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【秀作論文「志賀海神社の八乙女について」】
安曇族に関する史料をPCで探していたら、
興味深い論文を見つけることができた。
作成年代はわからないが、
北九州大学文学部人間関係学科石橋利恵さんが書いた
「志賀海神社の八乙女について」。
この論文の第三章第二節に「聖なる数字”八”」があり、
志賀海神社で、「八」が大切にされていたことが書かれている。
【「八」を大切にした安曇族】
昨日拙ブログにブロ友のはぎのおさんが、
「八つの耳きく」が志賀島の枕詞になっていることを教えてくれた。
石橋さんは論文の中で、
「志賀島は『八ずくし』と言われるほど、
『八』という数字が重要な意味を持つ。」
としたうえで、「八」にからんだ例を列挙している。
【志賀島で「八」を尊んでいる具体的な事例】
●「八つの耳」が志賀島の枕詞となっている。
はぎのおさんのご指摘と同じ。
神武帝の皇子の一人とされている神八井耳命との関連性が気になってしまう。
●志賀の神は八尋のカメに乗って現れる。
●島の松は八万年も青々と茂る。
●歩射祭(1月15日)で使うワラは新ワラを八束×四組計三十二束作る。
●締める縄は八を二で割る四本を一束にする。
●的の直径は八寸(鯨尺)で、八つの耳(飾り)が付く。
●射手が八人。
●助手格の矢取の少年が八人。
●祭りの世話役が八人。
●矢篠(矢にする竹)を切る日が一月八日。
●矢の数は八×六=四十八本。
●射手の潔斎食の吸い物の身は豆腐一丁を八×三=二十四分割した一切れ。
●ブリのエラで作った八本の剣をお守りにする。
●前日の十四日に沖津宮の禊の後に供えるダイダイが八個。
志賀島で「八」を尊ぶ由来については、
神功皇后が朝鮮に渡る時に、
中西八軒が船を明日からだと言われているという。
中西八軒とはこの地域の漁師の家のことだろう。
【「八」の名を持つ八面大王】
この地域から発して拡散し安曇野に住みついた一群が
「八」を大切にしたことは想像に難くない。
後に近畿天皇家に追われて逃げてきた九州王朝の天子を
「八面大王」と称して崇め奉っていたとしても不思議なことではないだろう。
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八面大王
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(^。^)、
志賀島はドライブで行ったことがあります。
彼女を載せてレンタカーで(^_^;) 不純な動機です。
石橋さんの論文少し読ませてもらいました。
学部は違いますが私の後輩ですね。私が九州に思い入れが深い理由です。
八乙女など調べたこともありませんが、志賀島が元なんですね。
わが町に、戦後しばらくまで、女性神楽の八乙女舞があったのですよ。
古写真もあります。祖父や父が生きてたら詳しく聞くことが出来たのに、今となっては、、、
町誌に載っていないか調べてみます。必ず関係があると思います。
2013/6/18(火) 午後 8:11
さんせいさん、こんばんは。
私の従妹(松山市出身)も同じ大学に通っていました。
学生運動はなやかなりしころで、中退したと思いますが。
出雲にも八乙女舞、やはり安曇族の気配もあるのでしょうか?
何か新情報があればぜひ教えてください。
私も何度か海の中道を通ったことがありますが、
さんせいさんの不純動機の実践場所だとは知りませんでした。(笑)
2013/6/18(火) 午後 8:48 [ 記紀いっぱつ ]
アズミ族は8を神聖な数としていたのではないか。八坂刀売命をはじめ安曇野にもたくさんの八がある。八ヶ岳などもそうだね。志賀の名前についてはどうやら縄文人は鹿を神聖なものととらえていた節がある。そのあたりにも名前の由来があるのでは?
2015/5/17(日) 午前 2:03 [ gos**ka ]
> gos**kaさん、コメントありがとうございます。
2015/5/17(日) 午前 4:29 [ 記紀いっぱつ ]
こんにちは、有明山を調べて、彷徨い続けてここにたどり着き一つの結論を見つけたかもしれません。
日本傳説叢書の一説に『登里奴命が祭られてをり、昔は、毎年八月八日を・・』この様に書かれていますが、現在の有明神社では八月八日もとりやっこのみことも出てきません。
2016/4/28(木) 午後 5:31 [ hangdog ]
> hangdogさん、コメントありがとうございます。
九州と信州の結びつきは驚くほどです。
お役に立てて光栄です。
2016/4/28(木) 午後 7:09 [ 記紀いっぱつ ]
> 記紀いっぱつさん
ところで、この登里奴命ですが、どこを探しても見当たりません
九州でこのような名前を持つ伝承があるのでしょうか
2016/4/28(木) 午後 7:13 [ zin*e7*9*87064* ]
> zin*e7*9*87064*さん、
寡聞ですので、「登里奴命」は知りませんでした。
有明山神社も現在では記・紀に登場する神様に替わっているようなので、
元々のご祭神の中にいたのでしょうか。
2016/4/29(金) 午前 6:52 [ 記紀いっぱつ ]
すみません、説明足らずでした。日本傳説叢書 信濃の巻 に以下の記述を見つけました。
「有明山の正東、裾野の一部に、?薩?薩として巨巌の累積する一奇勝とりやつこがあるが、ここには、登里奴命が祭られてをり、昔は、毎年八月八日を期して、巨岩の前の芝原で、里人相會し、登里奴命を祭ると稱へて、仰いで有明山を遙拜した慣例であつたものであるさうだが、後世、神林社殿附近に造營して、有明神社と號へることとなり、祭日は依然八月八日に行われてをつたが、維新の際に、陽暦九月八日となり、その後又、付近の諸社を合祀した際、十月八日といふことに變ぜられた。」
ここから、この神様は九州の神様では無いかと感がえた次第でした。
2016/5/6(金) 午前 10:12 [ hangdog ]
> hangdogさん、
現在の有明神社の東側に「魏石鬼の岩屋」と呼ばれる横穴墓が現存しています。「巨巌の累積する一奇勝とりやつこ」と共通すらかもしれません。八面大王の墓だと言われています。
2016/5/6(金) 午後 1:54 [ 記紀いっぱつ ]
こんにちは
いくつか心当たりのある場所を見に行ってみようと思います。
あとは宮司さんに確認するなどですかね?
こういう傳説の様なものを調べるのは面白いですね。
ありがとうございました!
2016/5/7(土) 午前 9:58 [ hangdog ]
> hangdogさん,
成果を聞かせてください。
2016/5/8(日) 午前 8:18 [ 記紀いっぱつ ]
こんにちわ
調べた結果を報告します。(まだまだ中途半端ですが)
まず、登里奴命(とりやっこ)ですが、現在では鳥奴(もしくは鳥居奴)として安曇野市の史跡になっていました。今は赤松林の鬱蒼とした場所で、有明山は見えませんが、当時は柴原でここから眺めていたのでしょう。残念ながら登里奴命と書かれた岩は現在では見つかりませんでした。どこかにあるのか、人為的に片付けらたかは分かりません。おそらくこの神様は安曇族が来る前の土着神だったと思われます。(諏訪大社で言うところのミシャクジ?)現在では有明山社の旧社地との石碑が立っています。安曇地域には有明山社と有明山神社と二つあります。それぞれ神様が違い、(被ってはいますが)なぜ安曇族系の有明山社が廃れる一方で、有明山神社はあれ程の豪華な装飾が可能であったか、魏石鬼の岩屋の上に建てられたお堂の屋根に、十六菊紋と下り藤に桔梗の紋が付いているのが、今の疑問です。
2016/6/7(火) 午後 5:55 [ hangdog ]
> hangdogさん、おはようございます。
「とりやっこ」の写真が載っているブログがありました。ご存知だとは思いますが。
→http://love.exblog.jp/22550782
おっしゃるように土着神だったものを、安曇族が尊重したのかもしれませんね。
「魏石鬼の岩屋の上に建てられたお堂」自体は後世の建造物ということでしょうか。
2016/6/8(水) 午前 6:27 [ 記紀いっぱつ ]
こんにちわ
お堂はどうやら八面大王の祟りが恐ろしく後世に建てられたらしいですが、その年代、誰が建てたかなど現在調べています
2016/6/8(水) 午後 0:40 [ hangdog ]
> hangdogさん、こんにちは。
何かおわかりになったらぜひ教えてください。
2016/6/8(水) 午後 1:14 [ 記紀いっぱつ ]