう。医者が病状を診て処方箋を書くようなもので根本を見直す気はなさそうである。しかし、農を生活のなかに取り入れることによって原点への後戻りは容易にできる。ひとは本来どうあったか。太陽と雨の恩恵に感謝しながら土と虫と、そして野菜と向き合い、日々身体を動かしていれば悩みも喜びに変わる。そんな素晴らしい世界が農にあることをNOBODY KNOWS.

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