東洋の英傑「八重の桜の会津武士 柴 五郎大将」
宮司は、坂の上の雲の「秋山好古・秋山真之」兄弟も好きだが、歴史の上であまり知られていない八重の桜の「柴五郎・柴四郎」も大好きで、尊敬している。
会津桜のように潔い「柴 五郎」は「静かなる英雄」です
柴五郎は、会津若松落城のときは10歳でした。
柴 五郎
柴五郎氏は萬延元年五月三日(新暦・1860年6月21日) 會津藩士柴佐多蔵の息、男五人、女四人の九人兄弟の五男として生まれた。尚、東海散士の筆名を以て政治小説「佳人之奇遇」を著し、後に農商務次官・外務參政官を勤めた柴四郎氏は實兄である。
八歳で會津藩校・日新館に學ぶが、戊辰の戰亂のため、日ならずして休校。西軍の若松城下侵入に先立ち、郭外の澤集落に在つた柴家の山荘へ難を逃れたが、西軍が會津城下へなだれ込んで來るに先立ち、母、祖母、姉妹、嫂の五人を自刃で失い、屋敷は焼失した。
戊辰戰爭後、新政府により藩主・松平容保と全家臣が東京や越後高田で謹愼の身となつた。
明治二年、會津松平家は再興を許されたが、領地として舊・領内の猪苗代湖畔、若しくは北奥の舊・陸奥南部藩領のいづれか三萬石を提示された。その際「農業により領地の財政基盤を築け」との條件が有つた爲、農業に有利である思はれた領地の廣い北奥への移住が決定された。
新しい藩名は「斗南」と命名され、舊藩士と家族一萬七千人餘りが移住したが、其處は火山灰土の風雪嚴しい、不毛の土地であつた・・・。下北半島の北邊の額面上は一萬二千石の領地であつたが、實質的な石高は僅か七千石足らず、藩士の半分以上が脱藩したとは云へ、舊領の三十分の一以下の石高で、だうして藩士達を養へと云ふのか・・・。實に生き延びる事すらも難しく、榮養失調で頭髪が抜け落ちる程であつた。戰火で多くの肉親と財産全てとを喪ひ、故郷を追はれ、時に零下二十度を下回る風雪をも凌ぎ得ぬ陋屋で、ひたすら縄をなゐながら、飢ゑと寒さに耐えた辛酸の日々であつた。
明治33年(1900年)に北京で義和団事件が起こり、各国大使館は義和団に包囲されましたが、籠城戦で大活躍したのが日本の柴五郎中佐です。
また、義和団鎮圧後に各国は掠奪、暴行の限りを尽くしましたが、日本軍はそのようなことをせず、規律正しかったため、この後の日英同盟に結びついています。
司馬遼太郎著「坂の上の雲」ではこのことが少ししか書かれておらず、秋山好古と柴五郎は士官学校の同期で、秋山真之とは米西戦争の観戦武官としてキューバで一緒だったことが書かれています。
柴五郎は会津の出身で明治元年(1868年)の会津若松落城のときは10歳でした。
幼い頃は「キンネン五郎」と呼ばれ、珍しいくらい大人しい子供だった。
戊辰戦争のとき五郎は大叔母の家におり、難を逃れましたが、母ら女性らは会津城下におり、官軍が攻めてきたときに全員自刃して果てました。
会津藩は降伏し、城内にいた父と兄は東京へ送られ、翌年五郎も東京へ護送されました。
その後、土佐藩の公用人宅に学僕として住み込み、さらにその後、旧会津藩の藩士らは下北半島の斗南へ流され、五郎もそこへ行きました
劣悪な環境化で凍死、餓死するものが次々とでました。
「武士の子たるを忘れたか。会津の武士ども餓死して果てたるよと薩長の下郎武士に笑われるのは、のちの世までの恥辱なり」
こう父親に叱責され想像を絶する生活に耐えていきます。
明治4年(1871年)、五郎は青森県派遣の給仕に選ばれたのをきっかけ人生が急展開し、東京に行き、明治6年、陸軍幼年学校に入学しました。
このとき秋山好古と同期になります。
その後、陸軍士官学校に進んだ五郎は諜報員になることを目指し、明治17年には清国駐在となり大陸を念入りに調べていきます。
このことが義和団事件の北京籠城にあたって大きな力になったといわれています。
日清戦争後は台湾総督府の陸軍参謀、ロンドンの公使館付き陸軍武官を経て明治31年(1898年)に米西戦争の折にアメリカに行き、秋山真之と一緒になります。
明治33年(1900年)義和団事件が勃発。
各国公使は協力して義和団にあたることになりましたが、総指揮をとったオーストリアのトーマン中佐の判断ミスによりオーストリア兵が逃げ出すという失態がおこり、イギリスのマクドナルド公使が総指揮をとることになりましたが、軍人出身のマクドナルド公使は柴五郎の才能を見抜き、5カ国の兵の指揮官を命じます。
どのような苦境にあっても冷静沈着な柴五郎の指揮と日本兵、義勇隊の活躍に籠城の各国兵士は士気を鼓舞され、どの国の武官も柴五郎の指揮下に好んで入るようになり、すべての作戦計画は柴五郎に裁可が求められるようになりました。
柴五郎は諜報員としての得意の密使を使い天津の日本軍と連絡をとり、55日の籠城戦を持ちこたえました。
「義和団鎮圧」の名誉は日本兵に帰すべきである、と推しも認めている。
日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に値するものであり、かつ他の追随を許さない」
明治37年(1904年)日露戦争が勃発。柴五郎は砲兵連隊を率いて従軍。
日露戦争後はロンドンに着任し、少将に昇進。
日英同盟に関する協議に参画します。
明治44年(1911年)、上海に派遣され、辛亥革命の諜報活動にあたります。
その後も軍人として活躍し中将に昇進し、大正8年(1919年)、陸軍大将に昇進しました。
会津藩は賊軍や逆賊とさげすまれた歴史があり、会津藩出で陸軍大将に昇進したのは初めてのことでした。その5年後に引退。
昭和16年(1941年)真珠湾攻撃の際の自筆の略歴
「万歳を叫び、狂喜感涙するのみ」
昭和20年(1945年)敗戦のときの柴の日記
「玉音を拝承し、悲憤激昂、生を欲せざらんとす。さきに戦局の順調なる時に生の終わりざりしを恨む」
「国のために生きた自分の使命は終わった。かくなるうえは、潔く武人としての最期を飾りたい」
同年9月15日に切腹を計りますが、老体とあってうまくいかず、致命傷には至りませんでしたが、その傷がもとになり12月13日帰らぬ人となりました。
享年87歳。
柴五郎さんは1900年に清国に駐在武官として勤務している時に北清事変(義和団事件)が起こり、清国の暴徒が各国の大使館を取り囲んだ。柴さんは清国公使の西徳次郎さんの下で居留民保護にあたり、また他国軍と協力して60日に及ぶ籠城戦を戦い、各国の居留民を無事に守った。
そして、その功を称えられる。五郎さんは北京城やその周辺の地理を調べ尽くし、更には間者を駆使した情報網を持っていた。そういう事から、北京の事情通であった五郎さんは各国篭城部隊の実質的司令官であった..
事変後、柴さんはイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。ロンドンタイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。
柴五郎さん、当時の世界に誇る日本人で会津人であった.
昭和二十年(1945年)、太平洋戦争が終った年の十二月十三日、柴五郎は八十七歳の生涯(しようがい)を閉(と)じて永遠にこの世を去りました。軍人としての道を歩みましたが、戦争の悲惨さ、戦争に負けたもののみじめさをよく知っている柴五郎は、もっとも平和を愛していた人でもあったのです。
「会津のはじをそそぐまでは…………」と父にさとされた言葉を忘れず、柴五郎は一生武士道・会津魂を持ち続け、心の底に
↓↓ ↓ ↓ ↓
|