のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

壬申の乱

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吉野を出発して丸二日たった6月26日の辰時(午前8時頃)、
大海人皇子一行は
朝明郡(あさけのこほり)の迹太川の辺(とほかはのへ)に到着した。
ここで大海人皇子は、
「天照大神を望拝(たよせにをが)みたまふ。」とある。
前夜、三重郡家において
「山部王、石川王並びに来帰れり、故、関に置らしむ」
との鈴鹿関司の急使の報告に対して、
帰還した迎えの使者の路直益人(みちのあたひますひと)は
無事に大津京を脱出できた大津皇子の一行を同行してきた。
「関に置らしむ」のは山部王、石川王ではなく、
大津皇子の一行だった。
 日本書紀ではここで大津皇子と合流して、
「天皇(まだ実際には天皇ではない)、大きに喜びたまふ。」
さらに腹心の村国連男依が早馬に乗ってやって来て、
「美濃の軍勢3000人によって不破道を閉鎖することができた。」
ことを報告した。
壬申の乱において天武帝側の大きな勝因の一つとして、
美濃をはじめとする東国の勢力を味方につけることができたことが挙げられるが、そのために伊勢神宮が果たした役割が大きかったのだろう。
乱後、皇室が伊勢神宮と緊密な関係を築き、
皇祖神として伊勢神宮=天照大神を崇め奉るようになったのも、
この時の伊勢神宮の貢献が影響していると言われている。
大津皇子と合流した大海人皇子は「大きに喜びたまふ」とあるが、
先に積殖の山口で高市皇子と合流した時には、
日本書紀はその事実を記述しているだけである。
とくに大海人皇子の感情については伝えていない。
大津皇子に対する強い思いが現れているのではないだろうか。
(日本書紀の編纂者は大海人皇子が大津皇子を後継者に考えていた
と認識していたということではないだろうか)
 
大海人皇子は、
朝明郡(あさけのこほり)の迹太川の辺(とほかはのへ)で、
 
●大津皇子と合流することができた。
●懸案の不破道閉鎖が成功したという報告を聞いた。
●この時点で東国勢力の協力を取り付けるめども立った。
 
近江朝廷との戦を有利に進める準備が完了した。
 
四日市市大矢知町の南端、斎宮(いつき)の地には
「天武天皇迹太川御遙拝所跡」の標石が立てられている。
ここには幹周り約9㍍、樹齢500年を超える
「天武天皇のろしの松」がある。

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