|
結論から言うと天孫降臨は
高天原=壱岐・対馬にいた海人族の高皇産霊尊率いる一軍が
九州に上陸を果たしたという史実に基づいて
創作された説話なのではないかと思っている。
高皇産霊尊ではないにしても、
なぜ天照大神本人ではなく天孫瓊瓊杵尊が降臨しなければならなかったのか。
古事記には理由が述べられている。
天照大神は始め、
「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、
我が子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国ぞ。」
と言っているので、
長男の天忍穂耳命に征服させるつもりだったようだ。
天忍穂耳命は途中の天の浮橋からながめてみると、
水穂の国は騒がしくとても自分が行けるような状態ではないと
恐れをなして高天原に戻ってしまう。
そこで天照大神は高皇産霊尊に命じて、
水穂の国の騒ぎを治めるように指示する。
それが国譲り神話と呼ばれる説話になっている。
国譲りの交渉をしている間にかなりの年月が流れたようだ。
国譲りが決まり降臨する段になると天忍穂耳命は、
「僕は降らむ装束しつる間に、子生れ出でつ。
名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能瓊瓊杵命ぞ。
この子を降ろすべし。」
と語っている。
国譲り交渉が難航したために、
降臨する時期が一世代遅くなってしまったらしい。
なぜ天孫が降臨することになったかということに
これだけの言い訳をしているとみることもできる。
天孫にしなければならない本当の事情は8世紀の近畿天皇家にあったようだ。
歴代後継者争いを続けてきた近畿天皇家では
持統帝以来直系相続を模索するようになる。
持統帝は自分の腹を痛めた草壁皇子の即位を切望していたと言われている。
そのために天武帝の評価が高かった大津皇子を
濡れ衣を着せて国家反逆の罪で抹殺した。
さすがの持統帝も大津皇子処刑の直後に
草壁皇子を即位させることはためらったようだ。
周囲の情勢を整えてから平穏に譲位するつもりだったのかもしれない。
しかしそうこうしているうちに草壁皇子は早世してしまう。
自分の血統を残すことに強い執念をもつ持統帝は
草壁皇子の息子の軽皇子を即位させることに路線変更せざるを得なくなる。
「孫への譲位」、
その正当化のために造られたのが天孫降臨説話だったのではないだろうか。
古事記の選録献上は712年だが、
天孫降臨説話の原型は、
697年の軽皇子への譲位=文武帝即位の頃には
出来上がっていたのかもしれない。
天孫にしなければならない事情は
記紀が完成する頃にももうひとつあったようだ。
707年文武帝が崩御した後、
文武帝の母親である元明帝が即位する。
元明帝即位は直系相続を維持するため、
文武帝の息子の首皇子が成人するまでのつなぎの方策だったのだろう。
古事記の完成はまさに元明帝の治世の間だった。
天孫降臨は元明帝にとっても
孫の首皇子即位を正当化するための大義名分であった。
もちろん裏で画策していたのが藤原不比等であることは言うまでもない。
|
国譲り・天孫降臨
[ リスト ]








こんにちは。
出て来ましたね。不比等。 ☆!
記紀を編纂した、担当者、その当時、倭人伝や書物をよく読んで勉強していたのでしょうね。横から不比等に注文つけられながら、よく書いたと思います。
作り話を書かされた編集者たち、何か重大な真実というものを、一つくらいこっそりと綴ってくれたら、思いました。
記紀さんなら、読み取れると思いますが、そんな説話を聞かせてもらうと嬉しいです。
2012/9/3(月) 午後 1:33
さんせいさん、こんにちは。
日本書紀の神代巻は一書が充実しています。
本文は不比等の意向のまま書かざるを得なかったのでしょうが、
多いのは第十くらいまで一書が残されています。
多すぎて目移りしてしまうほどです。
本文以上に時間がかかります。
2012/9/3(月) 午後 5:29 [ 記紀いっぱつ ]
天孫降臨(伯耆国説)があることも忘れないでください。http://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/
2012/12/13(木) 午後 10:51 [ 古代史が好き ]