気ままにエッセイ

2012年、混沌から新しい時代へ...

囲碁

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

囲碁と美

 最近の碁はやたらと激しい。碁の世界戦ではこのところ日本勢はほとんど勝てない。韓国、中国がいまや世界の最先端をいっていると言っても過言ではなさそうだ。その韓国や中国のプロは攻め重視の碁を打つ。どこの世界でも同じだろうが強ければ人気が集まる。アマは直ぐに真似をする。
 確かに弱い石は攻めのターゲットにされる。昔は、{まずは守りなさい。しかる後に相手の弱点をついて攻めなさい。}と教えられたものである。だから高段者ほど自分の弱石に注意を払う。というより弱石を作らないことに専心する。しかし、勝負の世界の過激さか時代の反映か、最近の傾向は相手を倒さねば勝ち組になれないとばかりに攻撃に命をかける。大きくフロシキを広げ相手が侵入してきたら厳しく攻撃する。恐れをなして近寄らなければ効率よく大きな地をまとめる。そこには弱者になってはいけない、強者になってこそ利益を享受できるのだ、という風潮が滲み出ているようで何か大事なものを捨て去ってしまった空虚感のようなものさえある。が、それを感じさせないほどに碁は過激さを増している。ちょうど相撲が強ければよいというだけのプロスポーツに成り下がってしまったかのように。
 弱い石とは建築で例えれば安普請の家である。必要に迫られての安普請もあるだろうが、安普請といえども普通は損得勘定ぐらいはしておくものだ。安普請なら相応の修繕費が必要である。事前に正しく見積もりをし、正しく請求されたら正しく支払をする。それで損得勘定は機能する。
 碁も本来同じはずだ。弱石が攻められたら必要な代償は払わねばならない。それを正しく全体の収支予算に盛り込むことができるかが問題なのである。攻撃は石組みの瑕疵を正しく追及することである。凌ぐことは正しく代償を払うことだ。正しさに欠ければどちらかが損をする。勝敗を左右する。冒頭の攻撃碁と結果は似ているが決定的に違うところがある。それは、攻めによってより有利な利益を得ようとする姿勢がないことだ。代わりに調和がある。調和こそ碁の本質なのだ。調和だとすれば碁は美であり美学の対象となりうるのである。強者の論理を追求するゲームに碁を貶めてはならない。

囲碁の上達

 65歳の友人がいる。囲碁の腕前は初段前後くらいだろうか。普通、この年になると上達を望むよりは仲間と楽しくやれればよい、と思うものだ。いわゆるザル碁に近い状態になる。来る日も来る日も同じような相手と打っては、大石を取った、取られたと大騒ぎをする。これもまた楽しからずや、ではある。
 が、彼は違う。強くなりたいという。あと、2〜3子は強くなりたいと。ある日、定期的に打っていただけませんか、と迫ってきた。有無を言わせぬその迫力に、つい軽く、いいですよ、といってしまった。では何時にしましょうかと、ここで逃げられたら大変だとばかりに、畳み掛けてくる。ご近所であれば縁台ザル碁という手もあるが、電車の距離ではそれも適わない。そこでインターネットを使って定期的にやろうということになった。便利になったものである。棋譜のダウンロードを使い、それにコメントをつけることも可能である。
 もっと厳しいコメントをください、と彼の情熱は過激なほどである。ハイ、ハイとコメントをたくさん送るのだが、ある時、ここは手抜きをしてこちらに打ってはいけませんか、と逆に質問をしてきた。その瞬間、強くならない原因が分かったような気がした。囲碁は相手の打った手の意味をどれほど理解し、それに対してどれほど適切に回答できるかのゲームである。相手の着手にお構いなく自分の打ちたいところに打つのはコミュニケーションが取れていない証拠である。相手の着手の意味が分からなければ、そこを、何故、ともう一段突っ込んで考える習慣をつけることが上達への、実は隠れた大事な秘訣なのだ。だからいくら技術を学んでもある程度までいくと上達が止まってしまう。
 ザル碁であっても相手の手に反応して打つわけであるから、コミュニケーションが成り立っているように見える。しかし、それは本能的な反射のようなもので推敲を重ねた文学作品のような洗練された会話ではない。強くなる人の碁は見た目にザル碁と近いようではあっても人間とサルほど違うのである。

ひっぺがし

 勝負事というものは常に決断を迫られるものである。そして、一度決断したらその結果について全て責任を負わねばならないものである。囲碁は芸(術)であり最善を目指すことに意義があるとする(そこに究極の調和の美があるとする)見方もあるが、一般的にはやはり勝負事のひとつであろう。その囲碁において、ときどき「ひっぺがし」という、既に打ってある石を引き剥がして他の着点に打つ行為がある。勿論、プロに限らずアマチュアとて許される行為ではない。反則として即、負けになるが、戯れに気の置けない同士がやっている場合はまだしも、案外、碁会所などで見かけることがある。普通は目くじらを立てるほどのことでもないのだが。
 「まった」と言って相手の石まで「ひっぺがし」させる人や自分で打った石をすぐ取り上げる「ひっぺがし」などなど色々あるが、どうもこの種の人には何かしら共通点があるようだ。幾つかある。
・囲碁は勝負事であることを自覚していない。
・自分を律しようという気持ちが全くない。
・自分の着手に責任を持たない。
・相手の態度によって変えようとする。
・良くても悪くても自信を持って打つという気概がない。
などなど。潔さのかけらも見えなくて、怒る以前に可哀想な人だと同情してしまいそうだ。
 と、ここまで整理してきたら、ある事に気がついた。近頃の政治家の言動やら答弁とよく似ている、ということである。「間違っていました、訂正します」では長たる以前に勝負師にすらなれない。囲碁のほうは最近はインターネットで打つ機会が増えて、ひっぺがしも難しくなったが、政治の世界はいつまで経っても堂々巡りを繰り返しているようである。

ボナンザとやら

 将棋ソフトの世界では大変なことが起きているらしい。囲碁愛好家としても看過しづらい話題である。一昔前、チェスの世界チャンピオンがスーパーコンピューターに敗れて話題になった。当時、囲碁や将棋はチェス(相手の駒を取っても使えない)に比べてその複雑度は段違いであることからコンピューターが肩を並べる、あるいは勝つなどということは想像できなかった。
 ところが、である。パソコンソフト「ボナンザ」は低段のプロを相手に大善戦をしているらしい。とうとう、渡辺竜王が引っ張り出されて公開対局をやることになってしまった。将棋は全くの素人で、よく分からぬが、その対局はあと一歩のところまで竜王を追い詰めた。まさに心胆寒からしめたようである。
 ソフトは、アルゴリズムにもよるのだろうが、単に過去のデータの蓄積だけでは勝負になりようがない。したがい、一手の価値を正しく評価する技法を収得しているに違いないと思われるのであるが、そうなるといずれ将棋名人がパソコンに敗れる日が来ることになる。将棋のプロは将来どうなるのだろう、などと他人事ながら心配になったりもする。
 では、囲碁の場合はどうか。あまり使ったことがないので分からぬがせいぜいアマの初段ぐらいであろうか。昔、大胆にも囲碁ソフトを作ろうとした経験からすると、それでも途轍もないほどの進歩といえる。同時にプロを凌ぐようなソフトは絶対にできないと信じているのだが、将棋の例もあるのでどうなることか分からない。
 それでも万一のときのことを考えて屁理屈は用意してある。それは、囲碁は「手談」であり会話を楽しむもの、ということである。会話がある限り、それは正しく人間の営みであり、楽しみであり、またボケ防止にも役立つのである。

ハンディキャップ戦

 アマチュアのスポーツやゲームではハンディキャップは相手とのレベル差を調整して同等に楽しむため手段である。例えばゴルフでハンディが5の人と20の人が一緒にラウンドする場合は、HCは15になる。同様に囲碁の場合も初段と六段が対戦する場合は五子のHCとなり、初段の方は5個、石を置いてからのスタートとなる。どちらも同じようなものだが、先日七子の碁を打っていてふと気が付いた。似ているが全然違うものであると。
 ゴルフは、基本的に個人プレイである。相手のプレイ時間が長いとか、見るに耐えないスィングとかで精神的に多少の影響を受ける可能性もあるが、ひたすら自分のベストを尽くすのがゴルフである。相手が誰であれ日頃の実力を発揮すればHCでバランスが取れるから、会話が楽しければ相手は誰でも構わない。
 一方、囲碁のほうは若干、状況が異なる。碁は手談とも言われるので対談に例えれば、レベルが合わなければ話が合わないとばかりにHC戦を嫌う。あるいは普通に戦うと置石の相乗効果で置石が増えるほど苦戦を強いられる。そのためついつい無理をして自滅することが多くなるので嫌う。これだけなら話は簡単であるが、実は先がある。
 ゴルフはどんな技術を持ち合わせていようが頂いたHCは、相手が誰であれ関係なく、そのままスコアにつながる。ところが囲碁の場合はそこが違うのではないかと気が付いたのである。どういうことかと言うと・・・
 囲碁の段級位は布石、中盤、終盤、ヨセなどの総合力が評価されて決まる。そのなかには技術的な要素もあれば構想力や考え方もある。(ゴルフもアイアンやウッドやパターの技術、戦略などの総合力だ。)同等レベルの人と対戦する場合はゴルフ同様バランスの取れた勝負になるだろう。しかし、置石が増えてくると様相が変ってくる。七子もあると相手の勢力は強大であるから、平凡に打っているとあっという間に敗勢になる。ではどうするかというと、重い石を作らないこと、相手の弱点をひたすら狙いつつ自分の石を強化すること、このふたつに尽きるように思う。強くなってくるとわかるが碁は重い石と弱い石を作るとすぐに非勢になる。この考え方が強くなるうえで極めて重要なのだが、置碁においては正にこの能力が一番問われるのである。同じ段位でもこの考え方を実践できるひとのほうが置碁は上手いはずだし、上達も早いはずである。
 囲碁のハンディキャップ戦は、ゴルフなどのようにレベルを調整して同等に楽しむだけではなく、下手にとっては指導を受ける良い機会であり上手にとっては囲碁の打ち方、本質に気付かされるすぐれた修練の場なのである。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事