|
第七部「ヤマトタケルのまほろば」
産経新聞連載・記事紹介
2016年7月17日 「東征帰路」④〜⑧
◇ ◇ 〈本州九筋ヨリ他国に通ズル路九条アリ( 中略)、皆ナ酒折ニ路首ヲ発起ス〉 江戸時代の地誌『甲斐国志』酒折の地が、九つの街道の起点となる要衝と説明する。「九筋」とは駿河への若彦道や武蔵への青梅街道、信濃への逸見(へみ)路など中世以前の古道のことだ。
「酒折宮が物語の舞台になっていることは、道を造りながら地方を平定していくヤマトタケルの役割をよく表している」山梨大の大隅清陽教授はそう語る。 大和政権の伸張が甲斐を起点に行われたことは、前期古墳時代に東日本最大規模を誇った甲斐銚子塚古墳があることでも推論できる。
「大和王権にとっては、甲斐もまた、東方に進出するための、重要な前線基地だったのです」
◇ ◇ 甲府市酒折は現在、「連歌 発祥の地」と呼ばれ、この地にある山梨学院大は酒折連歌賞を主宰する。酒折連歌は、「五七七」の音数を問答する形を基本とし、ヤマトタケルと御火焼の老人(みひたきのおきな)の問答形式にのっとっている。 「新治(にひばり) 筑波(つくは)を過ぎて 幾夜(いくよ)か寝つるか」 「かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日」 記紀がそろって書き残す問答歌について、酒折連歌賞実行委員会の川手千興顧間はこう話す。 「ごく単純な問答に見えるが、その中にヤマトタケルの体験が凝縮されているように感じます」 酒折は江戸時代甲斐藩主、柳沢吉里が定めた『甲斐八景』の一つとして、和歌にも詠まれた名勝だ。その地で、歌に取り組む川手氏はこうも話す。 「歌うことは心に潤いを与えること。ただ勝どきを上げるのではなく、これまでの道のりを回顧したヤマトタケルは、豊かな文学的素養も持っていたのでしよう」 甲斐銚子塚古墳 四世紀後半に甲府盆地に造営された全長一六九㍍の前方後円墳。石室の構造や貝輪などの副葬品が、大和王権との密接な関係を示す。同様の古墳は信濃、甲斐、駿河に分布しており、この南北ラインを四世紀の王権の勢力圏東限とする.見方もある。 副葬品の三角縁神人車馬鏡は、岡山県の備前車塚古墳 (四世紀初頭)などと同范 (どうはん=鋳型が同じ)の鏡。大伴武日連とともに副将格で東征に随行した、吉備武彦との関係が指摘される。被葬者を、酒折宮がヤマトタケルの問答相手と伝承 する塩海足尼(しおみのすくね)とする説もある。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用








日本武尊まで遡りませんが、祖父の実家が甲府です。甲斐源氏を名乗りますが、大元は奈良県に居たのですが決起した時の200騎の中の1騎。そうは言いましても直接の家来ですから部下200を従えてです。甲斐源氏です。こちらの記載は時代は違っても流れや移動が一致して居ます。きっとこの時分からそう言う文化が有ったと考えるのが自然です。とても良い記事ですね。ナイスポチします!
2016/7/25(月) 午後 5:47
> aki12mariさん、こんばんは。
ご訪問コメントありがとうございました。そうでしたか?武士の源流と言えば、清和源氏と桓武平氏に大別し、征夷大将軍。いわゆる「将軍職」は源氏しかなれなかったようです。北条氏が何代にも及ぶ執権職で終わったのは、平家の出自だったからだとか、窺っています。
わが家系を紐解くと、本家の系図には、宇都宮氏の流れをくむ関東武士の一族とされ、源平合戦の砌り、西国に遠征していつの頃か土着して様です。母方は平家の落人が人里離れた深山で隠れ住んでいた末裔のようです。
ナイスポチに感謝です。
2016/7/25(月) 午後 8:29 [ らくがき楽ちん ]
酒折宮の連歌の話は旅先で知りました。
らくがきさんにもコメントを頂いていますが、
その記事にトラックバックさせていただいました。
2016/7/26(火) 午後 9:01
> Komoyo Mikomotiさん、おはようございます。
ご訪問コメントありがとうございました。そうですか。まだそのトラックバックは見ていませんが、これから愉しみに見せていただきます。こもよみこもちさんのウオーク旅と重なる部分もありそうですから。
2016/7/27(水) 午前 9:56 [ らくがき楽ちん ]
こもよみこもちさん、コメント続けます。
なるほど、ということは、武田信玄も柳沢吉里も花岡花子も、ヤマトタケルと同様に同じ峠に立って、このみばらし台から甲府の町を見下ろして、眺望を楽しんでいたということが想像できそうですね。ありがとうございました。
2016/7/27(水) 午前 10:09 [ らくがき楽ちん ]